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低いうめき声と共に、僕の吐き出した欲のかたまりを、女が喉の奥で受け止めた。手慣れているのがよく分かる動作で、僕の方のあと始末をしながら、僕の顔を見上げて微笑んだ。正直、美人と呼ぶには何かが少し足りないような気がする。茶色い切れ長の目が、どこか日本人離れして見えるのは、すっと通った鼻筋のせいだろう。つまり僕が言いたいのは、この女の顔がめちゃくちゃ好みだと言うことだ。
客室のベッドへ移動し、バスタオルを敷いた上にいつものように大の字で寝転がった。そこでも僕が特別何かを指示することはない。僕を満足させてくれれば、店は通さず個人的に報酬を支払うということを事前に伝えてあるからだ。
今まで色んな女がこの別荘にやってきた。あからさまに現金な女や、何か勘違いをしているお高くとまった女、報酬額に怖じ気づいて仕事にならない女など、多種多様と言うか、バラエティーに富んだ、と横文字混じりで言った方が可愛げがありそうだ。そんな、バラエティーに富んだ女の中で、今、僕の体に触れている女は、どこか不思議な雰囲気を纏っている。
女がしている仕事への偏見は一ミリもないけれど、それなしではこの女のことは何ひとつ語れないのかもしれない。そうなると、世間には理解されがたい事情を抱えているはずだ。と、それこそ偏見を含んだ目で女のことを観察していた。矛盾する自分に、口元だけで笑った。
僕の胸に舌を這わせ、時折上目遣いで僕に視線を投げかける。いったいどの感情でそうしているのだろうか。どこか悩ましくもありながら、それ以上にとても生を感じる。何と言うか、人生を諦めていない人間の目だ。
祖母が残してくれた遺産について、少しばかり話を戻そう。祖母からもらったお小遣いと共に、弁護士から渡されたものがもう一つあった。それは、一枚の名刺だ。真ん中に折り目のついた、とても綺麗とは言えない状態のそれには、全く見覚えのない社名が書かれていた。弁護士に聞いても、名刺についての詳細は何も聞かされていないと言っていた。
「株式会社 時貸屋」
古書店に並んでいそうなタイトルの名刺には、社名と電話番号、たったそれだけしか書かれていなかった。住所やホームページアドレスはもちろん、メールアドレスすら載せていないのはなかなか珍しいと言うか、時代錯誤が過ぎる。とは言え、怪しいとか、怖いとか、そういった類いの感情は全くなく、サプライズ好きの祖母が残してくれたものなのだから、間違いなく面白いものだという確信しかなかった。
僕はすぐ、名刺に書かれている番号に電話をかけた。
コール音はするけれど、相手が出ない。先にネットで調べてからでもよかったと思ったけれど、今さらだ。電話が繋がっているのだから、会社なり建物なりは存在しているだろう。
普段ならとっくに諦めて切っているところだけれど、もう少しだけ、もう少しだけと辛抱強く待っていると、突然コール音が止み、「時貸屋です」、女性の声でそれだけを言われた。すぐに反応するも、相手は黙っている。咄嗟に、何か合言葉のようなものを言わなければならないのだろうかと考えるけれど、思い浮かぶわけがない。電話を切られてしまう前に、祖母から名刺をもらったことを伝えると、何を理解したのか、今から教える住所に来るように言われた。何時何時とも、そこへ行けば何があるのかとも、さらには電話の相手は名前すら名乗らなかったけれど、好奇心しかなかった。
弁護士には相談しなかった。
時貸屋に連絡をした翌日、僕は朝一の新幹線で東京へ向かった。東京駅に到着後、すぐに駅前に並んでいるタクシーに乗り込んだ。昨日教えてもらった住所をそのまま伝えると、タクシーの運転手が「烏兎ビルですね」と言った。伝えた住所の正解が分からない僕は、とりあえずの返事をした。
見覚えのあるオフィス街を走りながら、窓の外を見るともなく見ていると、しばらくしてタクシーがスピードを落とした。大通りを左折して、一方通行の路地へと入っていく。タクシーの運転手はこの辺りを熟知しているのか、ナビを見ることもなく右へ左へとハンドルを回している。
路地の中を十分ほど走ったところで、赤いのれんのラーメン屋が見え、こんなところに、と思った。年季の入ったのれんの下には、準備中と書かれたプラスチックのプレートがかかっている。
ラーメン屋の手前でタクシーが止まり、周りを見回しながら支払いをしていると、「そこのビルですよ」、とわざわざ運転手が教えてくれた。
ラーメン屋の真隣にある五階建ての雑居ビルに、金色の文字で烏兎ビルヂングと書かれている。レンガ造りの建物の窓には、テナント募集中と書かれたプレートが貼られているところもあった。それも、いつから貼られているのか、随分と色褪せている。
若干の入りずらさは否めないけれど、それは建物自体に対してであって、僕の好奇心が削がれることはなかった。
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