序章十一 赤と白の世界で

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序章十一 赤と白の世界で

 高虎は限界まで己の背筋を伸ばしていた。感覚が現実に戻っていく。背骨のふしがこきりと鳴る。 「そうだ。あれが……」  真っ直ぐ見やっていたのは、影虎の手にしていた黒き刀だった。どろりとあざやかな血のついた、夜の闇をそのままうつし取ったかのような刀身に、煌々と冴えたしろき月のひかりが、撫でるようにひとすじの淡い小道を作っている。  間違いない、あの遠い日、父に聞いていた呪われた刀の形状と酷似している。 (あれが『吸血刀』……、まさかこんな形で……、しかも俺の一番大事な人間が手にしちまったとは……)  高虎はしばらく唖然と口を開けていた。時の流れの中では一瞬だったかもしれないが、彼にとっては、口の中が乾いたことに気づくまで、それは永遠であった。額から耳までにかけて、ぶわりと汗のしずくが湧き出す。人の血を纏った生身の刀を久しぶりに目にしたことにより、高虎の中で、侍だった頃の本能が無意識によみがえってしまったのだ。 (鎮め……)  気を鎮めるため、片手でもう片方の腕のふしを握りしめる。こぶしを強く握っていたため、盛り上がっていた筋肉が、大きく脈を打っているのがわかった。触らなければわからないほどに、自分は緊張していたのだ。乾いた吐息を、心の中で漏らす。  もう一度前を見やる。  影虎の眸は、真っ直ぐつらぬくように自分を見ていた。眸の水面はうるみ、さらに金色が溶けて濃くなっているように見える。らんらんと釣り上がったまなこは、睨んでいるようにも、泣いているようにも見えた。  高虎は娘のその表情を見やって、胸が細い糸で締め付けられるような痛みを感じていた。そして、震える娘を確認して、いつの間にか高虎の瞳もじわりと熱い涙の膜を滲ませていた。 「影虎、苦しめたな」  掠れた声が、乾いたくちびるから紡がれた。  はぁはぁと荒い少女の吐息が、空気の中をじわりと生温かな水気をはらみながら漂う。やがてそれはかすれた淡い声へと変わる。 「高虎……」  震えて肩を濡らす黒い少女を、高虎はまばたきもせずに見つめると、ふう、とひとつ息を吐いた。こめかみに汗がすっと流れ、大きな男の顔の輪郭をすべると、高虎は、娘に近づくために、草鞋を履いた足を一歩土に沈ませた。  ざらりと濡れた土が盛り上がる音がする。  影虎はその音に、金色のひとみの水面を震わせる。そして、なにか恐れを感じて、後ずさった。 「ああ……ああ」  影虎が首を左右に振る。口はうすく開いており、息は絶えず漏れ続けた。  彼女のかかとに呼応するように、さやかな刀の切先から、ぽとり、ぽとりと血液が雨樋を伝う雫のように落ちてゆき、彼女を覆う雨を汚していった。影虎の震える手は、血とひとしく赤く染まっていた。  高虎は白銀の眉を寄せる力とひとしく、くちびるを引き結んでいたが、やがてほどくと一拍置いて、影虎をなだめるように言葉を紡いだ。 「影虎……、そいつは吸血刀だ」 「きゅう、けつ、とう……?」  高虎は静かに己の腰に目をやり、刀の鞘に片手を添えた。 「俺のこの刀。どう見える。普通に見えるだろう。だがお前の両手で持っているそれは違うんだよ。使ってみてどうだった。わかるだろう。それは呪われた刀だ。『吸血刀』。人の生き血を吸って強度を増す。それがそいつの本質だ」  影虎は固まって高虎を凝視している。 「この世にその刀は二口ある。夜空をうつした湖を、冴えた刀身に染めたような色をした刀、『陽黒切春影(ひこくぎりはるかげ)』。雪空を、かすかにやわらかな刀身にうつしたような色をした刀、『月白切冬影(つきしろぎりふゆかげ)』。お前が所有者に選ばれたのは……、『陽黒切春影』のほうだ」    影虎の視界が暗転し、ふたたび暗い景色へ戻る。くちびるにひとつぶの雨がふれ、しずくとなって流れてゆく。そして彼女の手に落ち、漆黒の鞘にふれた。