序章六 烏色の刀 

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序章六 烏色の刀 

 枯れた草や獣の死骸が溶けた水の湿ったにおいが、あたりにじっとりと漂っている。踏みしめた大地から香っているのか、近くの川や田から香っているのか、わからなかった。  影虎の細い髪にも絡みつくようにやってきてたかと感じれば、嗅げばすぐに消えてしまう。  かさり、と背後から草を踏む音がした。  影虎は歓喜のなみだの滲むまぶたを見開くと、漆黒の刀を両の腕で強く抱きしめたまま振り返った。金のひとみの残像が、ぬばたまの闇の中で動く。  背後にいた者の姿をみとめると、猫目をさらに大きく見開いた。まばたきが出来なくなる。瞳は波のように揺れ、体は硬直し、やがて小刻みに震えた。  愛し子の如く黒き刀を抱きしめる影虎の、ちいさな子猫のような体を、むわりと熱い息を吐く男たちがふたり、取り囲んでいた。  彼女の細い腕と、白い額から、脂汗が一気にぶわりと沸き上がった。  男たちは皆、着物の袖を荒くめくっており、日に焼け過ぎて焦げたような茶色い皮膚の上に絡まるほどの腕毛があった。濃い髭を分厚く、皮の割れたくちびるの周りに生やしっぱなしにしている。下卑た笑いを灯した口からは不揃いの黄色い前歯が見え、色が見えるような湿度を持った熱く臭い息を放っていた。  刹那、高虎の姿が彼らと重なった。だが首を振って冷静に見つめると、違いはあきらかだった。彼らには、高虎の体から放たれている高潔さが微塵もない。それは朝の靄の中にはらまれるひかりの粒のようなもので、高虎が意識せずとも、自然と(かも)しだされている匂いのようなものであった。  義父よりも大柄で、かつ悪質な汚さを放つ男たちに、息を止めた。村の男衆ではなかった。刀を抱く腕に力を籠めた。その腕が震えていることに、今さら気付いて、唖然とする。  夏だというのに、影虎のこめかみから流れ出た汗はつめたく、頬を伝って、顎から地へとしずくとなって流れ落ちた。 「おい、こんな森の茂みに子どもがいるぞ」 「ふん、一丁前に刀を持ってやがる」 「何? 本当だ。……しかも、おい、よく見てみろ。こいつの持ってる刀。烏の羽みてえにまっくろだ」 「なるほどな。……おい見ろ。月の光が当たると、鞘が青くきらきら光ってやがる。こんな刀、刀市(かたないち)でも見たことがねえ。こりゃ、高値で侍に売れそうだ」  眉のより濃い方の男の口から、厚い紫色の舌がべろりと飛び出して、赤紫の上唇を舐めた。  影虎はそれを見て、気持ちが悪くなり、えずきそうになった。さっと流れた悪寒で、肌が痺れる感覚がする。  男たちは徐々に砂を鳴らしながらこちらに近付いてくる。  その歩が進む度に、影虎は体の震えが抑えられなくなった。  桜色のくちびるは、恐怖からうすい紫へと変化してゆく。そして間をおかずに、表面から乾いていった。 「おい」  髭のより濃い男が声をかける。眉の濃い男に向けてなのか、影虎になのかよくわからなかった。  ふいに、男たちが歩みを止めた。  影虎は、地に下ろしていた腰を跳ねさせる。  眉の濃い男が、影虎の目の前にしゃがみ込むと、彼女に顔を近付ける。  血走った目が、眼前に迫り、まばたきが出来ない。金縛りにあったように、きりきりとした緊迫が走る。男から発せられる濃く臭いにおいが、肌をぶちぶちと刺してくるようで気持ちが悪く、鼻の上に汗の粒が湧き上がった。空気が黄色く汚れたように感じた。  男は影虎の膝から頭のつむじまでを、舐めるようにじろじろと見ると、口角を上げて歯を見せる。 「こいつ、女だぁ」  語尾を上げ、伸びるようなだみ声だった。  影虎はさらに身を恐怖で硬直させた。 「おい、そいつは本当か……、ああ確かに。こいつは上玉の雌餓鬼(めすがき)だな」  じゅるり、と右から舌なめずりが聞こえた。  影虎は下卑た音のした方を振り返ることは出来なかった。逆に、汗の玉がしずくとなって額から流れ、小鼻の横を辿って、開けっ放しの口の中に落ちる。塩の味がした。  以前高虎に、汗は血で出来ている、と教えてもらったことを、刹那に思い出した。  逃げなきゃ——  本能でそう感じ取っていた。つまさきは血が溜まっているのか、熱くなっている。いつでもここから走り出せる、そう自分の脚が教えてくれているような気がした。夜目の効く影虎の瞳は、男達の間から、どのように道筋をくぐっていけば抜け出せるかを必死に探していた。網の目を探るように、くるくると動くその猫のような大きな金色に、男たちは気付いた。 