二、ニカの友だち

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二、ニカの友だち

 ニカおはよう、ととても眠たそうな声が掛かる。ニカは廊下で呆然としていて、それでも塵取りを手に声がする方へ振り向いて、才可和(さいかわ)くんとスミオが一緒に教室までやって来たのを目に留めた。おはよ、と才可和くんも声を掛ける。 「おはよう……スミオ、眠たそうだね」 「昨日ショウスケとゲームしてて……眠い……」 「よく夜中まで起きてられるな、ショウスケもスミオも」  才可和くんは肩を竦めてさっさと教室に入って行こうとする。 しかし。 「えっ何これ」  驚いて教室のドアの前で止まると、慌ててカコが箒を持ってきた。 「まじですごくないこれ? あっ才可和おっはよ寝ぐせ跳ねてるけど鏡貸そっか?」  才可和くんは勢いに押されて、美住(みすみ)さんおはようしか言えない。そうこうしていると渡世(わたせ)くんも別の箒を携えて、才可和くんのところまで足首が隠れてしまうくらい嵩張った花を避けながらやって来る。 「ちょい待って今どけるからさ。渡世も手伝って」  こんなもんかな、と美住さん――カコが、教室の入り口に溢れんばかりに重なった花を箒でまとめた。 「ありがとう……それで、」 「タツヒコはエレベーターで上がってきたから見なかったかもしれないけど、一年一組もすごかったんだよ」  渡世くんは才可和くんの車椅子が席まで移動できるよう、床の花を掃いて道を作り出す。 「一年一組?」 「そうそう、ニカち以外にも魔法使える子が数人いるけど、なんかわかんないけど、ニカちとゆっくんだけっていうか、ものが出せる子が大変みたい」  ゆっくんというのはカコと部活動が一緒の子で、件の一年一組の生徒だ。ニカの健診仲間でもある。他のクラスにも魔法が使える生徒が数人いて、いずれも使える魔法は異なっていた。星分(ほしわき)市のニカたちと同じ年代の人々は、とりわけ幼い頃から魔法とともに育ってきたようなものなので、何か魔法に関係するアクシデントがあってもそうそう動じないのだった。  動揺するのはむしろアクシデントを起こしてしまった方の人間だ。 「……ニカ、大丈夫?」  ニカは正直に首を横に振った。教室の床を埋める色とりどりの花を前に、自身の力が不安定に働いてしまったことに、そしてそれがクラスメイトに迷惑を掛けてしまったことに――皆慣れたように花を掃いたり窓から外に出したりしているが――見るからに不安げな表情になっている。  本来、たまたま一部の人間とはいえ複数が魔法が使える状況というのは珍しい。俗にいう魔法使いではない人々――もしかしたらそれも魔法使いと言ってしまっても良いのかもしれないけれど――降って湧いた魔法の力が今後どうなるのかまでわからないため、あえて魔法使いとは呼ばれない人々。  そんな不安定な魔法を獲得しているのがニカのような人間で、自分のせいでいつもと異なる場面が生まれてしまうと、ことさら落ち着かなくなるのだ。 「ニカち、顔色悪いから保健室行ってきたら? それか相談室。今日グチ先生いたし」  グチ先生というのはニカたちの学校のスクールカウンセラーで、アザ博士とも交流がある人だった。そのことも含めて、魔法が使える生徒に何かあったときにも頼りにされることが多い。 「でも……」 「たぶんそのうちこのお花も消えちゃうんじゃないかなあ?」  別のクラスメイトができたばかりの花冠を手に持ちながら近づいて来る。 「色きれいじゃん、ホノミさすが」 「でしょ? 花冠とか久々に作ったよお」  ニカちゃん見て、可愛くない? と自分の頭に載せて、制服のスカートの端を摘まんでポーズを取ってみせる。それでようやくニカはちょっとだけ笑った。 「先生には体調悪いって言っておくから。うちらついてこうか?」  カコが言って、ホノミがニカの手から塵取りを受け取る。そばで見ていた才可和くんが、行ってきなよと促した。 「……うん。ごめんね、片付け、」  教室の中から別の数人が、気にしないよう声を掛けた。こんなにも気遣われては、さすがにニカも折れて少し気持ちを落ち着けに行こうと思った。正直に言えば動揺する気持ちに引き摺られて頭がくらくらしていて、横になりたい気分だった。  