序章七 黒き少女、夏祭りの夜に血の雨を降らし

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序章七 黒き少女、夏祭りの夜に血の雨を降らし

 夏祭りの開場は、先ほどよりも人が集まり、賑わいを見せていた。  この村の掟であろうか、皆一様に朱の(たすき)を肩に結び、男衆の太鼓の音に合わせて、その身を中央で焚かれる炎の色に染めてあかるく躍らせていた。顔には笑顔の花が咲き、今年一番の活気を見せている。  浴衣姿の子供たちが笑顔で、けらけらと声を上げながら楽し気に踊っているのを、喜一は遠目に眺めていた。手には女衆が配っていた緑の釉薬で焼かれた陶器に入った甘酒を握っている。  皆、普段着よりもあかるい色彩の浴衣を着ているので、焚き木の周りで花が咲いたようだった。透きとおった夏の夜の中を、赤や青の浴衣が、あかりのように浮かんでゆらめいている。湿度の高い空気の中にいるせいか、薄ぼんやりとして見えるのも風情があった。  くちもとにはうっすらと笑みを浮かべる。まだ酒を入れていないのに、ふわふわと体が心地よい。夏の活気良い人の姿が周囲にあり、幸福感に満たされていた。  肩に、どん、と右から衝撃が走り、暖かく滲んでいた頭が冷まされる。 「うわっ!!」  驚いて体が倒れそうになり、足を広げて体勢を整える。  反動で杯から甘酒が飛び出てしまう。白い液体が、舞って地に落ちるのを茫然と見つめる。右足の甲に、ぷるりとしたつめたい感触がした。 「あぁ~……」  縁の際までたっぷりと入っていた白い酒が、半分以下になってしまった。絶望し、怒りを込めた鋭いまなざしを隣の男に送る。  藍色の浴衣姿の宗助が、腕を組み、歯を見せて満面の笑顔をこちらに向けていた。  額の横に、白狐の面を付けている。狐の目元には筆で朱がさされ、妖艶さを出していた。元々精悍な顔立ちをしていたが、その面と浴衣の効能であろうか、普段よりも男の色香が増している気がする。それがまた憎たらしかった。 「いきなり何すんだよ!!」  ぶつけられた肩を肩で叩くと、宗助が真横に揺れ、さらに笑いを深めた。ほんの少し喜一の方が宗助よりも背が高かった。その事実に改めて気付き、はっとする。 (先生の背ぇ、いつの間にか越しちまってたんだよな……。そういえば) 「喜一くん。楽しんでるじゃないの。いいことだいいことだ。関心関心」  宗助はわざとらしく首を大きく上下に動かしていた。  喜一はそんな嬉しそうな宗助の顔を見て、釣り上げていた眉を下げた。  つむじできつく纏めた宗助の髪には、白いものが混じっている。笑っている目尻にも、小じわが目立っていた。 (また白髪増えたな……)  喜一は下唇を上唇で軽く噛む。  宗助の髪を見ていると、黒髪がひとすじも無い、あの唐変木な(つよ)い老人、高虎の姿を思い出す。  喜一は何だか可笑しくなり、うっすらと笑った。 (先生も、高虎のじいちゃんみたいな(じじい )になってくれればいいな) 「あ? 何笑ってやがる」  先ほどとは打って変わり、唖然とした顔で自分を見ている宗助に気付き、喜一は取り繕って拗ねたふりをした。 「なんでもねえ!」  宗助から顔を隠すように身を翻すと、桜鼠の浴衣の袖がふわりと揺れた。今日ばかりは喜一も、いつもの十徳姿ではなく、あかるい色味の浴衣を着て来ていた。祭りを楽しもうという気持ちを表していた。  宗助は喜一の全身を下から上へ眺めやると、馬鹿にするように目を眇める。 「お前さんにしては珍しく女みてえな色の着物着てきてるじゃないの」 「言われると思いましたー。家にこれしかなかったんだよ。ほっとけ! 先生だっていつもそんな気障(きざ)な色のやつ着てねえじゃん」 「俺がどんな色のもん着てきても、似合う男だってぇことが照明されただろ?」  宗助はうなじの後れ毛を撫で上げるように手を首に添え、胸を張った。彼の高い鼻梁が、雪洞の灯りですっと橙にひかる。 「……へっ。まあ老い先短い命だし、好きな色の浴衣着て生きて行けばいいんじゃないっすか?」 「はぁ? 老い先短いとはなんだこの野郎!!」  喜一は宗助の腕に、後ろに引っ張られるように肩を抱かれた。 「わぁ! 何すんだおっさん」  抵抗しようと腕を背に伸ばすも、その腕は夜空を掻く。宗助は笑顔で両こぶしを丸めると、喜一のこめかみにあて、ぐりぐりと指の関節を動かした。楽し気なにやけ顔を、喜一の後頭部につけるように浮かべている。 「あぁ~~! いってえ~~っ!!」  