百億円とレンタル時間

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 感情など皆無、性行為のみの関係、それでよかった。それがよかった。先の短い僕からすれば、恋愛感情ほど不必要な感情はない。だから、身辺整理をした時に、必要のなさそうな感情も一緒に捨ててきた。はずだった。  とにかくもう、心がざわついて仕方ない。  いつもの自分を取り戻すため、さっそくに取りかかってもらう。  パーソナルチェアに腰を下ろして脚を広げる。僕自身をさらけ出し、あとは女に身を委ねた。が、無理だった。ある特定の感情が、自分の意思とは関係なく僕を支配し始めたのだ。この女のことが、無性に欲しくなった。欲しいと言うのはつまり、そのままの意味だ。  女の口から、精器を抜き取った。 「名前を、聞いてもいいか?」  女は、拍子抜けしたかのような顔で僕を見上げている。 「……レナです」 「それは知ってる。本名」 「え……」  戸惑いを隠せないさまが、僕の心を刺激する。 「教えたくない?」 「いえ、その。そんなこと聞かれたのは初めてなので、驚いただけです。でも、どうして名前なんか?」 「知りたくなったんだ。あなたのこと」 「──春妃(はるひ)、です」  女の、春妃の手を取り立ち上がらせた。そのまま、いつもの客室ではなく、寝室へ連れて行った。 「今日は、僕がしてもいいかな?」  春妃は、答える代わりにこくりと頷いた。ベッドの端に並んで座る。もうずいぶん前からいきり立っている僕自身は、早く彼女の中に入りたくて仕方ないのに、体を重ねることだけがしたいわけではないのも事実で、だから単純に、困っていた。 「……あの、どうかしたんですか?」 「いや、その。僕がさっき言った、あなたのことを知りたいって、それの意味、まだ言ってないから」  彼女に向き直り、一旦性欲を抑え込む。 「残された僕の人生は、もう長くはない」  瞬間、春妃の顔が歪んだのを僕は見逃さなかった。 「はずだった……」  そこまで話すと、怪訝な顔のまま固まっている。  事実、本当にそのだった。  僕は、自分の運命を受け入れ、延命治療は望まず、ここで独り、静かに最期を迎えようとしていた。けれど、祖母の遺してくれた百億円と、例の名刺のおかげで死ぬことはなくなった。  僕は今、「時貸屋」に時間を借りている。レンタルプランは至ってシンプル。二十四時間を百万円で借りられるプランのみだ。  あの日、「時貸屋」でサインをした何語とも分からない契約書の内容を簡単に説明すると、今を反復して借りられるというものだった。僕だけの時間が反復するのであって、僕以外の世界がどうにかなってしまうということはない。僕はずっと、僕だけの今という時間の中で生きていくということだ。つまり、レンタル料金を支払い続ける限り、半永久的に生きられるのだ。  僕なんかの一般的な考えの程度を超越し、物理的という言葉が存在しない世界でのやり取りに戸惑いはしたけれど、祖母からの誕生日プレゼントだと思えば、ありがたいの一言だ。ただ、今を反復して生きるということは、半永久的に生きられたとしても、僕の病気が治るということはないというのも事実だ。それでも、唯一の家族だった祖母が亡くなり、自分の人生すらも終わろうとしていたのだから、恐れるものなどなかった。  ──恋人にそうするかのように春妃の体に触れ、彼女の甘い声に溺れた。 「もう、他の男に抱かれるのはやめないか?」  困惑した顔に、唇を重ねる。 「僕は、この先も生きていくことになって、もう少し生きたいって思って、そんな時あなたに出会って、まぁ、出会い方は普通じゃないかもしれないけど。とにかく僕は、あなたに惹かれた」  客から突然告白され、戸惑わない訳がない。しかもお互い裸という、非日常すぎる状況だ。 「──僕の病気は治らないけど、今より悪くなることもない。だからつまり、僕が言いたいのは、あなたにそばにいてほしい」  この歳になって初めて告白をした。  今まで、わざわざ僕から女に言い寄るようなことはなかった。そんなことをせずとも、女の側から言い寄ってきてくれた。大半が金目当てなことも分かっていたけれど、それに慣れてしまうと、それがちょうど良かった。僕の女に対する価値観は、二十歳そこそこで形成された。後腐れのない関係。固定概念にも似たそれが、まさか十年経って覆されるとは思いもしなかった。  春妃を玄関で見送る際、返事は後日改めてでいいとめちゃくちゃ格好をつけて言ったけれど、本当は余裕など全くなかった。  自分の死に直面し、惰性で生きてきた人生ががらりと変わった。生きることと生かされることの違いを、今ようやく見出せた気がする。  僕に生きたいと思わせてくれた彼女が連絡をくれたのは、あれから一週間ほど経ってからだった。まずはお友達から、そんなお決まりの台詞に、どれだけほっとしたか分からない。今日は、春妃がここへ来る。仕事ではなく、友達としてだ。今朝届いたばかりの彼女の分のパーソナルチェアを、僕のそれの隣に並べた。 完
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