結局スミオがニカに、保健室まで付き添うことになった。 「スミオもごめんね……」 「いいよ。ついでに俺も保健室で寝かせてもらえないかな。眠いし」 「えええ……」  ふっとニカが気を抜いたように笑って、スミオはあまり表情が変わらないながらも、安心したような顔になった。もうすぐチャイムが鳴る、放送前のじりじりとした音が階段のスピーカーから漏れる。予感がすぐに形になって、ホームルームを始める合図に電子音の鐘が鳴る。 「教室の……なんであんなふうになっちゃったのかな」  三階から一階への階段をゆっくり降りながら、ぽつりとニカが言った。体調が悪いならエレベーターでも、とスミオが提案したけれど、歩きたいからと断っていた。 「ニカの花が出てくるのって、すごく嬉しいことがあったときが多いよね」 「今日は別に、いつも通りだったんだよ。朝ナナハさんに会えたわけでもないし……」  ちゃんと自分の嬉しいことの自覚があって、それを人に言えるところがすごいとスミオは思う。自分だったら恥ずかしくて、恋愛でなくても、好きな人間のことを素直に好ましいとはなかなか表せないだろう――スミオは他人に恋愛感情を抱くことがないから、なんとなく想像でニカのような人々について想像を巡らす。誰かに会えて嬉しいという気持ちならわかるから。 「いつもと反対で、悲しいことがあったとか?」 「ううん……あ、でも、昨日」  ニカがふと階段の途中で立ち止まった。つられてスミオも足を止める。 「昨日の夜……なんかね、変な感じがしたの。急に不安な感じがしたみたいな……」 「……ストレスとか?」 「なんだろう……嫌な予感ってああいう感じなのかな?」 「えっ……それは俺もわかんない……」  二人して悩む顔になってしまう。 「上手く言えないんだけど……なんかね、不安なときの、怖い? みたいな気持ちになって、でも特にそう思うようなことはそのときなくて、でも、たぶん、わたしじゃなくても誰かがそう思ってるのかもっていう感じがしたんだよね」  ニカが懸命に言葉で表そうとするので、スミオも意図を汲み取ろうと黙って聞いている。 「なんでだろう。でも、確かにそんなふうに感じて、たぶん数秒だけだったんだけど。なんで……あ、」  ニカはスラックスの布を、指先でちょっとだけ摘まむ。何か触っていたかった。 「魔法を使うときの、動き? に、似てたんだ」 「……その魔法って、花が出てくるほうじゃないやつ?」 「……そう。咲かせるほうの」  それは、今は健診でアザ博士がいるときにしか使わない魔法だった。 「アザ博士は流れって言ってるんだけど……自分の中に魔法があるのがわかって、急に不安になっちゃったみたいな感じで、だからなんか変だなって思ったんだ。そのときわたし、魔法を使おうと思ってなかったから」 「それは……なんでだろうね……?」  聞いていてもスミオは魔法を使ったことがないので、いまいち感覚をイメージできなかった。素直に疑問が口から出るし、ニカも自分に起きたことがわからないので首を傾げるしかない。 「でも、それが何か関係があるかもしれないよね。とりあえずアザ博士に会ったときに、また聞いてみたらいいと思う」  そうする、とニカは頷いた。  階段を降り切って、一階のだいたい真ん中にある保健室に向かう。すると丁度グチ先生が保健室から出てきた。眼鏡の位置を直しながら出てきた彼と一緒に、保健室の扉から溢れるように砂が流れ出た。 「ひー……これはちょっと想定外だ、まいった」  室内用の靴を脱いで、中に溜まった砂を廊下の窓から外に落としている。服も砂だらけだった。空いた手で上着のポケットからスマホを取り出して、廊下でそのまま電話を掛け始めた。 「――――あ、クロエ? 今どこ? 家? ちょっと生徒に色々あって、迎えに行くから来れないかな。校長には話しとくから……うん。ごめんな、頼む」  通話を切ると、様子を見ていたニカとスミオに気づいて普段通りにへらっと目を細めた。 「吉都木(きっとき)さんも大変な感じかな? 大丈夫ですか?」  グチ先生は靴を履き直す。ちょっと今、保健室が砂っぽくてね、と言いつつ。 「ニカも、さっき教室で花をたくさん出しちゃったみたいです」 「あ、はい、そうです。えっと……」  グチ先生は腰を屈めて、ニカたちと視線が同じくらいになるようにした。 