前編

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 一人息子だった俺は、両親から大切に育てられた。  何事もほどほどがいいというのはよく言ったもので、うちの場合大切過ぎる、というのが難点でもあった。  特に母は過保護を絵に描いたような人で、いつまでも少女のような見た目で心も同じく、同年代の母親達よりも幼い印象を受ける人だった。  だめよだめ。  ゆうくん、だめ。  これが母の口癖で、何かしようとする度にそう言われて俺は手を止めた。  俺の性格もまた、気弱で大人しかったこもあり、母の言われた通りに従って生きていた。  それでも生きていれば、自分の意思で欲しいものもあった。  誕生日に何でも好きなものを買ってあげると言われて玩具屋さんに行った。  目に入ったのはドレスを着たクマのぬいぐるみで、とても可愛く見えて気に入ってしまった。  あれが欲しいと言って指を差したが、母は困った顔になって眉を寄せた。  この顔だ。  いつも母は、俺が自分の思い通りにいかないと、その顔を見せてくる。  もっと進むと泣き顔になって本当に泣いてしまう。  その顔を見たら俺は静かに手を下ろした。  こっちにしなさいと言われて母が持ってきたのはサッカーボールだった。  俺はそれを無言で受け取った。  そんな体験の積み重ねが、俺の変態趣味に繋がったかどうかは分からない。  ただ、青年期に衝撃を受けた決定的なことがあったのは確かだ。それが巡り巡って今の俺を形作ってしまったように思える。  過保護ではあったが、大学にも通わせてもらえたし、ここまで育ててくれた両親には感謝している。  今は二人でアーリーリタイアして海外移住してしまった。  あんなに過保護だった母は、今は異国の地の空気に触れて人が変わったようになり、ボランティア活動に熱心に取り組んでいるらしい。  仕事を持ち、一人で暮らすだけの収入もある。  しかしこの下着に関する異常な執着が俺の人生に影を落としている。  性的指向はノーマルだと思う。大学から今まで何人か女性と交際してきた。  女性の下着が好きだというのはとても人に言えるような趣味ではない。  当然のごとく今までの彼女には打ち明けることができず、胸に抱えたまま交際を続けた。  俺の見た目は完全な体育会系だ。  体は大きいし、筋肉質だが全体的な肉付きもいい。  そんな見た目の俺に女性が期待するのは、男らしさや包容力だった。  性格は気弱で決断力もなく、俺について来いと引っ張っていくような気概もない。  その時点で、呆れられたり情けないという目で見られ始める。  そして肝心のベッドの上では、持続性がなく途中で萎えてしまい、最後までできることが少なかった。  やっぱり思っていたのと違う。  私達、合ってないみたい。  そう言われてことごとくフラれてきた。  彼女達の言い分を責めることはできない。  俺が一番自分のことを情けないと思っているからだ。  フラれてばかりで最近は恋愛をすることに疲れてしまった。  両親は海外生活をエンジョイしているので、結婚しろとも言われないし、孫の顔を見せなくともいいというのが救いだ。  こんな趣味は誰にも理解されないし、知られなくなどない。  かと言って、胸の内を隠したまま、誰かと分かり合えるなんて日が来るとも思えない。  きっとこのまま、一人で年老いていくのが自分には似合っている。  雨が降り出しそうな曇り空。  それが俺の人生とよく似ている。  暗くて不穏で、誰もが足早に帰り道を急ぐ中、一人で立ちすくんでいる。  ずっとこのまま…………  目の前の光景が信じられなくて、ドアに手を掛けているが、ポカンと口を開けたまま固まってしまった。  見間違えたかと思って二度見、三度見までしたが、その光景は変わらなかった。  色鮮やかでお洒落な服に身を包む若い女の子達、その中心にいるのは女の子と見間違うような甘い顔をしているが、俺と同じくスーツを着ているのでおそらく男だ。  その男のふわふわとした柔らかそうな頭の上には、どう見てもブラジャーと思わしき、こんもりとした二つのカップがまるで耳が生えているかのように載っている。  