三、それは嫌う理由じゃない

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三、それは嫌う理由じゃない

 えっニカなんでそれで平気なの?  そう言いたいのをぐっと堪えて、リッタはペットボトルの蓋を捻った。コンビニで新発売の、パッケージの可愛いカフェオレ。  今日は青空の下、公園のベンチに四人で集まっている。冬の暖かな晴れ間を小春日和って言うんだっけとリッタはぼんやり思いつつ、買ったばかりで熱々の肉まんを頬張るニカとスミオを眺めた。肉まんは商店街の小さな中華料理店が作っているもので、冬は路上でも販売しているのをヒノが買ってきたのだ。元気になったら食べたくなったのだとか。 「じゃあニカは今、アザ博士以外の魔法使いの感情如何で、自分の魔法がどうなっちゃうかわからないんだ?」  ヒノが聞けば、ニカは口の中のものを飲み込みつつ頷いた。ペットボトルのお茶を一口飲む。 「うん。今日の朝ね、」 「今日?」 「息しづらくて目が覚めたんだけど、そしたら花の中に埋もれちゃってて」  は⁉ というニカ以外の三人の声が揃った。 「それは駄目じゃない? ニカは花だけどさ、ユツイくんってめちゃ背が高い砂が出せる子でしょ? もし朝砂に埋まってたら大丈夫じゃなくない?」  矢継ぎ早にリッタに言われてさすがにぞっとしたのか、ニカの目が泳いだ。 「でも……」 「でもじゃないじゃん?」 「だって、リッタ、」 「韻踏んでる?」 「スミオちょっと黙ってて」  そこまで考えてなかった、とニカはしょげ返ってしまった。ニカの隣に座っていたヒノが彼女の背中を撫でつつ、よしよしとあやす真似をする。ヒノすぐニカを甘やかすんだからとリッタが視線を送ると、別にいいじゃんとヒノが首を傾けた。  リッタとヒノの視線のやり取りの間に挟まれてスミオは、肉まんの最後の一口を口に入れた。ベンチに空いた手を置くと、指が小さな丸いでこぼこに触れる。昔そこにあったネジ穴を埋めた跡だった。三等分していた区切りは人の排除の印であるから撤廃されて、おかげで現在はこうして四人で座れるベンチになっている。四人とも成長したせいか、ちょっと窮屈ではあるけれど。 「俺は魔法が使えないからわかんないけどさ、不安定だし、危ないと思う」 「危ない……かな」 「何が起きるかわかんないのって怖くない?」  リッタはひとまずそこで区切って、まだ包みを開いていなかった自分の分の肉まんに大きく齧りついた。ヒノはまだ膝の上に包みを置いたままだ。冷めてしまうだろうに。 「……違うな。何が起きるのかわかんなくて面白いときもあるけど、でもそれとは別でしょ、命に関わりそうなことって」  言い直してみて、自分で口にしたことなのに、魔法が命に関わるかもしれないことってあるのかとリッタは内心驚いていた。魔法使いのアザ博士もほかの魔法を使える人々も、彼の知る限りにおいて危ないことはしていなかったのだ。だから魔法が物騒だとか考えたこともなかったし、自分の暮らしている場所は他の地域とは違うんだと思っていた。みんな考え過ぎなんだと。 これってそういうことなの? 「リッタ」  ヒノが呼ぶ。 「何考えてるか知らないけど、ニカを責めるのはやめて」 「責めるつもりじゃ……ううん、」  リッタは包みをベンチに置いて立ち上がり、ニカの前にしゃがんで彼女の俯いた顔を見ようとする。リッタはロングスカートの裾が地面に付いてしまうのも今は気にしない。 「ニカ、ごめん。言い過ぎた」 「……大丈夫」 「ニカは悪くないから。俺が心配で怖いと思ったんだよ」 「うん」  大丈夫。もう一度言って、ニカはへにゃっと笑ってみせる。そういう顔をさせたかったわけではなかったので、リッタは落ち込むけれどそれは面に出さないで微笑み返した。 「あ、わかった」  何が? とスミオの方を三人が見る。 「だから星分(ほしわき)市は魔法を使える人を差別しちゃいけないって決めてるんだよ」 「スミオは唐突だね……」  言いながらヒノが眼鏡の位置を直した。 「だって、魔法が危ないと思ったら、怖いってなって、怖いから制限しようってなるんじゃないの? だから魔法使いは一つの場所に一人って昔決めてたんじゃない?」 「ああ、そうかも」 「俺……ほんとごめん……」 「まあでも、ちゃんとそうやって星分市は考えて決められたわけでしょ。魔法使いのアザ博士とか、ニカとかを差別しないようにって。ほかの人のこともね」  だからあたしもここでは比較的安心して暮らせるし、と付け足す。ヒノはトランスジェンダーだ。言葉にしてしまえばニカは魔法が使えてレズビアンだし。