「慌てなくていいですよ。保健室に休みに来てくれたんですね。ちょっと今、中が大変なので……」  グチ先生は首から掛けていた鍵を外すと、ニカたちの前に差し出す。 「魔法の相談のために、これから薊矢さんを連れて来るから、相談室の方で休んでてもらってもいいですか? 生野衣(きのい)さんも一緒にいてくれるなら、あとで先生にも言っておきますから」  スミオが頷いて、ニカが鍵を受け取る。ソファに寝てもいいですからね、と言い添えられた。グチ先生は保健室の中に向かって、 「薊矢さん連れて来ますから、羽磨(はま)さんもうちょっと頑張ってね。(とり)先生いったんよろしくお願いします。あと相談室に吉都木さんと生野衣さんが行きますので」  じゃあまたあとで、とニカとスミオに手を振って廊下を去って行く。職員室に入って行ったので、校長に事情を話しに行ったのだろう。たまにあることなのですぐアザ博士を連れに行ってくれるはずだ。ニカとスミオは言われた通りに、廊下の突き当りにある相談室へ向かおうとする。保健室の前を通る際、開けたままのドアの向こうから声が掛けられる。 「ニカさーん。必要なものとかあるー?」  保健室の中は、砂が鳥先生の腰の辺りまであった。どうにかその中を移動しようとしているようだが、グチ先生に比べてだいぶ身長が低いため、身体の半分も砂の中に埋まっているとほとんど動くことができない様子だ。 三つあるベッドの内の一つがカーテンで囲われていて、たぶんそこにゆっくん――ユツイくんがいるのだ。ニカは健診でも会うこともあり、小さな頃から親しい分心配になった。 「必要なもの、あの、大丈夫です」 「そー? 何かあったら言いに来てくれるかな? あとで様子見に行くからね。暖房入れていいしできたらドア開けといてくれる?」  わかりましたと返事をして、ニカとスミオは廊下を歩き出す。鳥先生こそ大丈夫なのかとたずねたかったけれど、ユツイくんがさらに落ち込んでしまうかもしれないと思うと口に出せなかった。保健室に満ちた砂は意図的でなく魔法で生まれたものだし、おそらく時間が経てば消えるだろう。      ⚘  今ではニカも自分の魔法のことであまり動揺しなくなっている。  初めて魔法が使えるようになったのは六歳のときで、あのときは小学校の校庭の隅に植わっていたチューリップの成長を早めて咲かせてしまった。どんなふうに咲くのかなと無邪気に蕾に触れたら、それが途端に膨らんで花びらも鮮やかに開き、突然のことに驚いているうちにみるみるしぼんで枯れてしまったのだ。隣で一緒になって花を見ていたスミオが、今なんて言ってたの? と不思議そうに聞いたのにも答えられなかった。  それをたまたま見ていた用務員さんが、慌てて他の先生に連絡し、ニカの両親に連絡が行き、そして当時まだ生きていた魔法使いの薊矢(あざみや)トオノ――アザ博士のおじにあたる人のところにまで連絡が行くことになった。 「吉都木ニカさん」  呼び掛けられても、ニカは返事ができなかった。診療所の一部屋にテーブルを挟んでトオノさんと向かい合って座っていて、ニカの両隣には彼女を挟むように両親が座っていた。ニカ、と父親が呼び掛けて、不安そうにニカが見上げれば安心させるように微笑んだので、彼女はようやくトオノさんの目を見た。もう一度名前を呼ばれて、小さな声で「はい」と返事をした。 「会うのは初めてですね。わたしがこの市の魔法使いです。名前は薊矢トオノ。砥ぐという字に己と書いて砥己(トオノ)というのですが、まだその漢字は学校では習っていませんか?」 「……ならってないです」 「そうですか。いずれ習う日も来るでしょう。ニカさんと呼んでもいいですか?」 「はい」  まずは謝罪をさせてください。申し訳ありませんでした。そう言っておとなが自分に向かって頭を下げたことにびっくりして、ニカは目を丸くした。  トオノと名乗った星分市の魔法使いは顔を上げると、再びニカと目を合わせる。彼女は正直顔を直視して話すのにも緊張していて、そわそわとその場から逃げ出したいような気持ちになった。 「ではニカさん。わたしのことはトオノと呼んでください。ニカさんの名前は漢字で書きますか?」 「かんじで、書きます」 「この紙に書いてもらうことはできますか?」  