周りの女の子達はそれを見て、可愛い可愛いと言って騒いでいるのだ。  ここは、入ってはいけない場所だったのかもしれない。  後退りして廊下に戻ろうとしていたら、その男と目が合ってしまった。  男は首を傾げた後、にっこりと微笑んだ。  あまりの可愛らしい仕草に心臓がドキンと揺れて、ドクドクと騒ぎ出した。 「あーー、もしかして、大森さんですかぁ? 今日からスポーツ部に異動して来られた……?」  若い女の子の一人がドアを開けたまま立ち尽くしている俺に気がついて声をかけに来てくれた。 「そ……そうだけど……ここで合ってるのか?」 「合ってます合ってまーす、向こうの衝立の奥に机がありますよ」  こっちですと女の子に呼ばれておずおずと足を踏み出した。こんなふわふわした空間にデカくてゴツい男なんて場違いすぎる。  気持ちだけ小さくなりながら、華やかな連中の横を逃げるように歩いた。 「私、小松のりこって言います。新卒から五年間、鈴谷部長の下でずっと働いていて、今回同じスポーツ部になりました。よろしくお願いします」 「大森です。こちらこそよろしく」  全員の視線を浴びていた気がして居心地が悪かったが、衝立の向こうに移動して自分の机に着いたらやっとまともに呼吸が吸えるようになった。 「後、三人いるんですけど、今みんな会議で出てます。ちなみに男性は大森さんだけです」 「ああ……そ、そうか」  やはり思っていた通りだとますます小さくなった。  どうやらこのフロアには、俺とあの女子みたいなヤツしか男はいないらしい。  小松と名乗った女性は、小柄で細っそりとした可愛らしい人だった。  くりくりした丸い目が好奇心旺盛といった感じに輝いていた。 「あの……さっきのあそこにいた男性……、下着を頭に……」  ちょっと聞きにくいのだがどうしても気になってしまい、小声で小松に話しかけた。 「あっ、ビックリされましたよね。ランジェリー部の王子様って呼ばれている、雅桜介(みやび おうすけ)さんです。いつもあんな感じなんです。新作ができると雅さんに着けて遊んじゃうんです」 「遊ぶ……」 「えー、だって。雅さん、可愛いしイケメンだから、女の子の下着も似合っちゃうし、雅さんもさっき頭に載せてくれたみたいにノリノリで合わせてくれるから。みんなのアイドルなんですよ」  女子だけの空間に一人男が残されるとそんな感じに遊ばれてしまうのかと思ったが、本人が嫌がっていないのなら後から来た俺がどうこう言うのは余計なお世話かもしれない。  頭を振って、自分の仕事に集中することにした。 「鈴谷部長から午後に会議があるので、資料に目を通してくださいと伝言です。後は個人パソコンの設定とか、手順書があるのでよろしくお願いします」 「分かった、ありがとう」  簡単に説明してくれた後、小松は自分の席に戻ってコーヒー片手に仕事を始めてしまった。  俺も一息つきながら、パソコンの電源を入れた。  可愛いしイケメンだから、女の子の下着も似合う。  忘れようと思っても、先ほど小松が言った言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。  ランジェリー部の王子様。  女の子みたいに可愛くてイケメンの男がいる。  そんな噂を聞いたことがあった。  今までフロアが遠くて、一緒に仕事をする機会もなかったので、噂だけ耳に入って通り過ぎていくだけだった。  チラッと見ただけだが、噂通りの美貌の持ち主だった。周りには着飾っていい匂いの女の子達がたくさんいたのに、その中で圧倒的に目立っていて存在感があった。  体育会系の男連中に囲まれてきた俺が今まで会ったことのない人種だった。  確かにあの男なら、どんな下着を着けても冗談ではなく似合ってしまいそうだ。  俺みたいなムサい男とは違って………  考えるだけで胸がモヤモヤとしてきてしまって、仕事にはちっとも集中できなかった。  フロアにいる唯一の男同士、ではあるが、キラキラした雅に気後れして、挨拶もできそうにないなと思っていた。
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