序章三 夏祭りの夜

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序章三 夏祭りの夜

 月の浮かばない新月の夜であった。星々の灯りだけが闇を照らし、さやさやとこすれ合う木々たちを照らしている。  うすく開いた小窓から、生ぬるいそよ風が室内に入り、布団に横になっていた影虎の頬を撫でる。ただでさえ寝つきが悪かったが、夏の夜はそれが一段と増す。雪の如く白い肌に似合うように、熱い季節が苦手であった。日に当たると高虎のように茶色く日焼けするのではなく、肌が赤く染まってしまう。その肌の色が落ち着きを見せるまで、木陰に座ってじっとしている時間も嫌いだった。早く身体の節々(ふしぶし)の筋肉を動かしたくて、うずうずとしてしまう。眉を寄せ、閉じていた瞳をうすく開き、心底嫌そうな顔をする。布団からはみ出した白く細長い脚をむずむずと擦り合わせると、それに気づいた高虎が反応した。 「影虎、眠れねえのか」  背から低い声が響き、はっと瞠目する。大きな金色のひとみを、ゆっくりと高虎の方へ向けた。自分では気づいていなかったが、影虎の瞳は、周囲が暗ければくらいほど、輝きを増す。まるで猫のように。まるで月光のように。  高虎は大きな背を向けたままであったが、その存在感は重い闇の中でもありありと感じられた。月の乳白色のひかりが、ひとすじ窓から差し込み、白髪を銀色にきらめかせている。  影虎はそのひかりを目で辿った。 「何だじじい……。起きてたのかよ」  影虎が高虎の背に声を掛けると、彼女を確認するように少し体を動かし、こちらへと瞳を向けた。その目は、あきらかに嫌そうな感情を表面に纏っている。高虎の体と向き合うと、違いすぎる体格の差を、いやでも感じさせられる。 「じじいって呼ぶんじゃねえ」 「じゃあ何……、『高虎』って言えばいいの」  しぶしぶといった口調で影虎が彼の名を告げると、高虎はちら、と影虎の顔を見た。  その灰青色の眸は、暗闇ではっきりとは確認出来なかったが、何故か一抹(いちまつ)のさみしさを感じさせた。 「まあ、じじいでも高虎でも好きな方を呼べ。どっちでもいつも呼んでんだろ」 「そうだけど……」  高虎も眠れないの、と影虎は言おうとしたが、何故かそれを言うのを躊躇ってしまい、視線を漂わせた後、下唇を上唇で湿らせた。 「こっち向けば。その方が話しやすいし」  高虎はみじかく息をつくと、上半身を少し浮かせ、影虎の方を向いた。  高虎と向き合う形となり、少し緊張して身を固くする。  髪をほどいた高虎は、普段よりも色気があるように感じた。普段はつむじのあたりで固く纏められてる髪が、今は皺を刻んだ茶色い肌をした額の横を流れている。近くで見るとわかるが、黒髪ひとつない高虎の白髪は、白い月色のぼんやりとした光を放っていた。   影虎は布団の中でこぶしを胸元に置き、緩く丸めた。そういえば高虎と夜中に起きて話すなんてことが、あまりなかったからだ。 「……何話す?」  影虎は小声で高虎に問う。 「……お前、考えてたんじゃねえのか」 「何にも考えてなかった」 「何か話してえことあるんだろ」 「ん……」  瞳を逸らして、顎に手を当て、考える。  穏やかに自分を見つめる高虎の視線に気づき、影虎は彼の顔を見て、恥ずかしさからかすかに頬を朱に染める。高虎は親として何度か自分のことを見つめてくれていることもあっただろうが、夜中にこんなに間近で視線を感じるのは初めてだった。 「な、何だよ」 「……いいから何か喋れ」 「どうしよ。何も思いつかない」  影虎は眉を寄せた。 「……じゃあ普段俺に対して思ってること、聞きてえこと、言いたかったけどいえなかったこととか」 「え、……いいの?」  