序章二 影虎という少女 

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序章二 影虎という少女 

 箱根の深き空気の漂う、緑の山の上に、幾重の昼と夜が落ちてかさなり、十年の歳月が過ぎた。  高虎が畑を(くわ)で耕す音が、小屋の外から聞こえてくる。こぉん、こぉんと間延びに近づいていくように大きくなり、最後にひとかけら高い音が耳の奥で鳴り響くと、本城影虎(ほんじょうかげとら)は深い眠りから覚めた。  半目を開け、茫洋(ぼうよう)としたまなざしで天井を見つめる。夜の間に生まれた(ちり)をふくんだ空気を、朝の静かな霧が摘んではらんだように、さわやかな湿度が薄い皮を持つ頬を覆う。けだるい体に、ひんやりとした心地よさがやってくる。好きな朝だった。暗闇に沈んでいた意識が白い光の中に行き渡ってゆき、小さな自分も、この世の一部となって動き始める。今日はそこに、夏の暑さがかぶさり、衣からむき出しになった白い腕を汗でかすかに湿らせる。  天井の古い木枠に、いつかの雨が染みて出来たのだろうか、ところどころ黒が(にじ)んでいる。その一つひとつを、後を引く眠気が体から去ってゆくまで、見つめ続けていた。  けぶる闇色のまつげが花弁のように(ふち)を覆う、白く丸いまぶたの下から金色の瞳が覗いていた。金木犀が夜に光を放っているような色は、初めて彼女に会う者に、ひどく珍しがられた。眸の中には、金茶色の琥珀を散らしたような星が数粒浮いていた。それは当たる朝日の角度によって、違った色合いで深くきらめく。他に珍しげな物もない村人たちにとっては、そのきらめきは(たっと)いものとされてもいたし、一部の者には影で気味悪がられていた。影虎はそれに気づいていたが、気づかないふりをしていた。 「う~ん……」  ぽってりと少し下が厚い、桜色のくちびるを引き結び、大きな瞳をぎゅっと閉じる。長いまつげが、彼女の白い頬に影を落とした。布団を鼻先まで上げると、くるりと(うずくま)り、ふたたび眠りに入ろうとする。  鍬の音が止んだ。ざっ、ざっという足音が、徐々に小屋へと近づいてくるのを、遠い耳で聞いていたが、体は気怠く、動かなかった。勢い良く木製の扉が開かれる音が、小屋の中に響く。  はあ、と乾いた溜息を漏れた。高虎だった。 「影虎、起きねえか。もう朝餉(あさげ)の時間をとっくに越してるぜ。……ったくだらしがねえ」  低い声が、寝ている影虎の体の表面を撫でたが、一向に彼女は動く気配を見せない。  彼女のちいさな体へ、框を上った高虎の足が近づいてくる。ずしずしと床板を(きし)ませるそれは、質量を伴っていた。筋肉の重みだ、と影虎はぼんやり感じていた。  朝の透明な空気の中に、男の汗のにおいが混じってかおる。慣れたそのにおいには、不快感はなかった。  体の表面をつめたい風が撫でる。寒気を感じ、はっと瞳を開いて半身を素早く起こすと、(しわ)の深い、焦げた肌を持つ精悍(せいかん)な怒り顔が、目と鼻の先にあった。  顔にまで筋肉が張ってやがる、と影虎は思った。  いつの間にか、片手で取り上げられた掛け布団が、ちいさな体から剥がされていた。 「うわっ! 何だってんだよ急に。さみいよ~……」  己の体を細い腕で抱きしめ、涙目で高虎を睨み返す。猫のように釣り上がった目の端に、透明な涙が溜まる。 「うるせえ、お前が起きねえからだろうが。寝相もだらしねえし、もっと女らしくしねえか……」 「うるせえっ! いきなり寒い日に布団引っぺがす奴があるか、このくそじじい!」  横に長く口を開き、八重歯を見せながら、きゃんきゃんと反抗する影虎の白い頬を、高虎は乾いた大きな手でつねった。  やわらかな頬は赤子の時から変わっておらず、もちのように伸びる。  