前編

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「大森さんー、お昼どうします? 注文しますか?」 「いや、いいよ。買ってきたのがあるから」  仕事の中で昼飯の時間は唯一安らげる時間と言っていいかもしれない。  このところ社内はピリピリしていた。  ライバル会社の発売した商品が業界で大ヒットとなり、頭ひとつ抜かれてしまった。  売れ筋のナイトドリームのシリーズは手堅いのだが、他のシリーズの売上が落ち込んでいて、上司は機嫌が悪いしその空気を受けて、フロア全体がどんよりと重い空気になっていた。  せめてお昼くらい自由にのんびりしようと、みんな考えることは同じで、時間になるとほとんどがさっと席を立って足早に出て行ってしまった。  ビル内には食堂があり、だいたいみんなそこで食べるかテイクアウトしてくるのだが、俺は社の近くにお気に入りの弁当屋があり、すでに調達を済ませていた。  弁当をぶら下げて目指す場所は、もともと前の部署の時に使っていた非常階段スペースだ。  うちの社のビルは、隣のビルと繋がっている構造になっていて、隣接部分に非常階段がある。  かつては喫煙所だったが、昨今の健康ブームでビル内全面禁煙になり、誰も来ることはなくなった。  賑やかな女性の園にいると、ふと、自分を取り戻すように一人になって静かに過ごしたくなる。  特に今みたいにピリピリムードだったり、取り返しのつかない失態をしてしまったような時は……… 「はぁぁ……」  非常階段に座ってビルの隙間から見える青空を弁当を食いながら眺めた。  気分を変えたはず、それなのに頭は重くてお気に入りの弁当もあまり味がしない。  先週末の飲み会で、ホテルに泊まって雅を襲ってしまったことを思い出して、もう何度目か分からないため息をついた。  何をしたのか。  雅は具体的に話してはくれなかった。  きっと思い出したくもないのだろう。男に襲われた……なんて最悪の体験だろうから。  俺の下半身は心なしかスッキリしていて、わずかに濡れているような感覚があった。  それが何を意味しているか……。  男同士の行為は、乱暴にしたら傷ついてしまうと聞いたことがある。  俺は雅のことを傷つけることなくできたのだろうか。雅の尻は大丈夫なのか、時折目で追ってしまい自己嫌悪に陥っていた。  カチャンとドアが開く音がした。  このフロアの連中は外で食事を済ませてしまうので、この時間社に残っているやつはほとんどいない。  珍しいなと思って顔を上げると、そこには雅が立っていた。 「えっ……」  驚いて固まっていると、俺と目が合った雅は嬉しそうな顔になって、大森さんと言いながら手を振ってきた。 「前にここに入っていく姿をチラッと見たんです。で、フロアにいなかったから、ここかなって」 「あ、ああ……そうか」 「あっ、すみません、お邪魔しちゃいました? せっかくのお一人様タイムを……」 「いや、いい。ちょうど話し相手が欲しかったところだ」  雅相手に邪魔だからなんて言えるはずがない。なんとか平常心を保って、気のいい先輩の顔で笑って見せた。 「それじゃ遠慮なく、お邪魔しまーす」  スタスタ近づいてきた雅は、本当に遠慮なく俺の隣に座ってしまった。  腰がつきそうなくらいの距離に、心臓がどくっと跳ねて騒ぎ出した。 「さっきコンビニのおにぎり食べたんですけど、新発売の具に失敗しました。ボソボソして食感が最悪で」  そう言って雅は俺の持っていた弁当を覗き込んできた。  もしかしたらまだ腹が空いているのかもしれない。 「なんだ? よかったら上の部分は食べてないから食べるか? 俺はもう腹がいっぱいなんだ」 「え? 本当ですか? ありがとうございます」  食べかけだから断られるかと思っていたのに、雅は喜んだ様子で俺の膝の上から弁当を取って自分の膝の上に載せた。  そして、全く気にしない様子で、俺が使っていた箸で食事を始めてしまった。  予備があったので新しいのを出そうとしていたのに、雅の余りの早業に声をかけることができなかった。 「うん……この煮物がいい味だと思います」 「……前から思っていたけど、お前、見た目はイマドキの若い男なのに、中身はやけに渋いな。お前の歳の頃に煮物がいいなんて思わなかったよ」 「えー、そうですか? あー、でも確かに、ウチ両親早くに亡くしてるんで、祖父母に育てられたんですよ。