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一、 ニカは魔法が使える
冬の学校の廊下は冷たい空気を内包していて、教室から漏れる人いきれが少しだけ漂い混じり合っている。
「吉都木さん、大丈夫か?」
「え?」
廊下の窓から外を眺めていたら後ろから声を掛けられて、ニカはびっくりした。そのくらいぼうっとしていたみたいだった。
「朝から様子がおかしい」
才可和くんは率直に喋る。車椅子に乗っているのでニカより視線が低いところにあり、その状態で会話をするのがニカは苦手だったけれど、才可和くんには別に気にしないと以前言われている。でもやっぱり見下ろしながら喋るのは苦手だなとニカは思わずにおれなかった。
「ええ……と……そんなに変に見える?」
「うん。なんかそわそわしてるように見える」
「そわそわ……」
「体調悪い?」
「ううん。そうじゃなくて、うーん……なんていうか」
才可和くんはうん? と首を傾げた。フレームの太い眼鏡から真っ直ぐに見つめられて、ニカはちょっと恥ずかしくなってきた。こういう話をしちゃってもいいのかな、という。
「……あのね?」
「うん」
「あの、今日、転校してきた人がいたでしょ?」
「ああ、三年生だって。ショウスケが言ってた」
「そうなんだ……その……たぶんなんだけど……」
ニカは自分の顔が熱くなっているのを意識する。
「たぶん……一目惚れ、しちゃったんだと、思うんだけど…………」
才可和くんは一瞬固まった。ただ体調が悪いなら保健室に行くことを勧めようと思っていただけで、確かにショウスケにそっとしといたら? とは言われたけれど、自分はなかなかこういうことに気づけないのだなとか、吉都木さんって自分の気持ちにすごく正直だったなとか、こういうときなんて言ったらいいのかなとか――一瞬言葉に詰まった内に色々な思いが頭の中を駆け巡っていく。
「……俺、恋愛の話は、なんて言ったらいいかよくわからないんだけど」
自分から声を掛けたものの、どう話を続けたら良いかわからず、才可和くんは正直に言葉を並べた。
「何か話したいこととか、困ったこととかあったら聞くよ」
うん、そのくらいならできるし、と自分を納得させる。誰が好きとかそういう話をどうしたらいいのかさっぱりわからないけれど。
「……ありがとう。才可和くん。心配してくれて」
「ううん。体調悪いんじゃないなら良かった」
ニカは照れて自分の耳が赤くなっているんじゃないかなと、思わず触ってしまう。指先に熱を感じる。恥ずかしくて変な笑い方をしてしまっている気がする。
それじゃあと才可和くんは教室に戻って行き、待ち構えていた渡世くん――ショウスケに、次は音楽だぞと教科書など一式が入ったバッグを渡されていた。今日は押して行ってやろうと申し出られて、そういう気分だと才可和くんは大人しく車椅子を押される。
ニカもそろそろ荷物を持って音楽室へ行かなければ、と荷物を取りに教室に入った。
⚘
扉を開けると温かな色合いに迎えられる。明るい色調の木材で整えられた店内の、カウンター席には初老の男性が一人。深い青のセーターが似合うミナカミさんだ。窓際のいつものテーブルには、スミオとリッタの姿がある。ヒノは風邪を引いたから行けないと、昨日あらかじめスマホにメッセージが来ていた。
「ニカ。いらっしゃい」
カウンターに立つマエさんが、今日も微笑んで迎えてくれる。可愛らしく笑うというのではなくて、少しだけ口角が上がって好意を示してくれる笑い方。ニカはマエさんのそんな笑い方が好きだ。
「こんにちは、マエさん」
今日のマエさんはチェックのワンピースにエプロンを付けていて、長い髪をスカーフで結っていてとても素敵だ。ちょっとレトロな感じがする格好を好んでいて、それを見るのもニカは好きなのだった。
ミナカミさんとも挨拶をして、ニカはスミオの隣の椅子に座った。羽織っていたダウンジャケットは椅子の背中に掛けておく。
「ニカ。外寒かったでしょ」
リッタはテーブルに肘を付いたままひらひらと手を振ってニカを迎えた。今日もきれいに整えた爪が光を反射している。青みがかったグレーに塗って、ラメが入っているのかきらきらしていた。