影虎は嬉々として半身を布団から出し、彼に顔を寄せた。  高虎は軽く驚いて後ずさる。布団から、彼の大きな体が出てしまいそうになっていた。 「何だよ」 「あのさ、前から気になってたんだけど」  暗闇の中で、影虎の瞳が泉の水面のように揺れていた。少女らしい好奇心がむき出しになっている。 「俺の名前ってさ、どういう理由でこの名前にしたの」 「は?」  高虎は瞠目した。  影虎のちいさな鼻が、高虎の大きな鷲鼻とくっつきそうなほど迫ってきたので、後ずさり、こぶしひとつ分の空間を空けた。  影虎の瞳は、期待いっぱいにきらきらとひかっている。この紺色に染まった小屋の中に、今宵は月が浮かんでいるようだった。  高虎は視線を逸らし、息を少し止めると、諦めたように吐き出した。そしてゆっくりと影虎に視線を向けると、また逸らし、さらには背を向けてしまう。 「ちょっと」  影虎はむっとした。はっきりしてくれ。眉間を寄せ、わずかに頬をふくらませる。 「……俺の死んだ息子の名前だ」 「えっ?」  思いもよらぬことだった。目を見開き、固まってしまう。まず驚いたのは、高虎に家族がいたことであった。そしてその次はその家族が死んでいること。さらには、自分の名前を息子の名前からとったという。 (俺は女なのに)  確かに村の娘たちのあいらしい名前よりも、自分の名前はいささか強い印象を受けていた。つよさの中にも暗い闇を感じる名前だった。あかるい性格の自分には不似合いな名前だと思っていたので、本当はあまり好きではなかった。口に出すことはなかったが。 「高虎、それ本当なの?」  高虎は応えない。しばらくふたりの間に沈黙が続いた。  闇だけが、その中を静かに漂っている。  影虎は瞳を揺らし、一度瞬きするとくちびるを湿らせた。半分まぶたを落とし、高虎の白髪が、窓から差し込むひとすじの月の光で、銀紗のように煌めいているのを、ただ見つめている。 「本当だ」  影虎は息を止め、ちいさなゆびさきを軽く曲げた。猫のような大きな瞳をまばたきすると、真剣な表情で高虎のうなじを見つめる。  すると、それを肌で感じたのか、高虎はゆっくりと体勢を変え、こちらをふたたび向いた。その眸は凪の水面のように穏やかで、いつもの高虎の雰囲気とは異なっていた。 「……俺には家族がいた。嫁と子供だ」 「そうなんだ……」  影虎はこくり、と唾を飲み込んだ。 (そのふたりは今はどうなったんだろう。あ、息子の方は死んじまったのか……)  しんしんと考えが巡り、落ち着かない。水中を浮遊する塵のようだ。眉を寄せる。もやのように重なって見えない真実を考えることは苦しかった。高虎の家族のことについて、深くまで聞いてしまっていいのか、それは彼を傷つけることにはならないのか、悩み、くちびるを閉ざす。唾はさらさらとしているというのに、喉に何か引っかかっているようだった。それを吐き出してしまうことが出来ない。  高虎はうすいくちびるを開けて話し始めた。止まっていた空気が動き始める。 「俺は、お前と出会う前……。この箱根の山で暮らす前は、京というところで武士をやっていた」  はっと影虎は目を見開いた。縁に向かうにつれ、より長くなってゆくけぶる睫毛が上向いて薄青の艶をもつ。高虎の過去の職業と、住んでいた場所について聞くのは、初めてだった。 (武士……)  影虎の今の生活には、あまりにも馴染みのない言葉だった。山から村に降りて、他の子らと遊んでいるとき、田を挟んだ遠くの小道を、陽射しを浴び、輪郭を黄金にひからせた茶色の馬が数頭歩いてくるのを、遠目で眺めていたことがあった。  そこに乗っているのは、あきらかに村の者たちとは風情が違う男達で、腰には刀を二口(ふたふり)差していた。  