そう言って、真っ白な折り紙と鉛筆をテーブル越しに手渡される。受け取って、思わず母親と父親の顔を交互に見上げた。母親は自分で書けたでしょう? と普段通り飄々としているし、父親もゆっくり書いてごらんと促した。ニカは意を決するように、真剣に自分の名前を紙の上に書いた。力んでしまって、とても濃く線が引かれる。書きあがった字は紙の頭の方に寄ってしまったけれど、ゆっくり丁寧には書いたので、よし、と思って紙と鉛筆をトオノさんに返した。 「……ふむ」  描かれた二文字を見て、トオノさんは初めて口元をゆるめた。 「ではこれで、わたしの魔法を使いましょう。それから、先にご両親にはお話したけれど、ニカさんがどうして魔法が使えたのかについても説明しますね。聞きたいことができたら聞いてください」 「……あの」 「はい」 「聞きたいんですけど、」  どうぞ、と落ち着いた声で促される。つい最近読んだ絵本でフクロウがバイオリンを演奏していたのを思い出しながら、大きいバイオリンみたいな人だなとニカは思った。今ならコントラバスだと喩えられるだろう。 「トオノさんは……どうやって、まほうを使えるようになったんですか?」 「わたしですか」  トオノさんはいったんニカの名前が書かれた折り紙を机に置いた。 「わたしは魔法使いなので……生まれたときに、魔法に見つかりました」  ニカは首を傾げる。 「魔法は生まれるものではありません。そこにあるものです。なので、それを受け入れられる場所があれば、そこに満ちるだけなのです」 「……えっと、むずかしいです」 「難しいということがわかっているのであれば、いつかそれがどういうことなのかわかる日も来るかもしれません。そうですね……ニカさんは、おそらく、人の悲しいということや、辛いという気持ちを、上手に掬える人だったのですよ。ニカさんが持つことになった魔法は、そういうものなのです」 「……かなしいまほうなんですか?」 「それに起因することになったというだけで、魔法は悲しくありません」 「きいんする……?」 「……ニカさんの魔法は、ある人が悲しいと思ったときに使ってしまった魔法がもととなって、あなたに宿ったのです」  誰かが悲しくて魔法を使ったんだ、とか、悲しいときに使う魔法ってなんだろうとか、ニカはどんどん疑問がわいて、徐々に思考がいっぱいいっぱいになってくる。泳ぐときに上手に息ができなくて、もがくような気分だ。  それでもぽろっと出てくる言葉があって、 「悲しくなった人は、今、悲しくないですか?」  トオノさんはそれを聞いて目を瞠った。そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。彼女の両親は先に状況を聞いていて、怒るに怒れなくて子どもの感情如何で対応を考えようとしていた。  大人三人が黙ってしまったので、ニカは不安になる。ただ気になって口にした言葉だったが、言ってはいけないことだったのだろうか。 「えっと、だって、泣いちゃってるかもしれないし。だいじょうぶかなって」 ややあってトオノさんが、のちほどきちんと、大丈夫か聞いておきますと言った。ニカはほっとして、今度は別の気になっていた質問をする。 「トオノさん、あの、」 「はい」 「トオノさんのまほうは、ニカの名前で、どうやって使うんですか?」 「ニカさんに名前を書いてもらった紙と、今回の魔法を使った人の名前を書いた紙を合わせて、魔法を移動させるんです」 「……ニカの魔法は、消えちゃうんですか?」 「ええ。お嫌ですか?」  ニカはううんと考え込む。すぐに魔法が手放せるという安心と、ちょっとした好奇心が芽生えているのと、それからなんだか寂しい気持ち。  ニカは――      ⚘  天上に設置されている暖房からの温風で、スミオの肩に寄り掛かって眠るニカの髪がわずかに揺れている。ニカの方が身長が高く、この姿勢苦しくないのかなと思いつつ、スミオはあまり来ない相談室の調度を静かに眺めていた。  入り口のドアは開けたままで、いつ鳥先生が来るだろうかと待っていたけれどなかなか現れる気配がない。ユツイくんは大丈夫だろうか。考えごとをしつつ、どのくらい時間が経っているのだろうかと正面の壁に掛かった時計を見上げれば、まだそれほど時間は経っていなかった。  アザ博士はあとどのくらいで来るだろう。