「寒いね。でも歩いてると暑いかな」
「診察なんともなかった?」
「うん。いつも通り健康だったよ」
ニカはこの星分市において、少しだけ魔法が使える人間だった。ただしもともと魔法使いではないため、数か月に一度、念のため身体に異常がないか簡単な定期健診があるのだ。
「ニカ、なんかいいことあった?」
スミオがニカの顔を見つめている。スミオは小柄で、ニカと座って並ぶと少しだけ小さく見える。
「なん……なんで⁉」
そんなに浮かれて見えただろうかと、ニカは顔に両手を当てた。自分はそんなに面に感情が出やすいのだろうか、とつい先日同じクラスの才可和くんに体調を心配されたことを思い出す。スミオはあの場にいなかった。
「すごい動揺するじゃん。俺もなんかいつもより嬉しそーとは思ったけど」
「うそ……そんなに顔に出てる……?」
「ニカって小さい頃からそうだよ」
「そうなの? 俺とかヒノと会うもっと前から?」
「うん。泣きそうな顔してるときはなんかあったし、そわそわしてるときはなんか嬉しいときとかだよ」
淡々とスミオが返していると、マエさんが水の入ったグラスを持って来る。
「若人は楽しそうだなー。ニカ、注文は?」
「あ、カフェオレと、キッシュってまだありますか?」
今日はお昼近くの時間に健診のある日だったから、診療所までのバス代と一緒に少し多めにお金を持たされていた。健康だったらそのままご飯を食べておいでというお小遣い。
「あるよ。温めようか?」
「お願いします」
今日もきれいに焼けたんだよねーとマエさんは鼻歌を歌うように言って、カウンターに戻っていく。ニカたちのいる小さなカフェの名前は〝薫衣〟と言って、マエさんが経営している小さな憩いの場所だ。たまに彼女のパートナーのサコさんも手伝うことがある。あまり宣伝には力を入れていないようだけれど、居心地の良さが人から人に伝わり、程好くお客さんのいる場所だった。
「それで? いいことってなんだったの?」
リッタが改めて聞いた。彼の前には大きめのサイズのマグカップが置かれていて、ニカが注文したのと同じカフェオレがまだ湯気を立てていた。
ニカは視線をテーブルに置かれたグラスに留める。気泡のあるデザインのカップで、ひとつ花を閉じた氷があった。
「……ナナハさんがいたの」
誰? とリッタはスミオを見たけれど、彼も首を振った。
「この間、転校して来た人なんだけど」
「ああ、三年生の」
「わかった」
リッタは自分の顎を親指と人差し指で挟んで、したり顔という振る舞いで、
「恋だね」
ニカが両手で顔を覆った。隣でスミオはびっくりしたようにちょっとだけ目を大きくする。
ふっ、と臙脂色の花が一輪空中に生まれた――と思ったら、さらに一輪、また一輪と、次々に生まれてはニカたちのテーブルの上や床に落ちる。細い花びらが集まって、ガーベラに似ているけれど、雌しべに向かって色が青くなっている。自然に咲く様に似て、少しだけ異なる部分を持つ花たち。
「ニカ、出てるよ」
スミオの声にニカは赤い顔をぱっと上げると、うわあと気の抜けるような悲鳴を上げて、慌ててストップ! と言いながら両手をぐっと握った。気持ちをしっかりさせれば収まるのだ。収まるはずだった。
「今日はよく咲いてるなー」
マエさんが四角いトレーに温めたキッシュとたっぷりのカフェオレを載せてやって来る。慣れた仕草で花を避けながら、ニカの前に料理を置いた。ついでにニカの頭に落ちた花を摘まむと、くるっと指先で回す。
「ま、すぐ消えちゃうからいいけど。温かい内にお食べね」
一輪を持ったままレジに向かう。ミナカミさんはそろそろ帰るようで、既にコートと帽子を身に着けて待っていた。会計を済ませると、帽子をちょっと上げてニカたちにも挨拶をして、チリンと軽やかなベルの音に見送られて帰っていく。
「で、そのナナハさんって人に会ったわけね」
リッタはテーブルの上で指を組んで、楽しそうににこにこしている。彼はこういう話題を話すのも好きだった。
「うん……診療所で会って。挨拶しただけなんだけど」
「話とかはしてないんだ」
「……ちょっとだけ。わたしが魔法が使えるってことだけ話した」
「珍しい。ニカはあんまり自分から言わないじゃん」