普段当たり前に生きているけど、ひと度言葉を用いれば違うものとして分け隔てられそうになる。  ただ、星分市にいれば、それぞれみんなの可愛い子どもたちの一人だった。  自分がどういう人間であるか言葉にしても、そのまま生きていける場所……と、いうことにはなっている。今のところは。これからもそうであってほしいし、そういう場所がもっと増えてくれたらいいのにとヒノは思う。それに星分市の条例も完璧ではないし、と。 「ユツイくん……一昨日は学校来てたけど、大丈夫かな」 「ユツイくんの魔法のことで何かあったら、今頃大騒ぎだと思うよ?」  スミオの励ましに、ニカはそうだよねと気を取り直した。そんなことがあったら今頃、ニカたちはこうして公園でお喋りをしていられないはずだ。  とりあえず今元気なわけだし、と手に持ったままだった肉まんを指差される。スミオ以外は食べる手を止めていたので、リッタもベンチに座って少しの間食べることに集中することにした。  まだ雪が降るほどではないけど確実に寒い季節。ベンチに座っていると寒いのに、寒い寒いといいながらも四人で集まってしまう。 「……ヒノちゃんのマフラー可愛いね」  食べ終えてまずニカの口から出たのがそれだった。待ち合わせて会ったときから気になっていた、カラフルなパステルカラーで編まれたマフラー。  一応ヒノやリッタにも言っておこうと、ところどころ省きながら先日のアザ博士との会話を話し出したのは自分だけれど、魔法と関係ない話もしたい気分だったのだ。 「これ? ありがとう。友だちが編んでプレゼントしてくれたんだ」 「俺の知ってる友だち?」  リッタが異様な食いつきを見せた。さっきまで畳んでいた空になった包みをくしゃりと潰す。ヒノは丁寧に三角に畳んでいた。 「ミカだよ……ていうか何、リッタの知ってる知ってない関係ないでしょ」 「……だってヒノ、高校俺と違うとこ行くし……」  まだ根に持ってんの⁉ とヒノが剣呑な目で見るのでニカは思わず笑ってしまった。 「ミカさんはリッタの知ってる人なの?」 「そうとも。俺のこと日替わりで嫌がらせしてきた二人のうちの一人」 「何それ。初めて聞いたよ?」  絶句してしまったニカの代わりにスミオが相づちを打つ。 「ほらー俺可愛いからさー可愛い努力してたからさーそれが気に入らない! って奴の代表に嫌がらせされてたわけ。で、その二人はそれぞれ違うクラスだったんだけど、たまたまかち合うタイミングがあって、二人で話し合って日替わりで俺のこといじめに来てたの」 「よくわかんない気遣いだね?」 「まあ色々あって今は友だちなんだけどね二人とも」 「ミカはリッタのこと嫌いって今も言ってるけど」 「嘘でしょ? この間俺にもちゃんとお土産買ってきてくれてたじゃん」 「あたしのは可愛い袋に入ってたけど、リッタのはそのまんまだったね」 「でも俺の分も……えー。なんでミカとヒノはそんな仲良くなっちゃってんの?」 「ミカいい子だよ。あたしが学校のことで悩んでたとき、引っ越し先からわざわざ来て励ましてくれたし」  そういえばヒノが高校に進学して少し経った頃、理由は未だに聞いていないけれど、すごく暗い顔をしていたことがあったなとニカは思い出す。勝手にではあるけど自分の思いつく限りで想像を巡らせたり、何か力になれそうだったら言って欲しいとは伝えていたけれど、自分では力不足だったかもしれないなとも考える。それでも、自分以外にヒノを励ましてくれる人がいたんだなと思うと嬉しくもなった。自分の知らないところで自分の親しい人に何かあると、とても複雑な気持ちになる。 「そんな……俺だって……ヒノ……俺がヒノのこと大好きなの知ってるでしょ⁉」  たぶんリッタはヒノに対しては、複雑な気持ちになる、というのが強い。リッタはヒノのことが好きだと昔から公言しているし今も変わらない。ヒノが他人に恋をしないのも変わらない。 「関係なくない……?」 「関係あんの! 俺はずっとヒノのこと考えてるのに! 頼ってよ!」 「なんでリッタはそういうこと恥ずかしげもなく言うの……」  ヒノが呆れかえって、いつもの二人の応酬にニカはほっとした。   その瞬間、ひやりと急に不安な気持ちが心臓を撫でたように感じた。 冷たい風に乗って、白くて小さなものが目の前をひらひらと過ぎて行く。 もう雪が? それにしては大きかったような。 「……あれ?」  スミオがある一か所を見つめて声を漏らした。ニカはついその視線を追う。  ベンチにほど近い場所には、季節の花が楽しめる公園の遊歩道があって。 「ニカ、」  見ちゃ駄目だとスミオが咄嗟に立ち上がって視界を遮ろうとしたが遅かった。  