一時間目の授業の宿題は出たのかな。今日は自分が指名される日だったかな。とりとめのないことを考えていたらいつの間にか自分も眠たくなってくる。部屋の暖かさに頭がぼんやりしてきた。今チャイムが鳴った気がする、相談室のスピーカーは切ってあるんだな――…… 「寝ているのかな」  ひそめた声が聞こえて、スミオは相談室の入り口に目をやった。意識をはっきりさせるように何度か瞬きをする。ドアから入って来たのはアザ博士一人だった。 「アザ博士」 「その声はスミオくんかい?」 彼女は白杖を手にしたままスミオの向かいのソファに座ると、疲れたように息を吐く。若干顔色が悪い。 「やあ。スミオくんと会うのは久しぶりだね。元気だったかい?」 「はい……アザ博士は、体調が良くないですか?」 「わたしの心配をしてくれるのかい? ありがとう。ちょっと今バランスが悪くてね」  おかげで今日は日中も杖がないとやりづらくてさ、とアザ博士は肩を竦めてみせる。 「寝息が聞こえたけど、ニカくんは寝ているみたいだね」 「疲れちゃったんだと思います。気苦労かな?」 「気疲れって言いたいのかな……?」  そこへスリッパのぺたぺたという音が聞こえた。戸口に現れたのは、裸足にスリッパを履いた鳥先生だ。失礼しまーすとのんびり口にして、ニカの様子を見てそうっと近づいて来る。 「ニカさんは寝ちゃったね。起きたら熱がないか測らせてね」  鳥先生は立ったまま話す。いったん着ている衣類の砂を払ったような格好で、まだ着替えてはいなかった。 「あの、ユツイくんは大丈夫ですか?」  スミオがたずねれば、鳥先生はにかっと笑って頬にえくぼができる。 「だーいじょうぶ。今は落ち着いてて、凪口(なぐち)先生が見てくれてる。砂は薊矢さんがなんとかしてくれたし。何度見ても魔法って不思議よねえ」  それはそれとして、と鳥先生はアザ博士に向き直った。 「原因は何?」 「単刀直入だなあアツキさんは」 「回りくどいの苦手なんだもん」  うーんとアザ博士は頭を逸らして、見るともなしに天井を眺めながら、 「スミオくんも聞く?」 「俺も聞いてていいんですか?」 「いいよ。君も分別はあるだろう」  彼女は頭を起こして、ソファに座り直す。 「今この市には魔法使いが二人いてね、その影響だと思う」  どういうことだろうかとスミオは黙って聞いている。 「大抵の市や町や村……まあ一口に言って自治体は、場所にもよるけど、今だって所属する魔法使いは一人ずつってなってるだろ」  そういえばそうだったとスミオは思い出した。魔法使いは一つの市や町や村に一人まで――ほとんどの市町村が採用していた条例。今ではほとんどの場所からその条例はなくなったけれど、ただなくしたからといってそこに住む人々の意識まで簡単に変わるわけではない。ここ星分市も、合併して星分市になる以前にはその排他的な条例が存在したけれど、旧星分町がもともとその条例を持たず今後も持つことに反対したため、それに合意する形で合併してなくなったのだ。スミオたちが暮らしているのは旧星分町だった地区で、薊矢の家もそこにある。  スミオたちは生まれてからずっとそういう環境で過ごしていたから、いざ他の場所の魔法使いの現状にも意識をやると、冷や水を浴びせかけられたみたいに身が竦む。  明文化されたって、いつまでたっても魔法使いが一人の人間としてなかなか扱われないということ。  アザ博士は魔法使いだけど、魔法使いでもあるというだけで、一人の人間なのに。  ニカだって人間だ。ユツイくんだって。他の魔法が使える人々も。 「条例がなくなったところでそうそう変わらないもんね。ごめんなさい」 「なんでここで謝るんだよ……」 「あなたが子どもだったとき、わたしはおとなだったから」 「今その話する?」 「ま、あとでね。凪口先生たちも連れて」 「あいつの連れまで巻き込んで呑む気か。わたしは下戸だからパス」 「知ってる知ってるソフトドリンク色々あるとこ行きましょう」  それで? と鳥先生は強引に話を戻そうとした。 「……あれ、アザ博士?」  ニカがまだ眠たそうに瞬きをして、目の前に座った人物のことを呼ぶ。いいタイミングで起きたなとスミオは感心した。あとで自分が説明する手間も省けるし。  いたた、と首をゆっくり伸ばして、スミオにもたれていた姿勢を直す。 