スミオは静かに横で話を聴いている。自分が理解できない話題でも一緒にいて聞いているだけでもいい、という仲なので、それで平気なのだ。花はまだ振り続けている。
「えっと……その……話の流れで?」
ニカの様子から、もしかしたらナナハという人も魔法が使えるのかもしれない、とリッタは推測する。でなければこの市へ来てすぐかもしれない人間に対して、わざわざニカは自分が魔法が使えるだなんて言わないだろう。本当に、偶然、上手い具合に魔法が使える使えないの話になったのかもしれないけれど。
ニカが言い淀むのは、本人が自分で言わないことを伝聞としてここで言うべきでないと思っているからの可能性の方が高い。
余程のことでなければ突っ込む必要のないところだ、とリッタは相づちを打つ。
「ふーん。好きな人に会えて話ができて、良かったねえニカ」
ニカは渋々のように頷きながらフォークを手に取って、キッシュを一口食べた。恥ずかしさで味がよくわからない。せっかくマエさんの作ったキッシュが。ニカはほうれん草があまり好きではないけれど、マエさんの作ったものは特別好きなのだ。
「なるほど。ショウスケが言ってたのはこのことだったんだ」
「ショウスケくん?」
「タツヒコがニカの相手して困惑してたって」
「ニカ、タツヒコくんにまで言ったの? ナナハさんのこと好きになっちゃったって?」
ニカは言葉にならない呻きを上げた。顔から火が出そうだ。
「だっ……だって、才可和くんいい人だし、体調悪いのか聞かれて心配かけちゃったから、だから、」
「すごい正直に言っちゃったんだ?」
だって、もうっ、と言いながら、とうとうニカは食事をすることに専念することにした。食べたら言いたいことを言ってやる、という気持ちで。
そうこうしている間もずっと花は降っていて、ニカの足元が花でいっぱいになりつつある。一人だけ特別席に座っているみたいだった。
⚘
ナナハと出会った日、ニカはいつも通り花壇の花の様子を見に朝早く登校していた。寒くなったので朝早くに水を遣るわけではないけれど、花が元気かどうか確認したくて足を運ぶのが日課なのだ。休み時間には教頭先生と一緒に水遣りをすることもある。
運動部の朝練の声を聞きながら中庭へ向かうと、その日はナナハがいた。白い息を吐き出す横顔に、急にぐっと気持ちを引き寄せられた。
「おはようございます」
見掛けたことのない人だなと思いながら、ニカはとりあえず声を掛けていた。ナナハは驚いた顔で振り向いて、動いた拍子にふわふわと波打つ髪が揺れたのが可愛いとニカは思った。
「おはよう……ございます。あれ? そっか、どっちも選べるんだっけ」
ニカは制服のスラックスを穿いていた。性別に関係なく三年間着用する制服は選ぶことができたので、動きやすさでそれを選んでいる。久し振りにわかりやすい反応をされ華やいだ気持ちを少ししぼませながら、ニカは歯切れ悪そうにそうですと答えていた。あれ? という一言だけでも何か違うと言われているようなもので、些細なことだけれど気にしてしまう。
そういう気持ちが顔に出ていたのか、はっとした様子でナナハは胸の前に両手を挙げた。待って、というように。
「ごめん、良くない言い方したね。あたしが悪い」
「え、いえ、大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃないよ。顔に出てる」
そんな、とニカはびっくりする。気持ちが顔に出ているとはよく言われるのだ。初対面の人からも指摘されてしまうなんて、と別のショックが襲ってきた。
「ほんとごめんね……。ええと、ここの生徒だよね。ここって勝手に入っても良かった?」
なんとか取り繕うと、彼女は別の話題を取り出した。よく見たらコートの下に見える制服の色が違う。ニカはそこでようやく外部の人なのかもしれないと見当を付けたのだった。
「大丈夫です。他の人も、休み時間とかに来ますよ。ベンチに座ったり、新聞を敷いて寝てたりしてます」
「寝るのはさすがに自由過ぎない?」
ふっと笑った顔に、再び気持ちが惹かれていた。これはもしかしてあれだ、と思ったときにはスミオの顔が浮かんで、ちゃんとあとでスミオにも話そうと思った。
「寒くないときにまた来ようかな」
「……寒くても来てもいいと思いますよ。花も一応咲いてます」