そっと刀を見下ろす。血塗られた赤に負けじと黒いそのすがた。熱い血を抱いているというのに、湯気すら立たないでいる。ぶうんという音が、彼女の心臓の中央で鳴り響き、それが渦を巻いて喉元へとせり上がってゆく。やがて周囲に己が斬った人々の血のにおいが戻ってくる。においが濃く鼻先をかすめると、彼女は焦点を下にしたまま、震えるくちびるを開いた。 「……刀が……、刀が手から離れねえんだ」  影虎の声は、かじかんだ手と同じように、震えて高鳴る。見開いた金色のまなこからあふれた涙が、次からつぎへと大粒となり、雨をうつして落ちてゆく。 「刀が離れねぇんだ! 俺がこの手を止めようとしても! 勝手に人を斬り続ける!」 「……影虎」 「いくら人を斬っても! いくら刀に血を吸わせても! 止まらねぇんだよ! 高虎!どうすればいいんだ? 俺が死ねば、この刀は止まるのかな?」  丸いまぶたを閉じると、刀と同じ色をした黒い睫毛が震えて影を作る。影虎の手が、ひときわ大きく震えた。だが握っている刀の鞘は、どれだけ揺られても、ちいさな白い手から剥がれ落ちることはない。それどころか、より強く粘着質に、影虎の手の皮にひっついてゆくようだった。  雨が雪洞の最期のあかりを反射し、そこにさらなる痛みを施すように灯っていった。  高虎の顔を横から雨が撫でる。彼の額にこぼれる、いくすじかの白い髪が、はらりとゆれる。重いまぶたを半分閉じると、髪と同じ色をした睫毛すら、彼の前髪とひとしく陽炎のようにゆらめいた。  高虎はまた一歩、影虎に近づく。雨のしずくが、時を見計ったかのように彼の目元から頬、下くちびるの端をそっと拭うように触れ、流れて消えていった。 「……影虎……」  高虎は背筋を伸ばす。そして影虎と真っ向から向き合った。  影虎の先ほど流した涙は、ちいさな鼻から流れた水と相まって、すでに寒風にさらされ、うすくれないの頬に乾いて張り付いている。  大粒の雨が、ひとひらの花弁のように彼らの間をするりと落ちていく。  影虎のひとみが刹那的にかがやいて光った。  高虎はそれを見届けると、己の太い首にすっと右手をやり、切断するように右に引いた。感情を消した顔だった。 「俺の首を斬れ」 「何をっ……!」  高虎のうすく開いたまなこが凄絶な灯火を浮かべる。 「最初に鞘を抜いたその刀は、人を斬り続け、生き血を吸い続けても暴走が止まることはない。人間の体の中で、一番太く濃い血液が流れているところに刃を触れさせれば、暴走は終わる」 「だからって……!」 「だから俺の首を斬って、その刀の暴走を止めろ」  時が止まったかのようだった。薄暗い視界の中で、高虎のまなこだけが、白銀にひかっていた。  周囲を覆う雨だけが、やさしく平等に降り注いでいる。  やがて目尻に溜まった雨が頬を流れると、影虎は我に返った。 「……できない……。そんなことは、できない……!」  高虎をまっすぐに見やりながら、まばたきもせず、顔をふるふると振る。黒髪が、肩に乗った雨粒を払い、はらはらと地へ落ちる。  高虎は動揺する娘の様子をじっと見ていた。  血まみれの体。刀と髪の色で、赤と黒が入り混じっている。鈍い雨のくらやみの中で浮き上がるように立っている娘の姿は、闇の妖精のようで、可憐でありながら物悲しい。  高虎はその姿を目に焼き付けるようにじっと見つめていたが、やがてまぶたをきつく閉じた。脳裏に、幼い頃から今日までの日々が、水底に沈められた岩の脇目から泡がふくように浮き上がって、割れて消えてゆく。父に厳しく躾けられた幼い頃、夕日を見つめながら顔を腫らせてぼろぼろと泣いて、頬を橙色に染めていたこと。明くる日に父の袖から差し出された豆大福を、頬を染めて夢中になって頬張ったこと。妻と子と、春に見上げた薄青空を背景にした降るような満開の桜。京で守護職として正装して幕府を護っていた日々。友の裏切りにあい、さしむけられた刺客に、妻子を斬られて殺された夜。家を燃やし、友を斬り、この箱根の山へ逃げてきた。