戻れない場所

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「!」  そこでシオンは不意に足を止めた。鳩崎が不思議そうに振り返る。シオンは目の前の光景から目を逸らすことができなかった。両脇の白い平面に取り付けられた大きな十字型の板、その向こうに広がる青の世界。 (海……)  その光景を一目見た瞬間、シオンは懐かしさのあまり胸が押し潰されそうになった。かつて自分がいた場所。魚達と泳ぎ、歌を歌い、母と共に時間を過ごした場所。それを今、自分は違う場所から眺めている。何年も前からよく知っている場所のはずなのに、それは自分の知る海とは別の空間のように思える。すぐ近くに見えてはいても、シオンには海がとても遠い場所になってしまったように感じられた。 「あの……大丈夫でしょうか?お加減が悪いのでしたら、今からでもお部屋の方に……」  鳩崎がおずおずと声をかけてきたが、シオンはなおも海から目を離せなかった。後ろ髪を引かれる思いでその青の空間を見つめた後、そっと目を閉じる。 (懐かしい海……私の大好きな場所……。だけどもう、あそこには戻れない……。わかってる。こうなることを選んだのは、私なんだから……。)  シオンは自分に言い聞かせるように内心で呟くと、そっと目を開けた。眼前に広がる青の世界。だけど、今度はそれに視線が釘づけられることはなかった。 「ごめんなさい。色々なことを思い出してしまって……。でも、もう大丈夫です」  シオンは郷愁を振り切るように海に背を向けると、鳩崎に向かって微笑みかけた。鳩崎は困惑した顔でシオンを見つめていたが、やがて頷くと、再び彼女の手を取って歩き始めた。
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