小さなビオラがささやかに咲いているだけではあるけれど。
そうかもね、でも寒いの苦手でさ、と返事があって。
「あのね、あたし、今日からここに通うんだけど……制服、前のままでさ」
転校生だった。彼女は不安そうな顔になって、
「浮いちゃうかな?」
「えっと……みんなそんなに気にしないと思います」
「あたし数か月しか通わないから、制服買うのもったいないだろうって、特別措置なの」
「そうなんですか? あ、三年生」
「そ。三年二組の転校生、薊矢ナナハ。ナナハって呼んで」
薊矢ってどこかで聞いたなと思い出そうとしたけれど、すぐに出てこなかったのでこのときはそれほど気にしていなかった。それよりニカは、彼女の名前が知れたことが嬉しくてしょうがなかった。
「二年一組の吉都木ニカです」
「ニカちゃんって呼んでいい? ちゃん付けは嫌?」
「嫌じゃないです……ナナハさん」
ナナハの名前を呼ぶとき、少し緊張してしまった。先輩って付けた方が良かっただろうか、とか。でもこの学校では先輩って呼び掛ける方が少ないし。ナナハは別に気にしていないようだった。
次にニカがナナハと会ったのが、今日の定期健診だった。
今日も健康ですね、お疲れ様です。それから、とヨリコ先生が付け足す。
「今日は薊矢くんが来てますから、そっちにも寄って行ってもらえますか?」
アザ博士に久しぶりに会えると知って嬉しくなって、元気に返事をしてから気づいた。
薊矢。聞き覚えがあると思ってたけど、アザ博士のことだ。
薊矢という名字できちんと呼ぶのは大人がほとんどで、子どもたちはアザ博士と呼ぶ。白衣を羽織っていることが多いからで、実際には博士ではなくて魔法使いなのだけれど、でも大学は出ていて博士号は持っているしという大雑把なあだ名だった。同じ苗字であるナナハとアザ博士は親戚か何かなのだろうか。
いつものところにいますよと教えられたので、ニカは今日検診を受けたという証明書を受付で貰うと靴を履き替えて、診療所の庭に向かった。枝ぶりの良い大きな木蓮のそばにはテーブルが一台と椅子が二脚設置されて、今はまだ花はないけれど、春分を過ぎていよいよ春めいてくると白い木蓮がほこほこと枝に生まれて心地好い場所になる。昼間はそこそこ陽当たりのある場所なのだ。
「アザ博士!」
たっぷりとした黒髪の後ろ姿に声を掛ければ、上半身を声のする方へすっと向ける。アザ博士はほとんど目が見えないけれど、ぼんやりと輪郭は把握することができるため、ニカの姿を捉えるとひらひらと手を振ってくれた。白杖は折り畳んで膝の上に載せられていて、夕方にアザ博士がそれを伸ばして歩いているときは魔法使いらしさが際立つようだった。ニカは魔法使いに対して、杖を手にしているというイメージも持ち合わせていた。
「ニカくん、久し振りだね」
アザ博士はヨリコ先生と同じで、大抵の人間をくん付けで呼ぶ。彼女は一人でお茶を飲んでいたらしく、湯呑の中は空になっていた。一緒に置いてあった急須へ手を伸ばし、
「ニカくんも飲む?」
「ううん、あとでマエさんのところに行くから大丈夫」
「そう。マエもサコも元気にしてる?」
アザ博士は空いている椅子をニカにすすめながら、慣れた手つきで湯呑に緑茶を注ぐ。まだ湯気が出ていて、冷め切っていないだけなのか魔法で温めているのかまではわからなかった。
「二人とも元気だよ。あ、でもサコさんは最近ちょっと忙しいみたいで、あんまり見掛けないかな」
「あとひと月したら年末だしね。忙しくなってくるし、通りで寒いわけだ」
「アザ博士、ほんとに寒い?」
うん? とアザ博士は首を傾げる。彼女はよくわからない賑やかな柄のシャツの上にニットのベストを重ねて、その上に白衣を着ている。ダウンジャケットを羽織って暖を取っているニカからすれば、今の季節には寒そうに見えて仕方ない。風邪をひかなければいいけれどと、傍目には心配になる。
「寒いと言えば寒い。でも基本的にそうでもないね」
「それも魔法?」
「そうだと言えばそう。なんて言うかな……魔法もわたしにとっては血肉みたいなものだから、自然と自分を守るように巡ってしまう」