「おい、お前、まさか逃げようってんじゃねえだろうなぁ!」  急に男のひとりが怒鳴り声を上げ、影虎は肩をびくりと震わせた。板のように固まった体を仰け反らせ、上を見やると、男が額に皺を寄せている姿が、月光の影となって輪郭をうすらさせていた。考えている暇はなかった。刀を両の腕で抱いたまま、背を屈めて、男の脚の間を(くぐ)り抜け、ひたすらに走ろうと脚を動かした。 「あ、逃げるんじゃねえ!!」  ぶん、と空気を裂くような音がして、重みを持った男の手が頭の上に落ちてくる。   影虎はそれを避けようとした。  だが、彼女の前にもうひとりの男の太い脚が繰り出される。  あっ、と思ったときにはもう遅かった。腹に衝撃が走り、口から溜めていた息と唾が一気に吐き出される。かすかに紅い血も混じっていた。宙を飛ぶ感覚がした。背が樹の幹に当たり、尻から地に崩れ落ちた。視界が真っ白に染まったが、雲間からひかりが差すように、徐々に晴れてくると、背と腹に感じたことの無い激痛がほとばしる。  痛みで声が出ず、代わりに目の端から涙がぽろぽろと零れてゆく。また口に塩辛いものが入ってきたと思った。てっきり汗か涙かと思ったが、それは一本のすじの、さらりと落ちる鼻血であった。半目を開けると、頭皮に痛みが走る。  おぼろな目で見上げれば、男に髪を掴まれていることがわかった。 「肌も白くて、黒髪もさらさらで綺麗なもんだ。こんな月夜に出会えるとは、まるでかぐや姫さまじゃねえか」  品の無い笑いをふくんだ声が上から降り注ぐ。不快感で体が満たされてゆく。視界がぼやけて上手く見えないが、醜い男の笑顔があることがわかる。鉄の匂いが、湿った水の匂いと混じって届く。目の前にちかちかとした赤と青の星々が散り、やがてすべて黒に溶けていった。   「……おい、こいつ、突き飛ばされたくせに、まだ刀を握ってやがる」 「おお、本当だ。ったく、小娘のくせに、なんで刀なんかに執着してるんだか。おい、やるときに邪魔だ。こいつの髪を引っ張っておくから、お前が手から抜きとれ」 「ああ」  倒れたちいさな少女は、土に溶けたように動かなくなっていた。黒いその姿はうつ伏せに倒れると闇に溶けて消えてしまう。少女から血の匂いはしない。代わりに水をふくんだ土と、湿度の高い空気のにおいが充満している。細い髪のすじの合間から、雪を欺く白い肌がちらと見えていた。少女の右手には、彼女の髪の色とひとしい漆黒の刀が握られていた。  少女の腕に、眉の濃い男が近寄り、その前にしゃがもうとする。  刀の鞘は、男の身の動きに合わせて蒼い星の連なりのようにきらきらと鈍い色彩を放っていた。  きん、と冴えた音が耳元で聞こえた。  眉の濃い男の首が、胴からすっぱりと綺麗にわかれ、吹き飛ぶ。 「……は?」  少女の髪を摑んだままであった髭の濃い男は、目の前で何が起きたのかが理解できないでいた。  膝から音を立てて地に崩れたのは、先ほど話していた眉の濃い男。それも首から強い雨を逆立ちさせたように血を吹き出している。髭の濃い男の顔にそれが降り注ぎ、ぬめりとした血の感触が焦げて乾いた肌に訪れた。 「あ、あ……」  額から脂汗が滲み、その玉がだんだんと大きくなってゆく。何が起きているのか、ゆっくりと回らない頭で考える。血走ったまなこを下に向ける。  半目を開けた、(うつ)ろな顔をした少女の顔にも、眉の濃い男の血がついていた。紅い桜の花弁が強い風で降ったように、顔や浴衣を染めている。そして、さらにその下を見やり、彼女の刀を握った手を確認する。白い手はひとしく血でべったりと染まっているが、刀の柄は黒いままだ。 (鞘が、柄から抜けてやがる……!)  目を瞠ると、目尻に痛みが走る。恐怖で白目の血走りがさらに深まってゆく。  少女が握った刀の黒い鞘が抜け、さらに黒を濃くした刀身が現れていた。闇の底から取り出したような色だ。だが春の空の如く、どこか透き通った感じもする。鞘が烏の濡れ羽色と称するのならば、その刀身は黒い鶴の首のようであった。その刀の刃は、月光の元、鈍い血の跡で濡れていた。 「ひっ……!」  男は、ようやく自分の置かれた状況を理解した。  このちいさくあどけない、猫のような大きな金の瞳の、不思議な魅力を持った少女が、仲間をその刀で斬り殺したのだ。  男は、ぱっ、と少女の黒髪を手から放した。  細い髪は、月光に彩られながら線を描いて落ちてゆく。  男は落ちた少女の様子も確認せず、背を向けると、一目散にその場から逃げようと走り出した。  森を抜け、小道に飛び出した。はっと後ろを確認するが、先ほどの少女が自分を追ってきている様子はない。  