「くくっ……」  顔を真っ赤にした喜一は、目尻から涙を流し、宗助のこぶしにその手を重ねた。  宗助は嗜虐的な笑みを浮かべながら、喜一の背後でこぶしを動かし続ける。  端から見ると、いい歳をした仲睦まじい親子がじゃれ合っているようにしか見えなかった。  ふたりの姿を、雪洞の灯が橙色に穏やかに照らしていた。喜一は痛みを感じながらも、自分と宗助の間に永遠にこんな時間が流れ続けていくのだろうなと頭の片隅で薄ぼんやりと感じていた。 「あれ、誰だ……?」 「あ?」  喜一は叫び声を止め、ぽかんとした顔で前方を見つめた。  宗助はこぶしの動きを止める。中指の第一関節に、喜一の頭の熱が伝わった。  夏祭りの雪洞が枝に結ばれた木々の間に、ちいさな少女の影があった。ゆっくりとこちらに近付いてくるその姿を、瞳を眇めて見つめる。  雪洞の灯りが、その姿を舐めるように映し出した。途端、喜一と宗助は瞠目し、息を止める。 「あいつ……、何で……」  喜一の赤かった顔は一気に青ざめ、驚愕に開かれていく。  それは、影虎だった。  灯りの元に照らし出された影虎の姿は、肩で揃えた黒髪、頬や首すじ、黒い浴衣まで、全身が血まみれであった。そして、右手には握っているのは――。 「刀……」  宗助は確かめるように呟いた。  影虎の白い手に握られているのは、刀身の黒い刀であった。切っ先からぽたぽたとしずくが落ち、地を濡らしている。それは赤く、黒い大地を汚してゆく。  いつもらんらんとあかるく光っている昼の太陽のような金の瞳は、半分瞼が落ち、陰っている。そして、虹彩(こうさい)は消えていた。 「影虎……?」  喜一のこめかみを、ひとすじのつめたい汗が流れ落ちる。  土と草が溶けた水に入り混じって、生々しい血のにおいが漂ってくる。その根源は、影虎だった。  辿るような速度で、ゆっくりとこちらに近付いてくる彼女の姿は、まるで幽鬼のようだ。身の丈に合わない長い刀の切っ先が地につき、金物と砂が擦れる不快な音が、彼らの耳朶を打つ。  影虎は、うつむかせていた顔を少し上げた。そして、足を綺麗に揃えて歩みを止める。  彼女が歩みを止めたと同時に、祭りの場の中央にいた半裸に袴を履いた男衆たちが、大きく腕を振り下ろし、太鼓を打つ。  腹に響く音がどおん、どおん、と木霊する。  浴衣姿の村人たちは、その音に活気づけられ、さらに踊りの陽気さを増していく。薄ぼんやりとした重なりが蠢き、雪洞はほのかに揺れる。  だが、三人の間には、あかるいその場に不釣り合いな緊迫した空気が流れていた。鈍い耳鳴りがすると思ったら、それは己の体から発されているものだった。  影虎は、頬を叩かれたようにはっと瞳に色を戻し、顔を上げた。首を動かし、辺りを見渡す。夏祭りの人々と、灯りと炎のあかるい色彩。そして、自分を見つめている、宗助と喜一の今まで見たこともないほどの驚いた顔。 「あ、あ……」  刀を握った右手が震えだす。かたかたと鳴っているのは、己の歯の音であった。震えが止まらなかった。額から流れる汗は顎や首すじを伝い、つめたく流れ、着物の隙間から体の中に伝っていく。最近ようやくふくらみ始めた、淡い双丘も濡れてゆく。 「おい……、影虎!」  喜一の心配したような声が大きく響く。  頬を打たれたようにより大きく瞳を見開くが、先ほどまではっきりと見えていた視界が、またぼやけていった。目の前には、赤や黄や青いひかりが、等間隔に並んだり、くっついたり離れたりしていた。  短くうすい息を吐くと、足をふたたびゆらりと前へ動かす。意図せず動き出す足を、止めることが出来ない。つまさきで蹴られた土が、きらきらと舞って彼女の黒い体を包んで去ってゆく。  焦りと諦念のようなものが、彼女の中に生まれていた。周囲の温度はぬるいというのに、自分の息はなぜかつめたかった。  喜一が影虎に近寄ろうとする。だが、宗助はさっと彼の前に腕を出し、その歩みを制した。 「先生?」 「待て、あいつおかしいぞ……。普通じゃねえ。近づくんじゃねえ!」  喜一は上を向き、師の顔を確かめる。そこには、先ほどまでのふざけた表情は消えており、精悍な大人の男の顔があった。危険を察知し、大切なものを守ろうとするような、動物的な本能を感じさせる横顔だった。  宗助のつむじで髷にまとめた髪が、風に吹かれ、数本髪紐から解れていた。  影虎がこちらへ向かってくる歩みは、徐々に早くなっていった。
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