こんな寒い時期に、道に沿って植わるヒメリンゴの花が満開になっていた。  さっきまで枝だけだったのに。 「グチ先生来たよ。ニカ、ほら」  ヒノが声を掛けても、彼女に抱き着いてぐずぐずに泣いているニカは顔を上げられない。グチ先生に連絡をしたのはリッタで、今日はニカの通う診療所も休診のため、リッタの母親がグチ先生と知り合いなのを思い出してそこからどうにか彼に繋いだのだった。できれば魔法のことはアザ博士に頼りたかったけれど、それより先に今の状況に上手く対処できそうな大人が必要だと思っての行動だった。 「こんにちは、吉都木(きっとき)さん。凪口(なぐち)です」  グチ先生は屈んでニカに声を掛ける。急いで来たせいか髪が乱れていて、慌てて着たらしいコートの襟がきちんと整えられずに立っていた。  ニカはようやくおずおずと顔をグチ先生に向けて、服の袖で涙を拭きながら、小さな声でこんにちはとだけ言えた。いくらか泣いてグチ先生が来てくれて、少しはびっくりした気持ちが発散したのか落ち着こうとしている。 「宮摩(みやま)先生……ヨリコ先生と言った方がわかるかな? ヨリコ先生が診療所を開けてくださるそうです。休ませてもらえるそうですから、いったんそちらに行きましょうか。ここは寒いですし。のちほど薊矢(あざみや)さんも連れて行きますから」  ニカが頷くのを待ってから、それじゃあとグチ先生は立ち上がる。付き添いとしてスミオが付いて行くことになって、スミオはニカを促すように手を繋いでベンチから立った。  グチ先生の車に乗っている間、スミオはずっとニカの手を握っていた。昔からそうだ。お互いが元気がないときに自然と手に触れている。そこにロマンチックな意味はなくて、でも自分たち以外からないものを見出そうとされたりもする。幸い親しい人たちの中に今はそういう人がいなくて、ニカもスミオも安心して友人でいられる。 「吉都木さん、大まかに事情は聞いてるけど、このあと薊矢さんに自分から話せそう?」  後部座席に座るニカは一度頷いたあと、グチ先生が運転席で前を見ていることに気づいて、掠れた声ではいと答えた。涙はもう止まっていた。 「何か欲しいものとかありますか? あればコンビニに寄るけど」 「……大丈夫です」  そこで携帯の着信音がした。グチ先生はちょっとごめんねと断ってから車を道の脇に寄せて、いったん電話に出る。「クロエは?」とたずねている様子から、アザ博士ではない人と通話をしているのだと察せた。その途中で、吉都木さん、と後部座席を振り返る。 「薊矢さんと一緒に、薊矢……ええと、ナナハさんも同席していいですか?」  ニカは一瞬固まって、スミオの顔を見た。目が合ったスミオもさすがにそこは判断できない。 「あの……スミオも一緒なら」  ニカは咄嗟にそう口にしていた。グチ先生は電話の向こうにいる人に同じことを聞き、ややあって大丈夫そうだよと言って電話を切った。 「俺もいていいんですか?」 「吉都木さんがいいなら。向こうもいいって言ったしね。あとは事後報告で悪いんですが、吉都木さんのご両親には診療所に行くことだけ連絡してあります。同席してもらいますか?」  ニカはそれには首を振った。 「……母と、父には、あとで。ナナハさんもいるから」 「わかりました」  そこまでやり取りをしてほっとしたのか、ニカは深く息を吐く。再び車が走り出して、車内は走行音だけがしている。      ⚘  ヨリコ先生は診療所の一室に暖房を入れてくれていた。真ん中に大きめの楕円テーブルがあって、椅子が数人分置かれている。部屋の端に使っていない間仕切りやビニールの掛かった長椅子が置かれていた。 「飲み物、煎茶とココアならあるんですが、どちらがいいですか?」  煎茶って? と聞いたスミオに緑茶のことだよとニカが答えた。ニカの家ではあまり緑茶を飲まないけれど、以前アザ博士が教えてくれたので知っていた。いらないと答えようかとも思ったけれど、ヨリコ先生は急かさず、ニカと目が合ってにこっと笑ってくれて、ココア、とニカはつい答えていた。スミオも同じものをお願いした。  グチ先生はアザ博士とナナハを連れに行っている。窓から見える外の景色は、陽が落ちるのが早いためか既に夕方のようだった。  甘い空気が漂ってきて、毛糸で編まれたコースターの上に水色のマグカップが置かれる。お礼を言って一口飲もうとしたがまだ熱かった。 「薊矢くんたちが来るのにはまだ時間がありますね。あの子たちが来るまで、あたしもここにいてもいいかな?」  ヨリコ先生は自分の分のココアも持っていた。