序章五 林檎飴のゆくえ

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序章五 林檎飴のゆくえ

 喜一は夏祭りの開場に一足先に到着していた。  周囲には赤に狐の文様が、筆でひといきに塗られた雪洞(ぼんぼり)が、幾重も濃い紫の紐で張り巡らされ、黄色いあかりを灯している。半分まぶたを落とし、それをぼうっと見つめていた。林檎飴の爽やかであまい香りや、焼けた肉の香ばしい香りが交互にやってくる。無意識に口の中の唾液が増していた。自分も人工的な夏の空気に溶けてゆく。  背にどん、という衝撃が走る。質感の同じ何かがぶつかる音だった。 「って!」  思わず前のめりになり、片手に持っていた林檎飴を地に落としそうになる。慌てて足を踏ん張って体勢を立て直した。 「誰だよ……ってあんたかよ!!」 「ばぁ~~!」  喜一が振り返ると、両手を顔の横で広げて、宗助のにやけた顔があった。出された紅い舌から、酒を飲んできていることがわかった。  喜一は呆れて溜息をつく。  この男は、どうやらまた髭をそらずにひととき過ごしたらしい。顎にうっすらと灰青色の茂みが出来ている。  村人がほぼ全員参加だっつう祭りなんだから、髭くらい剃って来いよ、と喜一は内心突っ込みを入れていた。  宗助は、喜一の肩を抱いて、その精悍な顔に、自身の灰色の髭顔を近付けた。  にんまりと口角を上げた、ひとの悪そうな男の顔がすぐそこまで迫り、喜一はあからさまに嫌な顔をして、片手を突き出し、彼の胸元にあてて「こっちへ来んな」と示した。 「喜一くん、楽しんでる? お、お前も俺とおんなじで、林檎飴を事前に制覇した口かよ」 「制覇した口かよ、じゃねえよ。あんた、その歳で祭りで最初に食うもんが林檎飴かよ!」  宗助の無骨な手には、真っ赤で艶のある林檎飴が握られていた。その浮浪者のような顔と似合わず、飴は小ぶりで大変かわいらしく、ますます彼の不気味さを増していた。村の子らが見たら怖がらないだろうかと、喜一は心配になる。 (思えば、おっさんも歳取ったな……)  宗助に初めて出会った頃のことを思い出す。  当時は四十だったか。宗助の家を夜中に訪ね、扉を開いた彼に対し、弟子にしてくれと土下座をした子供の頃。あの時は親に将来やりたいことについて話をして、医者になりたいと打ち明けた後だった。お前が医者になんてなれるわけがない、と怒鳴られ、母に平手で殴られ、頬を赤くしながら、その足で宗助の家を訪ねたのだ。口の中は、血の味が染みていた。初冬の肌寒い暗闇を、心細い思いをしながら、それでも将来の夢を捨てることが出来ず、走り続けた。思い返せば水をふくんだ空気や、泥が混ざった霜の匂いも、肌を包むように、鮮やかによみがえってくる。  途中で小石に躓いて、転んで顔を正面から打ち、鼻血を垂らしたが、それを拭う余裕もないほどに、ただ一心に、師としたい男のおもかげを追い続けていた。  宗助は家の灯りを背に受けながら、泣きながら土下座する喜一の背をじっと黙って見つめていた。屋敷の鈍い金の逆光が、ひどくまぶしくて、まぶたを上げることができずにいた。そうして、どれだけの時が経ったかわからない中、「弟子にしてやる」とぽつりと言われたのだ。   顔を上げると、粉雪がはらりと降ってきていた。鼻を垂らした喜一に、宗助は口角を上げてしゃがみこみ、「風邪ひくぞ」と頭をがしがしと撫でてくれたのだ。鼻を啜ると同時に、目の端から涙がこぼれた。それは熱く、冷えてかわいた頬を濡らしていた。  あのてのひらの温かさとやさしさが未だに残っているような気がして、喜一は自分の頭に何気なく手を置いた。 「喜一、何考えてやがる」  聞き慣れた低い声が、(かたわら)から響く。  宗助が片腕を胸元に入れて、訝し気に喜一を見ていた。いつも飄々として掴みどころがない彼にしては珍しく、人を心配するような毒のない顔をしていた。  その顔を見て、喜一は一瞬安堵したような笑顔を見せた。だがその感情に恥ずかしくなる気持ちが、胸の内側から湧きだし、宗助から顔を逸らした。頬の輪郭がほのかに赤く染まって紺色の闇に色のついたひかりのすじを浮かべた。 「何だよ。お前」 「うっさい!」  そばかすの浮いた鼻の頭を人差し指で掻くと、宗助が後ろでにやりと不敵な笑いを浮かべた。そして、喜一の油っ毛の無い固い総髪を、大きな手でがしがしと撫でる。結っていた髪がほどけそうになり、慌ててその手を払おうとする。 「うわっ! 何しやがる!」 「お前は一生俺の背を越すことは出来ねえんだよ。俺から見下ろされる弟子でい続けろ」 「もう一人立ちした医者に向かってその言い方はねえだろ! 見下すのもいい加減にしろ!」  子供のように顔を赤くしてぎゃんぎゃんわめく喜一に対し、宗助は満足そうな笑みを浮かべていた。  喜一はただ彼の無骨な手をどけようと、必死な様子を見せていた。  林檎飴は、いつしか喜一と宗助の手から落ち、乾いた夏の地の上に落ちて、追いかけっこをするように跳ねて行ってしまった。  ぼんぼりのあかりと焼ける炎の香りが空気中を漂っている。  紅い林檎飴の行方を、周囲に集まっていた浴衣姿の子供たちは不思議そうに眺めていた。  
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