生まれつきの視力の足しにはなってくれなかったけどね、と一口お茶をすする。魔法も万能ではないのだとアザ博士はよく口にする。それを自分が一番よく知っているからだ。ニカはちょっとした魔法が使えるだけだけれど、ちょっとだけしか使えないからこそその言葉がわかるような気がしている。魔法は万能の力ではない。
「さて、ニカくん。君の調子がどんなものか、ここで魔法を使ってみてくれないかな?」
アザ博士は腕を伸ばして、低い位置にある木蓮の枝を指し示す。
「この辺でいいよ」
ニカは言われるままに枝先に――春にはそこに咲くだろう木蓮の花の一つに集中した。少し時期を早めてしまうけれど。
無意識に自分の唇が動いた。けれどそれで何を呟いているのかは自分でもわからない。アザ博士が自分の口元をじっと見ている、と感じたけれど、どちらかというと音になっているのかいないのかもわからない言葉に耳を澄ましていたのかもしれない。
アザ博士が指した枝が、持ち重りのするものを手に入れたように揺れた。むくりと蕾が生まれ、身体をいっぱいに膨らませるようにどんどん成長していく。風船のようだ。白くしなやかな花弁が身を震わせて、一つだけ時期にそぐわない花がそこに現れた。
「上手に咲かせられるようになったね」
一つだけ咲いた木蓮は、絶妙なバランスで卵を枝に載せているみたいに思えた。危うくて、寂しくそこに佇んでいるように見える。咲かせてしまったからにはニカは目が離せない。アザ博士にはどんなふうに見えているのだろうか。
「……アザ博士」
「君の魔法は安定している。大丈夫だよ」
念を押すようにアザ博士は言った。
「でも、まだ、ときどき……勝手に花が出ちゃうんです」
「それは仕方がないよ。気持ちが昂ったときだろう? 怒りを感じたときには怒った顔になるし、悲しいときには涙が出る、それと同じことだよ」
使える魔法の大小はそれぞれ異なっていて、でもアザ博士のような、魔法使いと言い切れるくらいに自由自在に魔法が使える人は昔に比べて減ってしまったという。ニカが使える魔法もささやかではあって、植物の成長を早めることと、感情が大きく動いたときにどこからともなく花を出現させやすいという二つの力がある。
「あれ……? ニカちゃん?」
ぱっと声がした方向にニカは目を向けた。驚いた顔のナナハがいる。今日は髪をゆるく三つ編みにしていて、袖の膨らんだデザインのニットの上着だとか、マフラーがもこもこしているのだとか、とにかく全部可愛く見えた。あらん限りの可愛いが一人の人間に集められたみたいに思えてくる。
「ナナハくん、ニカくんと知り合いだったの?」
アザ博士がナナハの方を向いて問えば、そうだけど、と彼女はバツの悪そうな顔で答えた。
「なんでニカちゃんがここにいるの? 具合悪いの?」
ニカはぶんぶんと首を振った。力いっぱいの否定が逆に怪しく思われたのか、ナナハはまだニカがただ具合が悪いだけだと思っているみたいで、それならそういうことにしておこうかという気持ちが頭をもたげた。ニカの身近な人のほとんどはニカが魔法が使えることを知っているけれど、ナナハはそうじゃない。怖い、と感じて、この、知られるのが怖いという感情も、久し振りだった。
「ふーん……ナナハくんてば」
「……何」
いかにも鬱陶しいという目付きでナナハはアザ博士を見る。二人の間の気安さが感じられる。
「…………あの、ナナハさん」
「何、ニカちゃん」
「わたし……あの、」
ニカは自分が咲かせた木蓮の一輪を、自信なさげに指で示す。
「ちょっとだけ……魔法が、使えて……」
誤魔化すこともないのに誤魔化すみたいに、変なふうに口元が笑っているのがわかる。引き攣っているような感じがする。
頭の中で繰り返す。大丈夫。大丈夫。
「あ、」
ナナハは合点がいったというようにニカを見、それからアザ博士を見た。
「だからクロエと話してたんだ」
「……クロエ?」
アザ博士が自身を指差し、わ、た、し、と一文字ずつ区切って音を出しにっこり笑った。薊矢クロエと薊矢ナナハ。
「二人は……?」
「クロエははとこなの。今は一緒に住んでて」
色々あって、っていうか、とナナハは目を泳がせる。
「なんていうか……あたしもね、魔法が使えて。それでこっちに来たっていうか」
ナナハも魔法が使える。ニカはその告白が上手く呑み込めない。本当に?
