序章八 血のまつり 

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序章八 血のまつり 

 頬を撫でていく風に、額から汗が幾つもこぼれ落ちてゆく。刀の柄を握った手からは、感覚がとうに無くなっていた。  裸足の足は乾いた土の上を、速度を落とすことなく走り続ける。痺れるような痛みを与えていたが、それを気に留める時間も許さず、走り続けていく。  頬を切る風は、やわい肌を切り裂くようだった。それでも熱い己の肌は、夏の水を含んだ湿度の高い薫りと、空へ湧き上がるような血の香りが混じり合って鼻を混乱させていた。  いつも溌剌とあかるい影虎の姿と違い、暗い影を纏ったその姿は異質だった。夏の透明感ある暗さともまた違っていた。どちらかというと春の宵闇の中を漂う霞のような。  喜一は身を乗り出す。 「おい、影虎……」  影虎に向かって声をかけた。だが、影虎は歩みを止めることなく、夏祭りの踊りの輪の中を、垂直に突っ切ってゆく。  踊っている村人たちは、最初、彼女の突然の乱入に気付いていなかったが、ひとりの女が動きを止め、目を見開いた。  影虎の血まみれの姿、彼女が手にしている血を浴びた漆黒の刀を目にし、息を止め、両手をくちもとで重ねる。その刹那、女の背後の焚き木がひときわ大きく揺れ、赤みを増した。 「人斬り!!」  甲高い女の叫び声を聞き、その他の村人もやっと影虎の存在に気付いた。  肩で息をして、血走った目をひからせる影虎は、悪鬼のようであった。背後に広がる森は黒く、下に広がる雪の白とあいまって、さらに物騒な雰囲気をうつしだしている。  彼女の周囲を円を描くように村人が囲う。恐れをなした者は、叫びながら森の茂みへと逃げていく。  喜一が、あっという声を上げる間もなく、影虎はその女の背に一太刀を浴びせた。  女は何が起きたのかもわからないまま、瞳を見開き、後ろを振り返ろうとする姿勢で、ばたりと倒れる。女の着ていた橙色の着物が、線香花火のような残像を残した。  周囲の者は、女の周りに輪を作り、しばらく沈黙していたが、やがてその中のひとりが悲鳴をあげると、そこから輪唱するように、悲痛な叫び声が上がってゆく。 「おい……、嘘だろ……」  宗助は唖然としていた。こめかみからぬるい汗がひとつ、たらりと落ちて、彼のうすく生えた顎髭を濡らす。  喜一は何も言えなかった。ただ口をうすく開け、まばたきひとつ出来ずに、じっと影虎の見慣れたちいさな背を見つめていた。  影虎は、自分が何をしてしまったのかわからず、瞳を見開いたまま茫然としていた。金色が、さざなみのように揺れ、紗を作った。。  目の前にうつ伏せに倒れた女の背から、縦に血がどくどくと流れ、くすんだ橙色の浴衣を、あざやかな赤に染めていく。  女をしばらく見つめていると、耳に、きいんという音が一度鳴り響いた。最初、これが何なのかよくわからなかったが、その音が鳴り終わった後、腹から急速に吐き気がこみ上げる。立膝をついてうつむき、片手で口を押さえると、女の体の横に嘔吐した。  女の血の赤と、自分の嘔吐物が混じって、黒く乾いた地に染みていくのを茫然と見つめる。 (俺は……、人を殺した)  つめたい事実だけが、頭の中に降りてきた。腕はふるえ、全身の毛穴から汗が噴き出した。影虎の手にした黒い刀は、さらに血が重なり、黒を汚すように赤く染まる。切っ先から、ぽたぽたと血が落ちる。だがやがてしゅうしゅうという音と共に、滑らかな刀身に溶けてふたたび黒があらわになる。その音に不気味さはなく、小川の流れのようにどこか清らかだった。 「うぅっ……」  とどめようもない想いを堰き止めるかのように歯噛みする。人よりも少し長い八重歯が、獣の牙のごとく、月のひかりを受け、真珠色にきらめく。  茫然と事件を見ていた太鼓叩きの男衆のひとりが、頬を叩かれたように目を覚まし、影虎をゆびさす。 「人斬り……! 人斬りだ!!」  男が唾を飛ばして叫ぶ声が空気を揺らす。  それに呼応し、周囲の人々は叫び声の強さを増していった。  喜一は瞳を揺らしてその光景を遠くから見ていたが、やがてふらりと前屈みになると、徐々に速度を上げて人々に近寄って行った。 