ニカが頷いて二人の前にヨリコ先生が座る。柄物のセーターに今日は白衣を羽織っていなくて、白髪の混じる髪を三つ編みにした先にはリボンが結んである。リボンはアザ博士が手触りの良さそうなのを見つけるとプレゼントしてくれるのだそうだ。  しばらく飲み物を飲んでいるだけで、みんな何も言わなかった。壁に掛かった振り子時計のかちかちという音が部屋に響く。ぼうっとニカがココアの表面を眺めていると、スミオが口を開いた。 「ヨリコ先生って、昔から星分市に住んでるんですか?」 「ああ、そうですね。大学と就職でいったん離れたけど、結局戻って来ちゃいましたね」 「なんで戻ってきたんですか?」 「聞きたい?」 「……ヨリコ先生が嫌じゃなかったら」  あたしにまで気を遣わなくってもいいよ、とヨリコ先生はマグカップをテーブルに置いた。自分の分はコースターを持ってこなかったので、ことっと音がする。 「あたしはねえ、薊矢くん……ややこしいね。トオノくんのお母君が大好きだったんですよ」  お母君、なんて言い方を普段聞かないので、ニカもスミオも一瞬考えてしまった。 「あの人は魔法使いではなかったんですがね。あたしにとっては魔法使いみたいなもんでした。トオノくんとは同級生でしたし、そのよしみでこの診療所を魔法で何かあった人たちに対処する場所としても提供しているんですよ」 「……トオノさんのお母さんのことが、好きだったんですか?」 「ニカさんが気になるのはそこですか」  少し臆しつつも、はい、と小さな声で返事をした。 「そうですねえ。恋慕に近くもあるかもしれませんが、愛ってそれだけじゃないでしょう? 歳が離れていても友情は生まれるし、友として相手を慕うことも愛の一つだとあたしは思います。ただ姉みたいなものという言い方も好きではないんですよねえ、あたしは家族の情を信奉しちゃいませんから。でも二人で一緒にいられたらいいなと思うことはありましたよ」 「それでもやっぱり恋じゃないんですか……?」 「こだわりますねえ。何もかも分類できるなんて幻想ですよ。名前を付けるのは安心するために必要な行動の一つではありますが、その分類を求めていない人間を縛ろうとするのは、あなたは安心できてもあたしは居場所を脅かされるのと同じです」  あ、とニカは虚を突かれたような顔をした。 「ごめんなさい」 「いいですよ。だから結婚していないのかと聞かなかったので及第点です。それにこういう話をすると、今名前を持って生きている人たちをいないことにされてしまうこともありますからね」  うふふと悪戯っぽい笑みをして、再びマグカップに手を置く。丁度壁の時計が鳴り出して、ニカもスミオも驚いてびくりと震えた。 「ニカくんやスミオくんの世代はああいう時計は身近にないですかねえ」  聞いたことのあるメロディを奏ながら、振り子の下にある小さな人形が回り出した。オルゴールのような音だった。 「親父が古馴染みから譲り受けたものですが、なかなか丈夫で現役なんです。あたしは親父のことは嫌いでしたが、まあ趣味のいいものですよ。ここからじゃ見えにくいかな、人形の細工も可愛らしくていい時計です」  音楽が止むのを待って、ついでですから他に聞きたいことはありますか? とヨリコ先生は二人にたずねる。 「星分市の条例のこと、聞いてもいいですか? 今日他の友だちとも話してたんですけど」  今日はスミオがよく喋る日だなと思いつつ、ニカは段々気持ちが落ち着いてきていた。 「おや。いいですよ。あたしで務まる話なら」 「えーと……星分……星分町って、もともと魔法使いが済むのは一人だけって決まりがなかったんですよね」 「ええ、そうですね」 「で、星分市になってからも」 「そうです」 「じゃあなんで、魔法使いを差別しないっていう条例を作ったんですか?」 「明文化する必要性があったからです」  ヨリコ先生は頬杖を付いた。 「ではなぜその必要があったのか、という話になります。まず星分市魔法使用者差別禁止条例ができた時期はご存知ですか?」 「……そんなに昔じゃなかったことは覚えてます」  いつ自分たちの住む市にどんな決まりができたか、正確に覚えている人がどれだけいるんだろうか。 「星分の雨の日が八年前なのは覚えていますか? そこから一年後です」  星分の雨の日――特別な雨が降ったため、星分市の本来魔法使いではなかった人々の一部も魔法を使えるようになったきっかけの日。ニカが魔法が使えるようになったのがその次の日だったから、それはちゃんと覚えていた。そこから一年後。 「……きっかけが、星分の雨の日だったってことですか?」 