影虎は男たちが何をしに村に来たどこの者であるのか、というよりも、その腰の刀に注目し、村の子らに遊びの続きに誘われても、目が離せなかった。  黒い鞘に、青に金の刺繍をほどこした紐が結ばれている刀。  それは、高虎と暮らす家の中の押し入れに仕舞われているものと同じであることに、彼女は気付いていた。  ある春の日、高虎と掃除を共にした時、高虎は家の外で着物を洗う係となり、影虎は家の中を掃除する係となり、昼から夕方まで各々の家事を行った。家の床を藍の手ぬぐいで磨き上げ、満足して四つん這いの状態から半身を上げ、額の汗を腕で拭った。そしてふと、押し入れの方を見上げる。その押し入れは、いつも高虎だけが使用していた。影虎が好奇心から開けようとしても、高虎にきつく注意され、途中で閉められてしまっていた。影虎は家の戸の方に、ちらりと視線を向けた。  陽のひかりと共に、高虎が洗った着物を幾枚か手にして移動するのが見えた。腕まくりをしてあらわになった、髪色とひとしく銀のうぶげが生えた、たくましい茶色の腕が視界に入り、消えていった。  こちらには来ないことを確認すると、鼻から吸った息と共に、唾をこくりと飲み込んだ。桜色のうすいくちびるが刹那に震えた。押し入れの戸に体をぴったりとくっつけ、その体ごと戸をずらすように動く。古い戸であったが、するすると動いた。そのまま押し入れの中を覗き込んだ。暗闇の中にいくつか紐が結われた木製の箱が置かれていた。紐の色は統一されたように、すべてうすい緑をしていた。そして、少し汚れている。  影虎はその紐の先をゆびで摘まんだ。経年劣化で薄緑をしているが、本来の姿は濃い緑であったのかもしれない。 (ここに、高虎は何か隠しているのか)  素足を上げると、そっと中に入れた。ひんやりとした押し入れの床の温度が、足裏から伝わった。それはまるで、異界に入るようであり、心に恐れの膜が貼った。 (どうしよう、なんだか怖くなってきた)  いつの間にか震えていた手をぎゅっと握り、胸元に置いた。屈んで足を擦らせながら前に進むと、目の前に黒く細長い箱が現れた。 (俺の背よりも、なげぇ)  そっと両手を広げ、その上に置いた。撫でると、想像よりもつるりとなめらかな感触がした。指先で埃を払うと、黒い部分と質感の違う感触がある部分が伝わってきた。螺鈿(らでん)の細工がほどこされていることがわかった。星を撒いたような青と紫が目立つそのきらめきは、虎柄だった。まだらで(いびつ)な強弱の線が彫られていた。そっとゆびさきを移動させて、中央に印のように結ばれた紐に手を伸ばした。自分のゆびの腹が、汗ばんでいるのを感じた。ふっ、と息を吐くと同時に解いた。しゃなりという音がした。手を添えて、箱をゆっくりと開けた。ことりと音がして蓋が外れ、鈍い重みを持ちながら手に乗せ、上へ持ち上げた。  そっと中に手を入れ、取り出したのは、黒い鞘であった。朝焼けのような色をした、青紫の紐で刀身を巻かれている。見た目は細いが、持ち上げると彼女の両腕で抱えなければならないほどの重みがあった。少しよろけたが、体勢を整えると、膝を落とし、まじまじと刀を見つめた。彼女の眸がゆらりと揺れ、濃い金色に光った。 (高虎の刀だ……)  影虎はそう確信した。しろい富士額に、透きとおった汗がひとしずく流れる。くちびるを噛み、湿らせると、改めて刀を見つめた。 (高虎、刀を持ってたんだ。でも、なぜ……?)  影虎は、高虎が刀を所持していたことに、思い当たらなかった。  思い起こされる彼の日常の姿は、庭で背を丸めて野良仕事をしている姿か、彼女が朝早起きをしてふと見た時に、鷲鼻の下に銀の髭が少し茂っている年老いた男の姿だけであった。  