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序章十三 春の光
七年後の春、弥生。
純白とも言えるほどのうすくれないの桜の花弁は、この森に生える深いみどりを背景に、くっきりと浮かび上がり、舞い散って通りを渡るひとびとの上に、祝福のようにも、ものがなしい切なさのようにもふりそそいでいる。日向と乾いた土のにおい。ひかりにさえも香りや質感を感じられる季節。
旅人の疲れを癒すように建てられた、ちいさな茶屋の赤い暖簾や、緋毛氈を敷かれた長台の上にも、ひらひらと白い花弁は舞い落ちる。
その桜の花弁とひとしい色をした肌をもつ手が、一枚、落ちたそれをゆびさきで摘んだ。そのくちもとは、気のせいか僅かに笑んでいる。花弁を顔の前にかざすように持ち上げ、じっと見つめるひとみは金色をしている。
彼に茶を渡すために黒塗りの盆の上に湯呑みを持ってきた茶屋の青年は、かすかな距離を置いて立ち止まる。
烏のように真っ黒な装束をした侍だった。袴も上衣も黒。腰に帯びたひとふりの刀も、漆を纏ったような紅色の光沢を帯びた射干玉である。背まで伸びた長い髪を、うなじでひとつにまとめ、襟と髪の間から見える首すじは雪のように白く、静かな佇まいと、どこかものがなしさを感じさせる双眸から、まるで冬の闇をうつしとったかのような男だと感じた。彼の周りだけ、つめたく青い空気が漂っている。
「お侍さま、茶を」
「……あ、ああ」
桜にしか興味がないといったように、声をかけられてから反応するまでに間があった。自然に対してむけていたうっすらとした微笑みが、青年の前では消える。菅笠を被っているため、上から見下ろすと目元から下までしか顔が見えないが、それでも凛とした美形である。あどけない顔でこちらを見上げるその瞳は、縁にゆくほど厚みを増す長いまつげに覆われ、どこか妖艶さも感じられた。
青年はふたたび現れた桜風に頬を撫でられなければ、動きを止めていたことに気づくことはなかった。
「江戸への道を聞きたい」
「ああ、江戸ですか。したらあっちに……」
侍は青年の指差した方につられるように顔を動かすと、真っ直ぐに腰を上げ立ち上がった。立ち去る刹那、人差し指と親指で笠を摘み、わずかに顔を見せて青年にひとこと「ありがとう」と礼を告げた。金色の大きな瞳が、茶色の花が咲いたような虹彩を咲かせていた。
その笑みを見て、青年は硬直した。
侍は去ってゆく。
春風が、侍の黒髪を揺らし、わずかに光をふくんで、はらりと青空に溶けて広がった。
「………おんな………?」
青年は目を丸くして、ただ黒き侍の背を見送った。
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