そこで出会った温かい人々。喜一や宗助。そして影虎。胎盤ごと産み捨てられていた赤子を、この血塗られた手で湯に洗い、育てた真夏のような生命ほとばしるあざやかな日々。  高虎はすっと閉じていたまぶたを開く。うつるのは、閉じる前と同じ壊された祭りの会場。そして血と涙に濡れる刀を持った娘の姿。高い鼻に触れる空気は雨の清らかな粒がまだらに浮いているようで、目に見えない汚れまで取り払ってくれるように澄んでいた。  腹の空気をふっと鼻からすべて吐くと、地を蹴り、獣のような速度で走っていった。  こちらに迫るように走りくる父の姿。くらやみを背景に、いつも共に過ごして隣で見やっているものより、大きかった。  影虎は白銀の狼に真っ向から狙いを定められているように感じ、からだにびりびりとしたものが走り、動くことができなくなった。固まったゆびさきにすら、血がめぐり、感覚が戻っていくようで。  金色のまなこが揺れる。  気づいたときには、血が斜めにばらりと降りそそいだ。刹那的な土砂降りが起きたようだった。  はっと視線を上向けると、薄暗い影が彼女の(おもて)を染めている。 「……高虎……」  ぼたぼたと鮮血が落ちる先を見やれば、刀、『春影』の刃が高虎の太い首すじを喉仏の中央まで、すぱりと斬っていた。  高虎はくちびるを引き結び、くぐもったような声を発すると、自分よりも低い位置にいる影虎を見下ろした。彼の引き結んだくちびるから、首から流れるものと同じ、あざやかな紅色が時を置いてぽとぽとと落ちてくる。  影虎は、夏の月に逆光となった高虎をうすくくちびるを開けたまま見つめていた。やがてその白い頬に、桜の花弁のようにひとひら雨がふれ、ふたたび時が動き出す。 「高虎……っ!」  ごぷり、と咳き込むように大きな音を立てて、高虎の口から血の泡が、沸騰するお湯のようにこぼれ出した。  彼の首から生み出された血の雨が降り注ぐ。  熱い。火の粉のようだった。熱い、あつい。  影虎が手首をかすかに動かすと、高虎は背中から地へと倒れた。どさりと重いものが落ちる鈍い音がした。  動いた彼と呼応して、首から刃が剥がれ落ちていく。  張った水面をてのひらで叩いたように、大量の血が左へ跳ねる。どくどくと高虎の広い背中から滲む血が、黒い地を染めてゆく。 「高虎っ……。たかとらっ……!」  父の首はぱっくりと何かが裂けたような刀傷を持ち、赤い鮮血が大地を清水のように濡らし続けている。  影虎がまなこと口を閉じることもできず、ぽろぽろ大きい涙の粒を、その渇きゆく顔に落とし続けた。彼の顔に降るつめたい雨を、その熱が溶かしてゆく。影虎はそっと高虎の片手を両手で抱くように持ち上げ、くちびるの先に当てた。 「高虎……」  まぶたを伏せると、熱いしずくが、頬をいくつもすべり落ちてゆく。黒髪の間からのぞいた赤い耳に、一粒の雨がふれたとき、くぐもった男の声が聞こえた。 「やりやがったな……。ついに高虎のじじいまで」  呆然としたまま、顔を上げ、声のした方を見やる。  宗助が震えて屈んでいた。彼の両腕には、血まみれの喜一が抱かれていた。雨に濡れた青いひかりを受けて青白く浮き上がっているようだった。  周囲を見渡せば、自分が斬った女の遺体から、未だあざやかな赤色と血の匂いがかすみのように漂っている。  そのどす黒いかおりで、影虎は己が今まで何をしてきたのかを一瞬で思い返した。 「あ……、ああ……」   冷えた空気が、雨と共に、乾いてふるえるくちびるを汚し、入り込む。  宗助の額からひとすじ、紅茶色の前髪がこぼれ、風に揺れる。伏せていた上体をかっと起こす。  影虎は目を瞠った。  いつもやさしく朗らかな、春に飲む甘酒のようなおもむきを持っていた宗助が、目つきだけで人を殺せるようなほど眼光を鋭くひからせ、影虎を睨んでいる。そこだけ埋み火が燃えているようだった。彼の背後からひときわ強い風が吹き、十徳をはためかせて広げた。 「……お前がやったんだ。影虎。