「そう」 「あの……俺、そもそも星分の雨がなんで降ったかのかまでは知らないんですけど」  ニカははっとしてヨリコ先生の方を見た。  トオノさんと初めて出会った日。そこで聞いた話。 「たぶんそのときから住んでる大人はだいたい知ってるんだけど……そうだねえ。今の子どもたちにきちんと言わないで来てしまったんだね」  スミオは首をわずかに傾げた。何を言わないままでいるのか。自分は知らなくても、自分の親はもしかしたら知っていたのか? 「ヨリコ先生……」  ニカの呼び掛けた声が震えていて、ニカは雨の原因を知っているんだ、とスミオはふと気づいた。知っていて今日まで誰にも言わなかったのだろうか、とか、もしかして自分にだけ言っていないんじゃとか、そういう考えがぶわっと頭の中を巡って、スミオは自分の心の動きにびっくりした。もしかして怒っている? と己に問い掛けて、そんなこと思っては駄目だという自制も働く。 「……ニカは、雨の原因を知ってるの?」  先ほど時計の音に驚いたように、ニカはびくりと身を縮めた。口を開きかけては閉じ、繰り返した三回目にようやく言葉が出る。 「知ってる」 「……秘密にしなきゃいけないことだった?」  ニカはちょっとだけ涙目だ。 「わかんない」 「わかんないの?」 「魔法の雨が降ったってことは、魔法を使った人がいるってことで……それはアザ博士のことで……だから……」 「……自分が勝手に言っちゃ駄目って思ったの?」 「うん……」  泣きはしないけれど泣きそうな声で返事をする。スミオはまだもやもやと渦巻くものが胸の辺りから抜けないけれど、そもそもそう、おとながちゃんと説明しないのが悪い。ニカがスミオの方を向いて、スミオは謝られると察してニカより先に口を開いた。 「ニカ、手」  机の下でスミオが左手をニカに差し出す。ニカは逡巡せず右手を出してスミオの手を掴んだ。ニカは言おうとした言葉を呑込んで、スミオの手をぎゅっと握る。スミオも握り返す。 「気にしないで」 「……うん」  二人の間で通じるやり取りだった。謝らなくていいと思ったときには、言葉より先に手を握る。  二人の様子を見守っていたヨリコ先生は何が何やらという気持ちでいて、それでもきちんと意思の疎通の方法を持っているのだなと感心していた。自分の話に対して随分物分かりが良さそうだとは感じたけれど、こういう二人だからわかってくれたのかもしれない。 「……まあ、あたしたちの責任でもあるから、いつかは話さないといけないんだろうけど」  ニカとスミオは繋いでいた手を離して、再びヨリコ先生の声に耳を傾ける。 「魔法の雨が降ったのはね、あたしたちおとなが、魔法使いを人間として見ていなかったのがそもそもの原因なんだよ。魔法使いが泣いて訴えて、子どもたちに訴えられて、それでようやく気づいたんだ」  魔法使いも一人の思考や感情を持つ人間だってことにね。  スミオの中で点と点が繋がろうとしている。  魔法使いのアザ博士。ニカたち魔法が使える星分の人たちのことを、彼女が診ていること。魔法の雨は魔法使いが降らせたということ。  魔法の雨を降らせたのは。 「ああ、来たね」  外から車の停車する音がした。窓の外はもうほとんど暗くなっていて、空の赤い部分がまだ少しだけ名残惜しそうに残っている。      ⚘  部屋の扉が開いて、ニカの姿を認めたナナハは意を決したような顔をした。 「クロエくん」  ナナハの後ろに立っていたアザ博士が、声のする方に顔を向ける。 「ニカくんとスミオくんに、昔のことを話せる?」 「……ヨリコさんから話さなかったんだ」 「迷ったけど、あたしの主観じゃあね。ああ、ワタルくんから話してあげたら丁度いいかもしれない」  話を振られてグチ先生はアザ博士を見て、彼女が頷いたので「いいですよ」と返事をした。ヨリコ先生は用が済んだら呼んでと診療所の小さな事務所の方へ去って行った。  ナナハはアザ博士の杖の代わりになっていて、テーブルのところまで来ると二人並んで椅子に座った。ニカもスミオもいつもの杖はどうしたのだろうかと思う。アザ博士を挟んでグチ先生も椅子に着く。グチ先生がナナハとスミオに、それぞれ相手を紹介した。二人は初対面だ。 「さて。何から話そうか」  アザ博士がそう言うと、ナナハがあたしからとニカを見た。 「ニカちゃん」 「はい」  ニカの前に座るナナハは目が赤くなっている。顔も血の気が引いたみたいに白い。 「まず、謝らせてね。あたしの魔法が安定してないせいで、ニカちゃんに迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」  ナナハは一度深く息を吸う。