序章四 黒き刀、少女の前にあらわれ

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序章四 黒き刀、少女の前にあらわれ

 昼が終わり、くらい紺色があたりを覆った。どこを見渡しても空気中に鈍い灯りが浮いている気がして、星が近く感じた。昼の間、体を覆っていた暑さが足元まで沈み込んだような夏の夜は好きだったが、今宵は昨日より湿り気が強い気がする。指先を立て、空気を割くように泳がすと、ほてりとちいさく水が浮く。纏った着慣れない浴衣も、肌に張り付く感覚がして、首筋と衣の合間をざわつかせた。 「ひゃ~。なんだか落ち着かねえ……。やっぱ変なんじゃねえかな。脱ぎてぇ」  影虎は、落ち着きなく、己の姿を見下ろしていた。胸元にあわせた両手は、ぎゅっと握りしめられ、より白く変化している。  影虎の背に回り、膝だちして深紅の帯を結っていた女性は、楽しげに微笑んでいた。 「そんなことないよ。とっても似合ってる。影虎ちゃん、やっぱり肌が白いから、黒が似合うねえ」  真っすぐに立たされた影虎は、いつもの麻の着物ではなく、黒に赤い花模様が散らされたやわらかな質感の浴衣を着せられていた。夏のくらやみに火の粉を放ったような柄だと思った。  両腕を平行に横に伸ばし、くるりと一回転する。肩先のそろっていないわずかに跳ねた黒き髪と、袖がふわりと舞った。 「おばさん、本当に変じゃない?」  不安そうに視線だけを女性に向ける。 「変じゃないよ。とってもかわいい」  着つけてくれたのは近所に住む中年の女性であった。名を紀里(きさと)という。つむじの辺りで髪をゆるい団子にまとめている。そこからこぼれる髪には、既に白いものがいくつか混じっていた。向日葵(ひまわり)(かす)ませたような色の着物が、彼女の内側から放つあたたかさとよく合っている。 「夏祭りに出るのなんて、初めてだからさ。これでいいのかなって緊張しちゃって」  影虎は頬をうっすらと朱に染めた。そう、この姿をいつも馬鹿遊びをしている村の子らにも見られるのだ。そう思うと、なんと言われるのか気が気ではない。 (絶対あいつら、馬鹿にしてくるんだろうな……)  瞳を紀里から逸らし、くちびるを噛む。村の悪餓鬼共(わるがきども)幾人かの顔が、脳裏に浮かんでは消えていった。そして、その最後には喜一の顔が浮かんだ。 (喜一にも見られるんだ……)  腰に結んだ帯を、片手でぎゅっと握りしめた。うすい布を重ねて結ったその紅い帯は、白い手に摑まれると、重なりがずれ、浴衣の黒と混ざったようになる。額にうっすらと汗をかいていることに、影虎は気づいていなかった。 「影虎ちゃん、顔赤いけど大丈夫?」   紀里が心配して下から覗き込んでいることに気付き、はっとして()け反る。裸足の足が、古い畳の上で交互に跳ねる。 「な、なんでもねえ。大丈夫だよ!」  頬と額に熱を持ち、目の前で手を振る影虎に、紀里はかるく首を傾げた。  「そう、ならいいんだけど」  影虎の帯にかけていた手を離すと、その細い腰を叩く。 「さあ出来た。じゃあ、夏祭り、楽しんどいでな」  影虎は足を弾むように上げたり下げたりすると、紀里に向かって満面の笑顔を向けた。 「ん、ありがと! おばさん」  てのひらで太もものあたりを浴衣ごしに軽くはたき、颯爽と戸を開けて外に飛び出した。  夏の夕暮れは、昼の熱さを(いま)だに残し、むわりとした湿気があった。だが、その中にひとしずくの雨のつめたさを宿していた。  影虎のやわらかな頬に、その空気が膜を張るように触れた。そっとゆびさきで頬を上から下へとたどる。熱いとも寒いとも、何とも言えない微妙な温度だ。夏だというのに不思議だ。何故かその温度は、心を不安にさせた。 (……夏祭りの場に行けば、村の皆がいる。早く皆のところに行きてぇ)  ひとりだから不安になっているのだと、自分に言い聞かせた。そして、下駄を履くと、地を蹴り、弾みをつけて駆けて行った。からん、ころんと小君良い音がついてくる。  陽が落ちかけ、木々が黒い影へと変わってゆく。どこかで鳥の鳴き声が聞こえる。(ひぐらし)であろうか。そちらに刹那、気を取られかけたが、頭を振って前を向く。  風がひんやりとつめたくて心地が良かった。今日は夏の中でも過ごしやすく、良い日だ。  子犬のような息遣いで、はずみながら田と木々の間にある小道を駆けていく。  影虎の頬はほのかに紅潮していた。 (夏祭りに行ける。