「一緒だったんだね、ニカちゃんも」
誤魔化すように明るくナナハは笑う。何か、本当は言う気がなかったことを言ってしまったときのような。自分が魔法が使えることを言ってしまったから、もしかしてナナハも言わなければと思ってしまったのじゃないかという考えが不意に浮かんで、ニカは凍り付いた。不意に固まってしまったニカを見てなのか、ナナハがはっとして駆け寄る。ニカの肩に掴むように手を置いて、
「ニカちゃん!」
「え、はい、」
「違うから!」
「え?」
何が違うのかわからなくて呆けた顔のニカを見て、ナナハも自分の言ったことに戸惑っているようだった。なんて言ったらいいのかわからない。
「ええっと……そうじゃなくて、ニカちゃんにショック受けてほしかったわけじゃなくて、違くて……」
おろおろとし出した二人に、アザ博士は助け船を出そうか出すまいか、のんびり考えながらお茶をまた一口飲む。段々飲みやすい温度になってきていて、飲み物が冷めるのが早い季節になったなと思う。
「ニカくん、ナナハくんは魔法使いなんだよ。薊矢の家はそういうもんなの」
どういうことかとニカは目で問う。
「ちょっとクロエ」
「言わないほうがいいかい?」
「……ううん」
それじゃあ言うよとアザ博士は、膝の上の白杖をテーブルに移動させて脚を組んだ。
「ニカくんみたいに少し魔法が使える人たちはさ、この星分(ほしわき)市でしか魔法が使えないって知ってるでしょ?」
「はい、それは、知ってます」
星分市に魔法の雨が降り注いだ日。それは魔法使いでもなんでもなかった人が、一部だけれど魔法を使うことができるようになった日だ。ニカはその日たまたま家の外で雨に降られていただけだった。誰かが選んだとかではない。
「ナナハは生まれながらに魔法使いなんだよ。だからニカくんと同じではないんだけど……でも、ニカくんに言ってもいいって思ったんだよね? ナナハは」
「うん……そう。だってニカちゃん、自分が魔法が使えるって、別にニカちゃんが言わなくちゃいけないことじゃなかったでしょう?」
「で、でも、それはナナハさんだって一緒じゃないんですか?」
あたし? ナナハは瞬きする。
「たぶん、言いたくないこと言わせちゃったかなって、思って、」
しどろもどろにニカが言えば、
「二人ともおんなじことで躓いてたってことだよ」
痛み分けだねとアザ博士は急須に手を伸ばして、お代わりを注ごうとしてぽたぽたと水滴が落ちるだけの音を悲しそうな目で受け止めた。
「……ニカちゃん」
ニカは恐る恐るナナハの目を見る。薄い茶色が光っているみたいに見える。
「あのね、あたしは自分が言っていいと思ったことは言うことにしたの。それで何か変なふうに思われても、自分の決めたことだから、ちゃんと受け止めようと思ってて」
ナナハは視線を逸らさず話そうと、自分の頭が俯きそうになるのを止めた。
「ニカちゃん、あたしが傷ついたかもしれないって心配しちゃったんだよね?」
ニカは頷く。
「あたし自分が心配されるとは思わなかったから、びっくりしちゃって。だから、ニカちゃんは思いつめないでほしい。あたしのこと考えてくれたの嬉しいし」
急に自分の心臓が動いていることに気づいた。いつもはわざわざ心臓の動きにまで意識をやらないのに。ニカはナナハの目がやっぱりきれいに見えて、段々落ち着かない気持ちになってくる。
「わかり……ました」
ほんとに? とナナハが少し首を傾げて、違う角度からニカの目を覗き込むようにする。それで相手の気持ちの見え方が変わるわけではないけれど、少なくともニカはわかりやすく顔が赤くなりそうな瀬戸際にいるという自覚があった。
「ほんとです」
それだけ言うのが精一杯になってきた。
「ナナハくんいつまでニカくんの肩掴んでるの。傍から見てたら怖いよ」
それでようやくナナハは慌ててニカを開放した。
「わたしの用は終わったし、ニカくんはこのあとスミオくんたちと会うんだろう?」
そうだったとニカが返事をすれば、ナナハはニカを引き留めてしまったことを謝る。今度はニカが気にしないでほしいと首を振る番だった。
「じゃあ、また学校でね」
ナナハが手を振ってくれて、また、と言ってくれて。ニカは頬が火照るのを感じながら、スミオたちの待つ場所へ足を速めた。
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