吐く。 「……クロエから聞いたんだけど。花の木を咲かせること……ニカちゃん、それで嫌なことがあったって。だから、今日、すごくショックを受けたんじゃないかって思ったの。本当にごめんなさい」  隣で聞いているスミオは、自分とニカが小学校の低学年だった頃を思い出していた。授業参観の日に何かの拍子に校庭のサクラやツツジを満開にして、それで大人たちのぎょっとした視線を一斉に浴びて身を竦ませたニカ。 子どもたちは平気だった。ニカが魔法で他人を傷つけないと知っていたからだ。  ただ、当時はまだ魔法使い以外の人間が魔法を使うという状況を受け止め切れていない人も多かった。学校から個人名は出さなくても通達はあったそうだ。しかし子どもの口は閉ざせないし、誰が、というのは簡単に特定されていて、それでも予期していなかった魔法が使われれば誰だって驚く。本来魔法は使われないことが大前提なのだから。  大人の魔法使いなら、まだ多少は受け流せたかもしれない。  けれどニカはまだ子どもで。  それ以来、自分が無意識に魔法を使ってしまったときには怯えるようになってしまった。時間を経て、今はすぐ消えてしまう花が出て来ることだけでは動揺しなくなった。周囲の人たちもいつものことだと受け入れている。  ニカは何も言えないまま視線をテーブルに落としている。なんと言ったらいいかわからないのだ。  気にしていないわけではない。いいよと言ってしまうのは簡単だ。でもそれは違う気がする。かといって怒っているのでもないので、悩んだ末。 「……ナナハさんは、どうして星分市に来たんですか?」  気になってはいたものの、知り合って間もないのに聞くべきではないと思って触れなかったこと。  口に出してしまってから、やっぱり聞くべきじゃないと思って顔を上げたとき、ナナハとしっかり目が合った。その瞬間、聞かないでほしかったことなんだと思い知る。 「今の、」 「あのね、」  二人の声が重なった。先に言葉を続けたのはナナハだった。 「……あのね。ほんとはニカちゃんに嫌われたらどうしようって思ってるんだよ」 「え?」 「クロエと凪口さんは、本当のこと知ってるの」  ナナハはスミオの方を見る。 「えっと……生野衣(きのい)さん」 「スミオでいいです。くん付けでもいいです。友だちにはそれで呼ばれてます」 「じゃあ、スミオくん。あたしもナナハでいい。スミオくんも、もしあたしのこと無理だなって思ったら、無理して話し掛けたりしなくていいから」 「……よくわかんないですけど、俺もニカも、ナナハさんが嫌なことはしないですよ」  スミオはいつも通り淡々と答える。一瞬ナナハの目元が歪みかけて、ぐっとそれを堪えた。  もう一度、あのね、と言う。 「あたしね、女の子が好きでさ。レズビアン」  ニカが息を呑む。 「前の学校で、内緒にしてたんだけど、バレちゃって。ついでに魔法使いだってことも広まっちゃって。それでいられなくなっちゃったから、星分市に来たの」  だって星分市は魔法使いが二人いても許してくれるでしょ? と。 「それに一応、ここって魔法使いだけじゃなくて、そもそも差別は駄目ってちゃんと市が言ってくれてるでしょ。だからあたしがいても大丈夫かもしれないかなって」  ナナハの話を聞きながら、ニカは落ち着いていた涙がまた出てきそうになっている。今のニカの周りには自分を受け入れてくれる人たちがいるけれど、それでももっと小さいときは、まだ子どもだから自分が何を言っているのかわからないのだとか、悪気のない言葉を耳にすることもあった。相手はなんの気なしに行ったことでも、ちゃんと聞いていたし、覚えている。言っていることがあまり理解できなくても、それを言う人の纏う雰囲気が如実にあなたは人として今おかしいだけなのだと伝えて来る。  今も昔もニカはおかしくない。  おかしくないと最初に怒ってくれたのはスミオだ。それに今のニカの友だちも、ニカをおかしいなんて思わない。今ここにいるアザ博士やグチ先生だってそうだ。 「ナナハさん」  怖いことを言われるところを想像するのはニカも怖い。その代わり、ここにナナハさんの居場所があると伝えたい。 「わたし、ナナハさんのこと、嫌わないです。好きです」  ニカがそう言うから、スミオは自分がそれに同意するとニカの気持ちが伝わらないんじゃないかと思う。でも今はたぶんそういうときではないはず。たぶん。微妙なニュアンスはわかるようでわからない。 「俺もナナハさんのこと嫌おうとか思わないです。まだよく知らないけど。誰が誰を好きでもいいし」 「そう、そうです。