いてえいてえ、と泣きわめく影虎の頭に、高虎の大きな手が覆い被さる。彼女のつややかな黒髪を、荒々しく、だが(いつく)しむように撫でてゆく。  がしがしと髪をかき乱されたせいで、影虎は驚き、うわっと声を上げながら高虎の大きな手の動きに頭を任せていた。線の細いやわらかな黒髪が、白い額や頬、首筋を撫でていった。  昼餉(ひるげ)の時刻を少し過ぎた頃、高虎と影虎の住むふるびた小屋から、ぱあんという威勢の良い音が響いた。乾いて(すす)けた木の壁を通り過ぎ、夏の湿った空気を震わせる。そばに()えていた百日紅(さるすべり)の木に止まっていた(からす)が一羽、驚いて飛び立ち、紺碧(こんぺき)の空に黒い粒となって消えてゆく。森に囲まれた山奥で暮らしている為、その音を聴いたのは動植物だけであった。  小屋の中、戸の近くで、影虎と高虎は向かい合っていた。  高虎は仁王立ちで腕を組み、自分の腰の高さほどしかない影虎を、両の目に鈍いともしびを浮かべて睨んでいた。   影虎の白い頬は、先ほど高虎に平手で打たれたせいで、徐々に赤く染まってゆく。だが影虎は、大きな瞳の端に涙を溜め、まばたきもせず高虎を睨み返していた。金色の瞳は涙の膜で濡れ、()をはらんだ朝露のようにきらきらとした輝きを見せている。  大きな敵に威嚇してくる子猫のようだと高虎は思った。なんだか可笑しくなり、笑いをこぼしそうになってしまったが、気持ちを冷静に保ち、鼻からかすみのような息を吐く。  下唇を上唇で湿らし、うめくような低い声を発する。 「てめえ、まーた村の餓鬼共(がきども)と、喧嘩してきやがったのか」 「うるせえ! あいつらが女は剣士になれねえって言うからだ! 俺は村の誰よりも強えってことを証明してやったんだ」  噛みつくように言い返す影虎に、高虎は眉をひそめ、呆れ顔になる。 (十年前に赤ん坊だったこいつを拾ってから、男手ひとつで何とか女らしく育てようと(こころ)みてきたが、一向に女らしくならねえどころか、口調まで俺そっくりになりやがった!)  高虎は頭を掻き、瞳を閉じると大きなため息をついた。  黒髪が一本も無くなり、真っ白になった髪は、小屋の窓から漏れる陽のひかりで銀の光沢をうつ。まつげや眉も真っ白で、筋肉質なその身体や、健康的に焦げた色をした肌とあいまって、冬の雪山のようであった。  重いまぶたを開け、影虎を見つめると、大きな両手で彼女の頬を包んだ。熱く、やわらかな頬から、彼女がまだ幼い女の子であることが感じ取れる。  影虎はふいの高虎の行為に、一瞬体を震わせた。少し冷えていた頬に、熱が染みてゆくのがわかる。気持ち良いはずだが、彼女はわざと彼を睨むような視線を送る。強がりなのだ。 「嫁入り前の娘が、顔に傷こさえるんじゃねえ」 「高虎……」  乾いた無骨な手で、撫でるように影虎の頬をつねる。  影虎は寄せていた眉間の皺をとき、瞳を震わせる。  大きな瞳の中に映る、老けた己の姿を見て、高虎は物悲しさを感じた。何とかこの娘が嫁に行くまでは、生きていなくてはならない。いとしい想いが、胸に溢れる。  影虎の背から、戸が叩かれる音がしたのを聞き、高虎は、さっと彼女の頬から手を離すと、彼女を框に上がらせ、入り口に向かい、戸に手をかけた。 「誰だ」 「ちわー! 影虎いる?」  訪問者が誰だかわからなかったので、小さな体を身構えていた影虎は、その通った声を聴き、ぱっとあかるい笑顔になった。体の緊張がふわりと羽で撫でられたように溶ける。 「喜一だ!」  高虎は戸を片手で開けた。  立っていたのは、村医者の喜一だった。長年、宗助の助手を勤めていた彼は、昨年宗助から独立し、村医者として働いていた。若く、あかるいその存在は、病で滅入ってしまった患者や年寄りに活気を与えていた。