ここにいるやつら、みぃんなお前が殺したんだからな……!」 「うう……うう……!」  首をふるふると振る。食いしばった口から、よだれが垂れて顎を伝う。確かに血にまみれ、刀をふるう黒い少女は、悪鬼のようであった。  己の手をそっと顔の前まで持ち上げる。どろりと溶けたあざやかな血液と重なり、その向こうにうすぼんやりと見えるのは、半分裂かれた父の首と、先ほどかさぶたが剥がれるように落ちた、陽黒切春影の刀だけであった。地の上に、黒い刃がくっきりと浮かんで存在を放っている。 「責任取れるのか! お前が奪った命の責任、どうやって取るつもりなんだ!?」  宗助は喜一を抱き抱えながら少しずつ立ち上がり、影虎を見下ろしながら怒鳴り続けていた。人が変わったようだった。宗助の形相が、影虎には徐々に血の色に染まり、ぼやけて見えていった。  いつの間にか正座をしていて、上体を前のめりにしていた影虎は、ふっと上体を起こし、あたりを見回す。  赤を噴出した遺体が、間隔を置いて倒れている。これほど大勢の人間を殺してしまったのか——  宗助がさらに何事か彼女に向かって叫び、喜一の遺体を抱いて涙を流しながら去っていく。 「喜一……ごめんな。ごめんな……」  喜一の遺体は、うすく目を開け、引きずられるように宗助の腕に抱かれていた。  雨の中、わずかに生き残っていた焚き木の炎を通り過ぎると、空気の中に溶けて消えていった。  影虎はふたたび己のふとももに目をやった。いつの間にか高虎が彼女の太ももを枕にして眠っていた。  一陣の風が吹く。それは血と雨をはらんで、彼女の金色のひとみにうつりきらきらときらめいていた。  影虎ははっと目を見開いたまま、闇夜へくらりと落ちていった。そのまま彼女は血の中へはたりと倒れ、気を失った。涙と血に濡れたまつげを、青い雨がはらはらと撫でてゆく。  その後、高虎の遺体を、ちいさな体のすべての力を用いて夏祭の会場から引きずり、影虎はふたりの家へと戻った。  顔は(うつろ)で、どこをどう辿って家路につけたのかすら、ぼろぼろになった身体は覚えていない。ただ雨の粒子が空気中に浮いたようなしんと冷えた空気と、踏み締めるたびに足にまとわりつく湿った黒い土の感触だけが残っていた。  小窓から入る、夕方の陽を受け、うすきいろに染まるわずかなほこり。  それが完全につめたく固くなった高虎の遺体にふわり、ふわりと降りてゆく。  高虎の首は重みに耐えきれず、五体から離れてしまった。今影虎は彼の五体の上に高虎の離れた首を置き、かたわらで正座をして見つめていた。  まぶたは半分伏せ、感情の感じ取れない顔をしていた。金色のひとみは夕日をうつしてまだらに赤や黄色のひかりをぱらぱらと(おもて)に宿しており、そこばかりは熱い火の粉が燃えているようだった。  高虎の目は半分開いており、灰色のひとみに夕日が覆うようにおりていた。影虎は彼の目の前で手を泳がせるように彼のまぶたを閉じさせた。  冷たい氷のように硬くなった体。白銀の睫毛だけはやわらかだった。  両手で、高虎の頬を挟むと、そっと持ち上げ、彼の額に己の額をこつりとつけた。  そしてまぶたを閉じる。右目からすっと涙が頬を伝って落ちていく。彼女の頬をなめる夕日は金色で、涙も量をともない金色のしずくとなって床を濡らしていった。  ふたりで過ごした家の裏庭のやわらかく湿った土を掘り、その中に高虎の五体と首を仰向けに寝かせるように埋めた。しわ枯れた大きな両手を、胸元で重ね、白百合の花を幾重か供えるように置いた。  土を被せる前、高虎の顔をそっと見つめた。  長い時を感じる肌。  彼と過ごした日々が、年輪のように少女の頭の中を凪いで、あらいで、舞い降りて去ってゆく。  土をかける。  高虎の青褪めた体が、黒く塗りつぶされていくたび、彼女の金色のひとみから、涙が溢れていった。  ぬぐうこともしなかった。
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