わたしだって女の子が好きですし」  あ、とスミオがニカを見た。  え、とナナハが虚を突かれたような顔になる。  自分の口から出てしまった言葉にニカが固まってしまう。 「……さて、魔法の話をしようか」  強引にアザ博士が話を戻そうとした。この子どもたちはなぜ自分たちおとながいる場で個人的な話ができるのかと、過去の自分を顧みてしまう。反抗期とかないのか。  空気をぶった切るなあとグチ先生が苦笑した。 「ニカくんの魔法がナナハくんに影響を受けていることはこの間も言ったけど、そうだな……魔法使いがどうして存在しているのかは知ってる?」  気持ちの整理が追い付かないまま、それでも小さなニカに魔法使いとはどういうものかを教えてくれた人のことが頭に浮かぶ。  ニカたち魔法使いでない人々にはよく聞くフレーズがある――〝この国には魔法使いがいます。みんなが平和に暮らすために〟  それからいくつかの、魔法使いがどのように共生しているのかという話。魔法使いがみんなの平和を守っているから仲良くしましょうね。 でも、トオノさんと接していたニカはそれを信じていない。 「魔法が生き続けているから」  トオノさんは魔法を生き物みたいに語った。不思議だったけれど、当の魔法使いがそう言うのだからそうなのだろうと思った。 トオノおじがよく言っていたねとアザ博士は目を細める。 「そう、魔法が生き続けている――そこにあり続けるから。しかしなぜ魔法があるのかは誰も知らない」  スミオが首を傾げる。 「それじゃあなんで魔法を生き延びさせようとするんですか?」 「生き延びさせる……そうだねえ。なんで人間は生き続けなきゃいけない?」 「それは……」 「理由がなくたって、生まれたら生きる権利が付帯するだろう。魔法使いにとっては魔法もそうなんだよ。魔法使いをやめることはできないし、わたしたちにとっては自分の人生の一部なんだ。だから魔法使いは存在する。魔法のある限り」  ニカは胸がぴりっと痛むような感覚を覚えた。 「……でも、魔法使いじゃない人には、それがわからないの。だから理由を作らないといけないくて、そのせいで……そのせいで、一つの場所に魔法使いは一人しか住んじゃいけないとか、みんなが平和に暮らせるようにとか……」 「そうだね。実際魔法使いが一か所に偏ると魔法のバランスは崩れやすいし」 「そうだけどさ……それとこれとは違うじゃん!」  大きな声にニカが驚いたが、それよりナナハが泣きそな顔をしているのに意識が向かう。ぴりぴりとした痛みは消えない。 「ナナハくん」 「あたしが魔法使いだってバレたから、ジノさんが他の施設に移されそうになったんだよ⁉ おかしいでしょ!」  ジノさん? とスミオが聞くと、もともといた魔法使いのおじいさんだよとアザ博士が答えてくれた。 「ジノさん、ずっと家族と疎遠で、ようやく受け入れてくれるところがあったから助かったって言ってて、なのに、」  目元に滲んでいた涙がとうとう頬を伝った。 「あたしと会ってたことまで責める人もいたし。絶対あの人たち、ジノさんが、し、いなくなるまでの、我慢、だって、思ってる!」  そこまで言うとナナハはうわっと泣き出していた。アザ博士はナナハの腕を一度触ってだいたいの位置を確認してから、自分の方に肩を引き寄せた。ナナハはされるがままに抱き着く。  そのとき、急に部屋に花が降った。赤、青、白、黄、橙……とにかく様々な色の、葉も茎も付いていない花が。  こんなにたくさん花が降る様子は今までに見たことがなくて、目の前にぽとんと落ちた橙色の花を見つめながら、ニカは呆然とした。 「ニカ」  スミオがニカの手を握る。床に拳の大きさくらいの花が落ちていく。 「こう見てるときれいだなって思っちゃうけど」  アザ博士の声につられて顔を上げたナナハも、呆然と落ちて来る花を見上げた。どこからともなく生まれる花たち。 「こうやってナナハくんの精神状態に影響されてしまっているわけだけど……まあ、解決方法はあるんだ」  ニカは落ちて来る花の隙間からアザ博士を見る。 「ニカくんが魔法を手放せばいい」 「手放す?」 「トオノおじにも言われたと思うんだけど。本来なら、トオノおじと最初に会った日に魔法を手放せていたら良かったんだろうな。でもニカくんは今でも大事に持っていてくれるね。まだ何人かいるけど」  トオノさんに最初に会った日というのは、ニカが持つ魔法を初めて使った日でもあり、トオノさんの魔法を初めて見た日でもある。  あのとき紙に名前を書いて、それからトオノさんは言った――これがニカさんの代わりに、もとの魔法の持ち主のところへ魔法を渡します。 