そして影虎は、高虎のそういった姿を見ると安心することが出来た。日常がここにあり、その日常はこれからも変わることなく、彼と彼女の間で流れ続けるのだという事を肯定していた。  だが、今押し入れの中から取り出した刀からは、普段の彼の姿とは似つかない異様な恐ろしさを感じた。  春だというのに、てのひらは冷たい。ゆびさきはこまやかに震えて桜色に染まり、おぼろな陰をあらわしていた。  外から足音がして、はっと戸の方を見やった。闇の中にいたので、外のひかりがまぶしく隙間から差し込んでいた。瞳をわずかに眇めた。  高虎がひと仕事を終え、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。 (まずい……)  慌てて、なるべく音を立てないように刀を箱の中に戻し、足音を立てないようにつま先歩きをして押し入れから出て、そっとその戸を閉めた。  それと同時に、高虎が家の中へ戻ってきたので、さっと戸から離れ、彼を迎えた。影虎のぎこちない笑顔に、高虎が訝しんだ顔をしたが、すぐに夕餉の用意をしてくれたのを覚えている。その時の高虎の肩を、窓からさす夕陽の色が淡く染めていたことで、それほどまでに長い間、押入れの中で刀を見ていたことに驚いていた。  刀に魅了される自分の姿を、背後霊のように今の自分が見つめている。そんな灰色の絵が、頭の中に浮かんでいた。  はっと目覚める。  朝の淡いひかりが家の中に差し込み、隣で眠る高虎の高い鼻梁(びりょう )を照らしている。その反射する鈍さを見つめ、いつの間にか自分が眠ってしまっていたことを影虎は知った。 (高虎と話して、低い声を聴いていると、心が安心するんだ。だから聞きたかったこと、聞きそびれちまった)  もっと彼の家族、過去のことについて聞いておきたかったが、今はその時ではない気がした。 (夏祭りが終わって、落ち着いたら、また夕飯の席にでも改めて高虎に話を聞いてみよう)  そう決意し、ひとりで頷くと、布団から半身を起こし、大きく伸びとあくびをした。  影虎の頭の中に、ぼうっと押し入れに仕舞われた高虎の刀が浮かんだ。不思議と手が、あの刀の鞘を抜き、刀身を振り下ろしたいという欲求に駆られていることに気付き、唖然とする。そして、やりたいと思っていることが、漠然とつかめているような気がしていた。 (体動かすことだけは、昔っから得意だったもんな)  思えば、早朝、まだ鳥の高い鳴き声が飛び交っている中、小屋の外に生えている柿の木の上に登って、みずから熟れた茜色の柿を手に取って食べたり、しゃがみ込んで落ちている凍ったように硬い皮を持つ栗の実を拾ったり、村の童たちと長い木の枝を見つけ、それを刀に見立ててチャンバラをして遊んだりして日々を過ごしていた。思いきり腕を振り上げ、風を切って振り下ろし、相手と対峙した時の高揚感は、正座させられ、村の寺子屋の教師に永遠と教鞭を受けている時間よりも、ひと一倍楽しかった。 (俺の体は動きたがってる。刀を持って走り回ってみたいんだ。俺は)  緊張からか、うっすらと手汗をかいている両手を目の前におろし、強く握りしめる。 (俺もいつか高虎のように、自分だけの刀を手に入れたい)  彼女の願いは、まだふくらみの淡いちいさな胸の中に、熱くともしびとしてあらわれていた。  朝日がそのやわらかな輪郭を、白く照らしている。顔を上げると、その陽が全体に当たり、彼女の生命力溢れる面が、真珠のような色をして輝いていた。さんさんと降り注ぐそれは、かすかに熱くも、かすかにつめたい。この世に生まれ直したように思えた、そんな朝だった。
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