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序章九 雪色の娘の肌に、紅がさし
老齢にしてはまだ張りのあるなめらかな頬に、生ぬるい風が触れる。
高虎が夏祭りの会場を訪れた時、辺りは騒然としていた。
さあっ、と霧雨が降り、彼の白銀の髪を、さらにきらめかせて濡らしている。
今宵新たに生まれた雨のにおい。その上を漂うように覆っているのは、彼がかつて戦場で嗅ぎ慣れた血のにおいだった。履いた下駄の間を通って、夏だというのにじわりと冷えた空気が伝わってくる。
夏祭りで想像していたのは、村人が浴衣姿で円になって楽し気に踊っている毎年の光景であった。だが、今目の前に広がっているのは、恐怖や怯えを顔に浮かべながら、四方八方に散らばって逃げ惑う人々の姿だった。下駄が脱げた女たちや、尻餅をつき、小麦色に染まったたくましい腕をくちもとに当てて、ただ怯えて震えている太鼓衆の男達もいる。
「なんだってんだ。こりゃあ……」
高虎は唖然とした。
何が起きているのか、状況を把握するために、辺りを見渡す。
(見知った顔が何人かいやがるな……)
そう思ったとき、中央に血だまりが出来ているのを見つけた。
それを見た刹那、高虎の脳裏には、血だまりの中で影虎を拾ったあの日のことがぱっと思い浮かんだ。火花のような爆ぜかただった。胎盤ごと産み捨てられ、自分の母の赤黒い腹の血の中に眠っていた赤子。その娘を、青筋の浮いた腕で抱いた生温かさを。
「影……虎……?」
影虎が仁王立ちになっている。その前方には、誰かが半身を横たえ、誰かがその半身を屈んで抱きしめている。
高虎はその正体に気付き、目をゆっくりと見開いた。灰青色の虹彩が揺れる。
「喜一、宗助……?」
そこにいたのは、紛れもなくいつも自分をからかってくる腐れ縁の医者たちであった。白き歯を見せ、はにかんだ笑顔で、高虎の家を突然訪れてくる、あかるいふたり。今彼らを取り囲むのは青く暗い悲しみであった。
喜一の半身を、宗助は抱きしめ、肩を震わせている。
宗助の腕からは、生まれたてのあざやかな血が流れていた。
高虎は息を飲んだ。
「こりゃあ……、一体……」
だらりと垂れさがった喜一の腕を見る。その腕はいつもの健康的な血色をしておらず、青白い。宗助が喜一の胸に頬を押しつけ、さらに強く抱きしめると、喜一の顔ががくんと後ろへ倒れた。
高虎は彼の顔を見て瞠目し、銀の髭で覆われた厚いくちびるを震わせた。
(死んでやがる……)
喜一は紫色のくちびるをうすく開きながら、青白い顔をこちらに向けていた。うっすらと開いた半目からは、いつもの夏の日差しのような生命力が失われ、虚空ばかりが映っている。
宗助はそんな弟子の亡骸の胸に、険しい顔で鼻を押し付けている。いつも人を小馬鹿にしている瞳は涙で濡れ、赤く染まっている。
「は……」
高虎は動揺し、みじかく息を吸った。そして数歩、後ずさる。白髪からひとすじ、汗がこめかみへと落ちた。
「ど、どうなってやがる。何が起きていやがる……」
高虎が後ずさる土のこすれる音で、影虎ははっと気が付いた。かくかくとした動きで少しずつ高虎の方を向く。彼女の大きな金の瞳が、高虎を射抜いた。瞳孔が開き、中央に向かって幾重もの亜麻色の鏃が集まっている。まなこはこまやかに震え、水面が揺れて鈍い白金となってゆく。そして、雪色の肌には、返り血が雨を浴びるようにかかっていた。
高虎は息を飲んだ。
「高……虎……」
動きを止め、じっと高虎を見つめていた影虎は、やがてゆるゆると肩の力を抜くと、瞳からなみだをあふれさせた。彼女の透き通った涙は、白くなめらかな頬に流れ、血の赤と混ざっていく。
高虎はゆっくりと影虎の手を見やる。そこには漆黒の刀が彼女の白い手に、膠の如く張りついていた。
「影虎……、お前……」
高虎は驚愕し、瞳を見開く。
「俺が斬った。俺が、喜一を斬ったんだ」
高虎が何か言いだす前に、影虎は焦るように乾いたくちびるを開いた。言葉が進むごとに、早口になっていた。
影虎の眸から涙のしずくがひとつ、落ちる。
しずくには鏡のように高虎の驚愕した顔がうつっている。それは頬をすべらず、そのまま地へと落ちる。そして、宗助に抱かれている喜一の肩に落ちた。
血のついた刀は霧雨に濡れ、黒く艶やかにかがやいていた。
その黒をじっと見つめていると、高虎の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。
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