今では喜一の背丈は、宗助や高虎の背を越してしまっている。黒い十徳(じっとく)を着、その上に、うなじの辺りでひとつに纏めた髪が垂れていた。 「てめえは何の用だ」  眉を寄せ、喜一を睨む高虎に対し、宗助は歯を見せて笑った。 「今日の夜、村で夏祭りがあるだろ? 影虎も来ねえかなって誘いに来たんだよね」  それを聞いた影虎は、高虎の背から顔を出す。長くするとからまるといって面倒くさがり、高虎に頼んで肩の上あたりで切ってしまった不揃いな黒髪が揺れた。 「夏祭りなんか行かねえよ。無駄金取られるだけだし。そんなとこ行ってるより、あたしは高虎と家で仕事してた方がましだ」 「はあ? 今年は来いよ! ……お前、可愛いんだからさ。浴衣姿くらい見せろよな」 「何言ってんだこの馬鹿……!」  影虎は頬を真っ赤に染めて喜一を睨んだ。  喜一はそれを見て、にこにこと笑う。そして(ふところ)から紫の包みを出すと、高虎の手を掴み、上向かせ、手のひらにぽんと乗せた。  麻で出来たそれは、高虎の乾いた手に馴染んだ。 「高虎のじいさん、今日の薬これね。ちゃんと飲めよな」  せつなげな笑顔で喜一は高虎を見た。さらに年老いてしまった自分を、気遣っているのだろう。喜一は既に、医者の顔であった。 (こいつから、こんなことを言われるとはな……)  高虎は喜一から貰った薬を懐にしまい、代わりに銭を出して彼に渡した。 「ありがとよ」 「ああ」  喜一は銭を懐にしまうと、ふたりに背を向けたが、出て行こうとした時に、振り返って影虎に向かって手をひらひらと振った。 「じゃあな。影虎! 夏祭りでお前と踊るの、楽しみにしてるわ」 「は?」  目を見開く影虎に対し、いしし、言いながらはにかみ、喜一は出て行った。 「あの野郎~、馬鹿にしやがって……」  小さなこぶしを握りしめ、ふるふると震えながら、影虎は喜一が去って行くのを睨んでいた。彼女の髪から出た耳は、真っ赤に染まっている。 (喜一の野郎。女の扱いが宗助に似てきやがった……)  目を細めて喜一のちいさくなっていく背を眺める。風に煽られ、ぱたぱたと彼の着ている黒の十徳の裾が舞い上がる。飄々とした雰囲気が、昔の宗助にそっくりになっていた。  長い間一緒にいると、似たような雰囲気になるというのは確かに頷ける。自分と影虎も同じように共に暮らす中で、気質が似るようになった。それは、影虎が高虎の口調を真似て、男のように育ってしまったことにも繋がっていた。  高虎は(ふところ)から銭を出すと、影虎の腕を取り、その白いてのひらに乗せた。 「ほい」 「え……?」  影虎は目を丸くしながら、ぽかんとして手のひらを見つめている。 「今年はお前も夏祭り行ってこい」 「えっ……いいの?」  乗せられた銭は、輪郭が飴色に煌めいていた。  その鈍い光をじっと見つめた後、影虎は顔を上げ、高虎を見る。その眸は期待に溢れていた。きらきらとした金色の瞳に見つめられ続けていると、なんだかこちらが気恥ずかしくなり、高虎は目を逸らした。ひとさし指で、こめかみを掻く。 「いつも家の手伝いばっかさせてたからな……今日は俺も行く」 「ほんと!? 高虎!」  ぱあっとあかるい笑顔になり、影虎はさらに瞳の輝きを増した。高虎の腰に飛びつく。  反動で高虎はよろけてしまった。 「うわっ、落ち着け、馬鹿!」  腕が宙を掻き、床に尻をつきそうになるのをなんとか影虎の肩を抱くことで保った。端から見ればよろこび合って、抱きしめ合っている祖父と孫である。  自分の胸に顔を埋め、けらけらと子猫のような白い八重歯を見せながら笑う娘の姿を見下ろしながら、高虎はやさしい笑みを浮かべた。
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