「わたしは、あのとき……」  ――おや。なかなか魔法が渡りませんね。  ――……やっぱり、まほうを使った人が、また悲しくなったらいやです。  ――そういうことは……本人次第でしょうね。  ――じゃあ、ニカが、まほうを持っててもいいですか? 「子どもはなかなか魔法を手放さない子が多かったけど、徐々に返しに来てくれる子もいるんだよ」  それにしても、とアザ博士はふふっと笑みを漏らす。 「トオノおじから、わたしが悲しい気持ちでいるかどうか聞かれたなんて教えられてびっくりしたよ」  アザ博士は昔を懐かしむようだった。 「つまり星分の雨に関して、僕たちがしたことは無駄じゃなかったというわけさ」  そうだろクロエとグチ先生は穏やかな表情だ。 落ちていた花たちがふっと止み、部屋の中は一面花で彩られたようになっている。 「何をしたんですか?」  ニカがたずねる。ニカはアザ博士が使った魔法のことは知っているけれど、具体的にその後どういうことが起こったのかまではよく知らなかったし、グチ先生が僕たちと言ったのが気になった。 「そうですね。手短に言うと、未成年の主張をするべく、クロエ以外の有志が市役所の放送室を占拠しました」  ニカだけでなく、珍しいことにスミオも驚いた顔になっている。 「手段が良くなかったのであまり大っぴらにしていませんが。当時のおとなたちの温情で、説教だけで済みました」  あんまりこういうことは真似してはいけませんよと、グチ先生は茶目っ気のあるように片目を瞑ってみせた。ニカもスミオも笑えなかった。 「あれはやり過ぎだとは思うけど……原因はわたしだったし」 「そういうこと言うなよ。僕たちは僕たちの意思でクロエを大事にしろって言いたかったんだから」 「人が寝込んでる間にさ。起きてからびっくりしたんだからな」 「おかげで魔法使いを差別しないって市で条例作ったし、やっぱりおかしいことはおかしいって言わなきゃさ。クロエがクロエのせいじゃない最低なことで泣かないでいられるようにしたいし」 「……大袈裟だな」  おとな二人の会話をあ然としながら聞いていて、さっきまでヨリコ先生と話していたことが蘇る。魔法使いも一人の思考や感情を持つ人間だということに思い至らなかったことへの反省。 「……雨を降らせてしまった日のことだけどね。あのとき、わたしは自分やトオノおじだけじゃなくて、ここに住む人みんなが魔法を持てばいいと思ったんだよ」  アザ博士が、ニカとスミオ、それから隣にいるナナハに向かって語る。 「トオノおじは身体が弱くて、そのことを人が話しているのをたまたま聞いてさ。なんだかんだ言って昔からの習い性で、魔法使いは困ったことがあったとき呼ばれることもあるから、トオノおじがいなくなったら誰が魔法を使えない人を助けてくれるんだって。わたしもいるけど、障害者で頼りないわたしじゃ不安だって。だったら自分たちが魔法使いになればいいじゃないかと思ったら、すごい雨が降っててさ」  それで自分の降らせた雨でずぶ濡れになって、風邪をひいて寝込んだんだよ。ナナハがアザ博士の白衣の袖を握る。 「土砂降りなのになかなかクロエが帰って来ないから、みんなで探し回ったんですよ。そしたら道路にへたり込んで泣いていて、理由を聞いたあと友だちみんなで考えておとなに訴えに行ったんですよ」  即断即決でしたねえとしみじみした雰囲気を出そうとして、グチ先生はアザ博士に本当とんでもない友だちばっかりだと窘められた。 「そういうわけでね、ニカくん」  はい、と慌てて意識をしっかりさせてニカは返事をする。 「トオノおじがなんて言ったか詳しくは知らないけれど、わたしのとばっちりみたいな魔法をいつまでも持っていなくてもいいんだよ。ニカくんにとって嫌なこともあったのだし」  言われれば、確かにそうなのかもしれない。  いつでも手放せるし、普段必要になるものでもない。自分で上手く扱えない魔法のせいで、嫌な目にだってあった。それでもニカはずっと魔法を持ち続けてきた。ずっと持っていたから、それが当たり前みたいに思っていたけれど。  一瞬また胸がいたんで、これは誰の痛みだろうかと思う。  どうする? とアザ博士がたずねる。アザ博士はもう、自分が魔法を持っていることで悲しむことはあまりないのかもしれない。そうかもしれないけれど、なぜか手放そうという気持ちにならない。 「……もう少し、考えてもいいですか?」  ニカが勇気を振り絞ってそう言うと、なんでもないように、アザ博士はいいよと答えた。
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