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ビルの外観を舐めるように見回してから、中へ足を踏み入れた。次の瞬間、突然の耳鳴りに思い切り顔をしかめた。それをどうにかやり過ごしながらエレベーターを探すけれど、そんな気の利いたものはなかった。幅の狭い階段を、一段一段上っていく。
五階まで上がると、廊下の突き当たりにそれらしき表札が見えた。近寄ってみると、いったいいつからそこにあるのか、読むのもやっとなほど緑青がひどい。そこには、「時貸屋」と書かれていた。
不自然なほどにつやのある焦げ茶色の木のドアを、迷うことなくノックした。すると、軋む音と共にドアが開いた。中にいる誰かがそうしてくれたのかと思ったけれど、ドアは数センチ開いただけでそれ以上は動かなかった。どうしたものかと思いながらも、様子を伺うように「おじゃまします」と言いながら、ドアの隙間から体を滑らせるようにして部屋の中へと入った。
驚いた。このビルの外観からは、まさかこんなにも部屋の中が広いとは想像もつかないだろう。
株式会社と言うよりも、ここがどこだか知らなければ誰もが本屋だと勘違いしそうなほど、壁一面、天井まで本がぎっしり並んでいる。壁だけでなく、部屋の中央にも本棚があり、そこの本は、並んでいるというよりも、もはや押し込まれていると言った方がいいだろう。「時貸屋」と言う名前を見た時に、古書店に並んでいそうなタイトルだと思ったのも、あながち遠からずな気さえしてきた。と、入口付近に立ったままでいると、部屋の奥から一人の女性が現れた。「いらっしゃいませ」と言ったその女性は、僕のことを手振りで中へと通した。会釈をし、本棚の間をすり抜けて奥へ進むと、アンティークの両袖デスクが置かれていた。
対面してそれぞれが腰を下ろす。
聞きたいことはたくさんあったけれど、それよりも、僕の想像を遙かに越えた話が次々と繰り広げられ、質問どころではなくなった。一文字も聞き逃したくなくて、いつの間にか必死に聞き入っていた。
一通りの話が終わると、女性が立ち上がり、すぐ横にある本棚を軽々と横に滑らせた。スパイ映画かなんかで見たことのある、いわゆる隠し扉だ。もちろん本物は初めて見た。さらに奥へと通され、ローテーブルの前にある革張りの一人掛けソファーに座るよう言われ、ゆっくり腰をかけた。すると、扉である本棚が静かに閉まった。
部屋の中を見回すと、ここもまた、壁一面が本棚になっている。さっきの部屋よりも、さらに乱雑に本が押し込まれている印象だ。その本棚のどこかから、女性が白い紙を一枚手にし、それを僕の前に置いた。手のひらサイズほどのそれには、ぎっちりと文字のようなものが書かれている。けれど、僕にはそれがなんなのか全く分からなかった。アラビア語のような、タイ語のような、とにかくそんなようなクネクネとした文字に似たものが並んでいる。首を傾げていると、女性が僕に、向こうの部屋で話した内容が書かれていると教えてくれ、そしてこれが、契約書だと続けた。
僕は、迷うことなくサインした。
今日はやけに体が軽い。体調がいいとはまた少し違うけれど、頭がすっきりしているような、そんな感覚に近い。
昨日の晩に、いつもの店で女を予約した。今回初めて、「前回と同じ人で」、そう頼んだ。
夢を見ていた。内容までは覚えていないけれど、目が覚めた瞬間の夢の余韻は、とても気分のいいものだった。その余韻に浸りながら、まだ日も昇らない、夜となんら変わらない暗闇の中、うつらうつらしながらベランダへ出た。
次第に山の峰が白んでくる。ただその風景を見ているだけで、胸が熱くなった。自然の営みに、こんなにも心が洗われるようになったのは、たぶん、契約書にサインをした日からだ。あの日から、僕の中の感受性が強くなったように思う。
太陽が完全に山から顔を出したのを見届けてから一階へ降りた。さっそくキッチンに立ち、コーヒーマシンのボタンを押す。トースターでクロワッサンを温め直している間に、冷蔵庫からサラダを取り出した。
僕の食事は定期的に届けてもらっている。ほとんどが出来合いの物で、僕がするのは最後に温めるくらいだ。
ダイニングテーブルから外を眺め、サクサクのクロワッサンにかぶり付く瞬間は、大げさでもなんでもなく至福の時だ。最近ではもっぱら深煎りのコーヒーがお気に入りで、部屋中に香りが充満するのもたまらない。
食にこだわりなどなかったけれど、食べることの楽しさが、今なら分かる。
朝食後にさっとシャワーを浴び、女を迎える準備をする。相手もそうだろうけれど、こちら側も最低限のマナーを守るのは礼儀だろう。
太陽の光が明るすぎて見えなくなってはいるけれど、月は間違いなくそこにある。そこにあって、僕を内側から強く刺激する。
四度目のあいさつは、意外にもほんの少しの照れがあった。僕だけかと思いきや、女の方も、少なからずはにかんいるように見えた。
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