開けた目に汗が入るが、拭う余裕もなくその痛みを受け入れる。 (あいつが、あの娘の刀の近くまで寄っちまったから、たまたま斬られただけだ。でなけりゃあんな小娘に、一瞬で首かっきられて殺されるなんてことが、起きるわきゃねえ!)  肩で荒い息を数回吐くと、ようやく心が落ち着いてきた。頬を切る風も、森の深いかおりから、濃い水のにおいに変わっていた。  視界が開ける。  静かな田の水面が、夜の星を鏡のように映している。  夏の涼しい空気に心地が良くなり、口角を少し上げた。  逃げ切った。俺が見たものや、嗅いだ匂いはすべて夢であった。そう思った。体の血を縛るように固まっていた緊張感が、糸を切ってほつれてゆく。  その時、背後から猫の足音のような物音が聞こえたかと思い、振り返ると、目の前の視界が揺れ、崩れていった。鼻から息が吸えなくなり、そこから先は何もわからない暗闇の中に落ちてゆく。    影虎は小道の上に倒れた男の胴体と、田んぼの中に落ちていった首を交互に見ていた。  ちいさな鼻先に、田の水のにおいと混じり合い、血の濃いにおいがもやもやと触れていた。  何か信じられないものを見るように動揺していた。荒く息をつき、もう一度足元にある男の胴体を見下ろす。首を動かすと、額から、さらさらとした汗の粒が幾つも零れ落ちた。それを拭うこともできず、汗が流れてきても、瞳は大きく開けたままである。  金色の眸は橙に滲んでらんらんと満月のように丸く輝き、茶色い瞳孔は開いている。  うつ伏せで倒れている、眉の濃い男の巨軀は、首が真横に綺麗に斬られ、そこから泉のように血が溢れている。その血がすじを作って田んぼの水と混ざり合い、赤黒い色水を作っていた。その赤い田の水面に、半分丸いものが浮かび上がっている。男の頭であった。  顔面を下に伏せているので、その表情は伺えないが、口を半分開き、瞳は虚空を見つめて黒く染まっている。肌は首から頬にかけて紫に変色していた。肌とひとしい紫の厚い舌が、くちびるからだらしなく垂れて水面に葉のように浮いている。  影虎は目を見開いた。ぱちぱちと何度かまばたくと、瞳は元の落ち着いた金に戻っている。 「あれ……、俺……?」  自分は一体、何をしたのだろう。何をしていたのだろう。冴えていた頭が、混乱し、渦を作る。  そういえば、両手に感覚が無いことに気付いた。腕を上げようとすると、肩が、がたがたと震え出す。 「えっ……?」  右手には、先ほど森の中で見つけた刀を握っていた。いつも野良仕事で見る自分の白い手は、返り血でべっとりと濡れている。夜闇の中、その血の色は黒くも見えた。 「あぁっ……」  視界が震える。自分が何をしてしまったのか、その事実が、ようやくゆっくりと落ちてきた。どこかで遠い場所で、雫が落ちる音がする。 (俺が、こいつらを斬った……)  刀の柄を握りしめた手の力は強いものだったが、それに対し、手首から腕の震えはまったく収まらなかった。  影虎の腹の底から、喉のあたりまで、言いようのないつめたい恐怖が沸き上がってきた。刀を手から放そうと、ゆびを広げようとしたが、指とゆびの間が(にかわ)のように固まってしまって、動かない。 「どういうことだ……。何だってんだ一体……!」  腕をぶんぶんと振る、何度も何度も振ったが、刀は彼女の手から落ちることはなかった。ただ夜の青を集めて反射し、冴えたうつくしさを増すばかりである。代わりに額からこめかみへと、大量の汗が幾重も流れ、返り血と混ざり合い、赤く散ってゆく。  恐怖と混乱で、天に向かって獣のように吠えた。  夏の湿った空気は、彼女の肺を嫌味たらしく温めた。小刻みに息をし、走ることを止めない。  それに反して、額からとめどなく流れ落ちる汗は、凍てつく冬の氷柱(つらら)の如く冷えていた。  裸足で駆けていたので、小道に転がる小石が、そのやわらかな白い足首や、かかとを傷つける。鈍い痛みが走った。だが、それでも速度を落とすことは無かった。いや、出来なかった。 (なんでだ……、なんで!!)  疑問が、刀傷で腹から溢れる血のように、頭の中から消えない。  左手に鞘、右手に柄を握り、剥きだしにした漆黒の刀身が、先の男達の脂ぎった血と共に、生温(なまぬる)い風を切ってゆく。  目尻から涙が一粒(こぼ)れ、白い頬を流れていった。刀の柄を握る手は、ひたりと張り付き、元々彼女とひとつであったと主張するように、剥がれることはなかった。
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