「ごめんスミオ……つい寝ちゃった……」 「いいよ。大丈夫?」 「うん。ちょっとすっきりした。ありがとう」  鳥先生が立っていることにも気づいて、ニカは慌てて姿勢を正した。 「すみません、相談室で寝ちゃいました」 「謝ることじゃないよ。それよりアザ博士の話聞いてるとこだったんだけど、ニカさんも聞いといたらいいと思う」  なんの話だろうかとニカはアザ博士の方を見た。 「その前にニカくん、手。触ってもいい?」  ニカは頷いて両手を広げて差し出した。ニカの中の魔法を見るときのやつだ、とわかっていたので構えることもない。  アザ博士はニカの両手を自分の両手で握って、何か呪文を唱えた。音はない。魔法は空気を渡らせるんじゃなくてね、魔法同士を支え合うんだよと昔聞いた。それが支え合うのではなくて、喧嘩させてしまうこともあるとも。いまいち魔法の流れというものがわからないので、ニカはそういうものなんだなと思うことにしている。 「ニカくん、ナナハくんのこと好き?」 「……へ⁉」  突然の質問に、何を言われたのか理解した瞬間ニカは真っ赤になった。 「なんっ……なんで⁉ ですか⁉」  声が裏返る。 「いや、ええと……すまない。特別に好意があるかないかじゃなくて、人として慕っているかどうかっていうことなんだけど……」  しまったなとアザ博士は思ったけれど手遅れだった。鳥先生の視線が痛い。一対一でもないときに他人の恋路を勝手に暴くような真似をするなという。 それにしたってニカは感情の発露が素直なのだった。周囲にとてもわかりやすく映る。 「あ、はい、人として、好きです……」  ニカは顔を赤くしながら居心地悪そうに答える。アザ博士が手を握っていなければ顔を覆って蹲っていたかもしれない。スミオはその様子を眺めながら、今は花が出てこないんだなあと暢気に考えている。 「でも」  蚊の鳴くような声だ。 「わたし、ナナハさんのこと、好きです。まだ、良く知らないけど……」  その好きは、恋の方の好きだなと。  こういう場でも言えてしまうのがニカなのだ。  恥ずかしくて顔を赤くして若干涙目になりながらも、気持ちを誤魔化すようなことを言う方が苦手だった。 「…………それは、ナナハくんに言ってあげておくれ」 「そ、そうですよね。でも、アザ博士が聞いたんじゃないですか」 「それはそうだ……。まあ、なんで聞いたかっていうと、これから話すことに関係あるからなんだけど」  アザ博士はニカの手を放して、ふうっと息を吐く。 「あのね。知ってると思うけど、ニカくんの魔法はわたしのせいで宿ったものだ」  彼女がそう言うとニカとスミオは表情が硬くなるし、鳥先生は明らかに怒った顔になる。 「クーローエーちゃーん?」 「……だって」 「だってもくそもないから。そういう言い方子どもの前でするのやめなさい」 「くそとか言うじゃん子どもの前でさ……」 「何?」 「別に」  アザ博士は白杖を両手で握った。鳥先生がアザ博士たちが子どもの頃からの知り合いなのは知っていたけれど、それでも彼女がアザ博士を下の名前で呼ぶのは初めて聞いたし、そういえばグチ先生がアザ博士を下の名前で呼ぶのもニカは今日初めて知った。 「……まあ、そう、ニカくんやユツイくんの魔法は、もともとわたしの魔法の影響下にあるわけだ」  それはニカが小さい頃、アザ博士の前に星分の魔法使いと言われていた彼女のおじからも聞いたことだ。 「だけど今……しまった、」 「さっき言ってた魔法使いが二人いるっていう話、アザ博士とナナハさんのことなんですか?」 「本っっ当に今日は調子が良くないな……」  アザ博士は呻いた。それから深い溜息を吐いて、ナナハくんにはあとで謝ろうと独り言つ。 「ニカくんは今、ナナハくんの魔法に影響されているんだ。魔法が使えるもの同士で親しい感情を持つと、特に起こりやすくて。星分市は今わたしの魔法の影響下にあるから、余計にニカくんたちの魔法のバランスが崩れてしまっているんだよ」  つまり今、ニカがナナハを好きだから。  それならば、ニカが感じた不安や恐れと矛盾しているんじゃないだろうか。あれはなんだったのだろうか。
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