いつも家のそばの木の上に登って、遠くで舞い散る花火を眺めているだけだったのに、俺も参加していいんだ。参加できるんだ……!)  揺れる腕で、こぶしを握りしめる。いつも家で真面目に手伝いをして過ごした夜が、嘘のように、華やかな気持ちになっていた。幸せや楽しいって、こういう気持ちのことを言うのだろう。高虎の手伝いをするのは嫌いではなかったが、心のどこかでは夏祭りへのあこがれがあった。抑えていた気持ちが弾け飛ぶ。風を切って走っていると、いつの間にか歯を見せて笑っていた。彼女の周囲にあるものが夕陽に撫でられ、赤や金に水面をきらめかせる。あるのは永遠に平行に広がっていきそうに見える田んぼと、さやさやと生い茂る葉を擦らせて騒ぐ木々と、その上で暮らす鳥や小動物だけであったが、それでも身の内から沸き上がるよろこびを、とどめることが出来なかった。放っておけば、口から命のかがやきが溢れ出してしまいそうだ。  木の枝に朱の紐で結ばれた雪洞のあかりが灯っている。もうすぐ夏祭りの開場に到着する印だった。  よろこびは一層増した。嬉しくてたまらず、誰もいないというのに、笑いが止まらない。ちいさな体は、早く夏祭りの会場にたどり着きたくて、うずうずとしていた。肌が泡立つ。交互に動かしていた腕も心なしか軽やかに浮き上がる。 「かぁ~っ。夏祭りかぁ。皆どんな浴衣着てきてるんだろうなぁ。いつも他の奴らから聞かされてた、『林檎飴』っつう食い物も気になるし、盆踊りで皆と踊るの、絶対楽しいだろうな〜……ああ〜! 早く参加してぇっ」  濃い桃色の舌先をくちびるから出すと、上唇を舐める。口の中が唾液でいっぱいになる。なぜかそれはほのかにあまみを伴っている気がした。  その時であった。  交互に動かしていた足をまた一歩、前へと踏み出そうとした刹那、影虎の目の端に、黒い影が映った。その影は実態をもっていた。  驚いて動きを止める。眸の膜が一瞬、にぶい金色にきらめく。すねに汗が流れる。ひやりとつめたかった。恐るおそる体の向きを変え、右に広がる木々を振り返る。  影虎の真横に、木々が小道から半円を描いて、ぽっかりと空間が空いている。 「何だここ……」  恐るおそる、その空間に右足を置く。湿った黒い土の感触と香りが、むわりと漂った。水が溶けて染み込んでいる。そして、円の端まで歩くと、足元に何かが転がっていることに気付く。赤い鼻緒を付けた黒い下駄の先に、こつんと当たったそれは、細長く硬い。  夜目の良い影虎には、しゃがんで瞳を近付けなくとも、それが何か理解った。 「刀だ……」  落ちていたのは、漆黒の刀であった。 「柄頭も、柄も、鍔も、鯉口も、鞘も、全部真っ黒だ。こんな刀、見たことも聞いたこともねえ」  かすかに興奮した面持ちで、ぱっとしゃがむと片手でその鞘を撫でた。なめらかで、肌触りが良い。いつか見た、雨上がりの烏の濡れ羽を彷彿とさせる黒。  彼女の金色の瞳の中に、重なるようにその黒き刀がくっきりと映る。夜の海に浮かぶ、月のきいろい道ができる。  まじまじと見つめ、目が離せなかった。いつの間にか、まばたきすることすら忘れて。  もう片方の手を、そっと鞘の上に重ねてみる。両手で触れるかふれないかの距離で左右に撫でると、さらにその感触は、吸いつくようにてのひらに伝わった。 「すげぇ……」  思わず喉の奥からかすれた感嘆の声を漏らす。  脳裏には、いつか見た侍の腰刀、そして押し入れで見た高虎の刀が(もや)のように浮かんで重なっていた。  影虎は刀の柄と鞘の下に、ちいさな手をそっと差し入れると、瞳を震わせた。  黒き鞘は、月光を受けると、青い星が散るように、きらきらとさやかにひかる。その光が、影虎の金の瞳に反射する。きよらかな泉で洗い清められたかのようなその姿は、春の夜空にこぼされた銀河に似ていた。  背を丸めて刀を抱きしめる。自然と口角を上がっていた。閉じた瞳の端からは、よろこびの涙がかすかに滲んで睫毛の間に夜露のように宿る。わなわなと腕の節々から力が込み上げてくる。全身の血が湧き立っている。指先が熱い。 「ようやく会えた……。俺の刀。こいつを俺の刀にする。黒くて綺麗でかっこいい。……今日からこいつが俺の相棒だ!」  あかるいが、どこか尖った声を上げる影虎の背後に差し迫る人影の存在を知るのは、闇色に染まった木々のみであった。さわさわと黒く染まった葉がゆれる音すら、今の彼女には聞こえていない。 
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