「喜一……!」  宗助が、喜一を止めようと手を伸ばす気配がしたが、喜一の背には届かなかった。 「影虎、影虎……」  目の前が陽炎(かげろう)のように見える。村人は皆、青や黄色の灯りとしてしか、うつらなかった。  あたりには、炎が燃える焦げたにおいと、生まれたての血のにおいが流れている。地獄に落ちたような色彩だった。  いつの間にか空の雲が熱くなり、紺色の夜空を覆っていた。空気に水分が多く含まれた感触もしていた。  その中に、影虎の姿だけがはっきりと見えていた。  刀を持ち、悪鬼のように立つちいさな少女。  だが、喜一にはいつもの、あかるく、走ることが大好きな彼女が見えていた。  彼女を諭すように、口角を上げ、大きく手を広げる。   茫然と倒れた女を見ていた影虎は、喜一の存在に気付き、はっと顔を上げると、彼に視線を固定させた。 「喜一……?」  名を呼ぶと同時に、彼女のまなじりから、ひとしずくの涙が零れる。やがてその白い顔は歪み、救いを求めるように喜一の元へ駆けよっていった。 「影虎……」   喜一は泣き笑いのような表情で、彼女を抱き留めようとした。  影虎は、刀を手から振り払い、その胸の中へ飛び込もうとする。  喜一と影虎の影が、夏祭りの雪洞(ぼんぼり)の灯を受け、黒く重なった。  瞠目する宗助の姿が、遠い距離にある。  影虎の手にした刀が、喜一の胸を貫いた。 「喜一……!!」  宗助の叫び声が、遠い犬の吠え声のように耳に触れる。  やわらかな霧雨が、天から降り注ぐ。  影虎は、喜一の腕に抱かれ、その身を彼に預けていたが、何が起きたのかわからないような顔で、ゆっくりと喜一の顔を見上げた。彼女の金のひとみが揺れる。 「喜一……?」  手に、濡れた温かいものが触れていた。視界が雨でぼやけて、よく見えない。  やっと焦点が定まると、喜一の表情が見えた。 「喜一……」  もう一度彼の名を呼ぶ。 「影虎、俺、将来お前のこと、嫁にしようと……」 「え?」  優しい声でそう呟くと、視界は暗く染まり、やがて温かい春の空気と草花の香りで満たされていった。     影虎の肩に、ずっしりとした成人の男の重みが降りてきた。力を抜いた喜一を抱き留めようとするが、彼は彼女の体をすべり落ちていく。  仰向けに横たわった喜一の瞳は半開きになっており、瞳のひかりは消え失せていた。 「喜一……」  彼の胸の中央から、赤い血が、こんこんと泉のように湧いて溢れる。  影虎は己の両手を目の前に(かざ)した。右手は相変わらず刀を握っており、さらに血の赤を増している。空気に触れたばかりの、新しい血のにおいがふわりと鼻腔を包む。  自分が斬ったのだ。  降りてきた真実に、両手が激しく震えていた。 「あぁ……っ、あぁ……」 「喜一!!」  横から宗助の叫び声が聞こえる。  雨の地を走る音と共に、目の前に倒れている喜一の体を、抱き起した。 「喜一、お前、馬鹿……。なんだって、なんだってこんな……」  宗助は、まだ喜一が生きていると、祈りをこめるように少し揺すっていた。だが、喜一は口と瞳をうっすらと開けているだけで、動かない。既にこと切れている。 「喜一、喜一お前……、嘘だろ……。ちくしょう、何だってこんなことに……っ」  宗助は、喜一の体を揺さぶると、耐えきれず、両腕で強く抱きしめた。嗚咽が零れている。  影虎は立ったまま、その光景をどこか遠いところで見つめていた。  ふたりの男が重なる姿が、虹が消える間際のように滲んでいた。  そこから影虎は堰を切ったようにその場にいた村人たちを斬り続けた。  体はどこか浮遊し、夢の中で意識していないのに勝手に体が動いている感覚だった。  目の前で恐怖に眼を見開く男や女の顔が、ぱちんとはじけて血の渦となって形を変えてゆく。  半分開いたまぶたに返り血が飛び、元々赤く生まれついたのではないかというほど、髪も頬も着物の袖も紅に染まっていく。  影虎は目の前の惨劇を、どこか遠いところで見ていた。耳には鈍い金切り声が、ずっと響いていた。
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