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「どうも、大森さん」
エレベーターホール横の自動販売機で飲み物を買ったところで後ろから声をかけられた。
男にしては高い声、女性にしては低い声というところだろうか。
初めて耳にする声にぱっと振り向くと、ランジェリー部の王子様が立っていた。
口の端を上げて微笑している顔は、高貴な香りすら漂ってきてあまりの眩しさに目が眩んでしまった。
「あ……どうも、初めまして」
おかげで変な返ししかできなかったが、俺が答えると雅はニッと今度は白い歯を見せて笑った。
「……何度かお見かけしていますが、ご挨拶が遅くなってすみません。ランジェリー部の雅桜介です。入社して3年目です。顔を合わせることも多いと思うのでどうぞよろしくお願いします」
女の子に囲まれた若い社員という印象が強くて、チャラチャラしたイメージを持っていたが、ちゃんと挨拶をしてきた姿に自分の勝手な思い込みを恥じた。
「よろしく、大森雄星だ。10年目だが俺はこっちでは新人だから、教えてもらうことの方が多いと思う。先に謝っておくが、迷惑をかけるばかりだと………」
「やめてください。俺にとっては大先輩ですから、何でも力になります。それに女性の園に唯一の男同士ですし、気軽に話しかけてください。俺、野球とかサッカーとか大好きなので、男同士の話に飢えてたんです。大森さんが来てくれて嬉しいです」
人懐っこい表情で手を差し出されたので、俺も自然と手を出して握手をしてしまった。
何というか、こういう距離を感じさせない雰囲気は天性の才能かもしれない。
彼なら誰とでも打ち解けて上手くやれるだろう。
思わず羨ましくなってしまった。
それに座っている時はよく分からなかったが、雅は背も高くスーツの上からでも分かるしっかりとした逞しい体つきだった。
甘い顔に男らしさまであって、性格まで良さそうだ。どれだけ持っている男なのだと心の中でため息をついた。
とはいえ、社会人たるもの、社交辞令は仕事の一環だ。話しかけますなんて言われて、俺は人の良さそうな笑顔を返したが、頭の中ではそれほど仲良くなることはないだろうなと思っていた。
ところが…………
「大森さん、大森さんー、見ました? 昨日のレンジャーズの試合。あれは監督の采配ミスですよね!」
コーヒー片手に衝立の向こうから顔を出してきた雅は、出勤してきたばかりの俺に待ちきれなかったように声をかけてきた。
どれだけ男の会話に飢えていたのかしらないが、もう連日この調子だ。
「あ……ああ、そうだな。5回裏でボールが続いたところで交代させるべきだと俺も思ったよ」
「ですよね! やっぱりあそこでマイケル投入しないと、そのせいであの満塁打ですよ」
当然のように俺の横に座った雅は、俺の分のコーヒーを買ってきたらしく、はいどうぞと机に置いてきた。
「お前……、毎日俺の分はいいって……」
「あ、気にしないでください。二つ買うと半額になるキャンペーン中なんです。どうぞどうぞ」
本当にキャンペーンなのか知らないが、もう一食分くらいのコーヒーをもらっている気がする。
断ろうとすると、子犬のような潤んだ瞳で見てくるので、断りきれずにそのままになってしまった。
「それより聞いてくれますか? レーカズのジェイソンの移籍先ですけど……」
王子様は色々なスポーツに幅広く精通していて、俺より詳しいくらいだった。
朝礼までの時間、ペラペラと喋りまくる雅の後ろから、女の子達のジトっとした視線が俺に飛んできて、肌にちくちくと痛みを感じた。
雅の肌は透き通るような色白で、薄い茶色でふわふわとして柔らかそうな髪をしている。
同じく目も薄い茶色で、スッと整った目鼻立ちは、日本人というよりハーフのように見える。
それが余計に王子様だったり、アイドルと呼ばれることに繋がっているのだろう。
雅と話したい女の子達は、興味の無さすぎる汗臭い会話に入れなくて、それを俺のせいだという目で見てくる。
勘弁してくれと思うのだが、今まで俺の周りにはいなかったタイプで、人懐っこい雅はまるで弟のように思えてしまって、ついつい構ってしまう。
異動してひと月も経つ頃になると、一日のうちに一番話す人間になって、すっかり仲良くなっていた。
「今度飲みにでも行くか? コーヒーのお礼ってわけではないけど、奢ってやるよ」
「本当ですか!? 嬉しいです! 大森さんとご飯! 楽しみーー!」
反応が弟過ぎてほっこりしてしまう。
あまりの可愛さについ手が伸びて、雅の頭を撫でてしまった。
雅は一瞬驚いた顔をしたが、口の端を上げて目を細めて、えへへと嬉しそうに笑った。
それを見た俺はつられて笑いそうになったが、ハッと気がついて慌てて手を離した。
「わわわっ、悪い。なんてことを……」
「えーーー、良いのに。もっと撫でてくださいよ」
雅は嫌がるどころかぐいぐいと距離を詰めてきた。さすがにマズいだろうと思っていたら、ちょうど出勤してきた小松が、あーっと声を上げて近づいてきた。
「大森さん、ずるいですよ。王子のナデナデはジャンケンで勝たないと!」
「は!? ジャンケン?」
「そうです。撫でたくなるのは分りますけどぉ、王子を可愛がるのは女子達でも争奪戦なんです! その日の勝者だけの特権なんですからぁ」
「それは……すまない、つい……」
どうやら王子様に触れていい人間はジャンケン制で決まっているらしい。
確かにみんなで毎日揉みくちゃにしていたら、喧嘩になって仕事にならないのだろうなと思った。
「いいですよ。大森さんは男同士だし、特別ですから。どんどん触ってください」
「何だそれは……。ほら、そろそろ朝礼始まるから」
女子社員達のギラついた視線に押しつぶされそうになっているところで、やっと時間になり雅は自分の席に戻ってくれた。
女の園にいるだけでも緊張するのに、目の敵にされるなんて勘弁して欲しかった。
「皆さんー! ナイトドリームの新作上がってきましたよー!」
ようやく仕事に慣れてきた頃、フロアに響いた明るい声に俺の意識は集中してしまった。
日々女性ものランジェリーが机の上に無造作に置かれているような環境を横切っているが、じっくり見たい気持ちを抑えてなんとか平常心を保ってきた。
しかし、L&Lのナイトドリームの新作と聞いたら、心が躍ってしまい見たくてたまらなくなった。
衝立の向こうに憧れのソレがあるのだと思うと、うずうずして手が震えてしまった。
「もうできたの? 見せて見せてー!」
「わぁぁ、可愛い。やっぱりレースはピンクにしてよかったね」
ちょうど俺の部署はみんな会議に出ていて、自分だけ電話番で残っていた。キーボードを叩く指を止めて、立ち上がって向こうを見たい衝動を必死で抑えていた。
今までオトナ女子をテーマに、セクシー系のデザインが多かったが、今回は甘さをプラスしたと聞いていた。
どんな仕上がりになっているか、発売はまだ先だし、こんな近くで見れるチャンスなんてない。
少しだけでも見たいと思い、ごくっと唾を飲み込んだ俺はそっと腰を上げた。
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