だからかな、揚げ物とかより焼き魚とか煮豆の方が好きです」  なるほどと、雅の姿を見て思ってしまった。  見た目が十分輝いているので気にならないが、いつもチョイスは古いし、気の使い方も心得ていて、食べ方もすごく綺麗だ。  雅の祖父母はきっとしっかりした方で、経験と知恵から生み出された指導の賜物だろうと思った。 「ありがとうございます。ご馳走様でした」 「ああ、腹が膨れたならよかった……って、ええ!?」  食べ終わってゴミを片付けたら、雅はごく自然に俺の肩に頭を乗せてきた。 「んーー……お腹いっぱいになったら眠くなっちゃいました。大森さんの肩で寝ていいですか?」 「は? え? だっ……何? 何だよ」  いいですかと言いながら、雅は寝つきがいいのか、すぐにくたっと力が抜けて本当に寝てしまった。  気持ち良さそうな寝息の音が聞こえてきて、俺の胸の方はドキドキと騒がしく動き始めてしまった。 「どこでも寝れるタイプか……つくづく羨ましいヤツ」  肩に乗ったふわふわの髪の毛。  まるで犬か猫にでも懐かれているような気分だ。  まさか雅は先日のことを忘れているのではないか。  でないと俺にこんな接近してくるのなんてありえない。  確かにあの時、混乱していて頭に入って来なかったが、俺ともっと仲良くしたいとか言っていた気がする。  それは場の雰囲気をこれ以上悪くさせないための方便みたいなものだと思っていた。  まさかの本当に仲良くなっている状態に、頭が追いついていかない。 「ハァ……しばらく禁酒だ」  全ては酒のせい。  そこに逃げたくはなかったが、とにかく酒に気をつければもうあんな失態は犯さないはずだ。  実を言うとあの淫夢、俺の妄想はあの飲み会からおさまっている。  趣味も封印して、下着が置いてある部屋にも入っていない。  とにかくいったん落ち着いて人生を見つめ直そう。  そう思っていた。 「日朗デパートさんと会食ですか?」 「そう、今度催事のスペースをもらえることになったから、顔合わせも兼ねて今夜は会食ね。向こうの担当さんはお酒好きだから、その後も……覚悟しておいてね」  出勤するなり鈴谷部長が顔を出して、俺の背中をポンポンと叩いてきた。  どうやらこの前の飲みで、俺が酒の接待はイケると思われたらしい。 「はい、分かりました」  担当ではない俺が駆り出されるということは、なかなか手強い相手ということだ。  その後、というのはおそらく、夜の店に行くことになる。確かに若い女の子が多いから、俺が適任ということになりそうだ。  十年目にもなれば、この会社のやり方は少ない情報でも手に取るように分かる。  しかし禁酒を心に誓ってからすぐにこれかとガクンと肩が重くなった。  その時、部長と俺の横にずいっと人が割り込んできた。ふわふわの明るい髪にお洒落な細身のスーツ、同じフロアで男といえばアイツしかいない。 「鈴谷さん、日朗デパートさんとの会食なら、俺も一緒に行っていいですか? 前に仕事した時にお世話になったんですよ」 「あら? 雅くん知り合いなの? え、助かる! 向こうの担当とあまり気が合わないのよ。前にちょっとモメちゃって」 「それ伊藤さんですよね、あっ、俺、連絡先も交換してますし、全然話せますよ。よかったら盛り上げ要員に使ってください」 「来て来てー、良かったぁ。雅くんいたら百人力だわ。よろしくね」  さすが王子様、二十歳超えた息子がいるという鈴谷部長の心もすっかり鷲掴みにしている。  さりげなく俺は頼りにならないと言われたような気がして、聞かなかったことにした。 「大丈夫か? 二次会は多分女の子のいる店だぞ」 「ええ、全然。慣れてますんで大丈夫です」  さりげなく小声で雅に知らせてみたが、ニコッ笑ってと爽やかに返されて、俺の方が動揺してしまった。  若くてイケメンな雅はきっと、そういう店に行ったら女性達がたくさん集まってくるだろう。  接待が慣れている、というより、囲まれ慣れているのだと感じた。  羨ましいというより、胸がつまるようなモヤっとした気持ちになった。  とにかく今は仕事だ。  まだ談笑中の部長と雅の方は見ないようにして、俺は目の前の仕事に集中した。
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