椿の花と、白い着物の女

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椿の花と、白い着物の女

「いや、しかし、あやつがあのような惚けた面になってしまうとはなぁ」   加賀良は弟に東の方角にある村「くらき」に木材を届けに行くと嘘をついて、実際は阿木弥の好いた女がいるという、「かげら」へ向かっていた。  古びた足袋がざっ、ざっ、と心地よく地面を歩く音が響く。  そして阿木弥を欺く為に、大きな丸太を一本背負っていた。 (いくら欺く為とはいえ、いささか大きすぎたか……)  溜息をついて、ずれた丸太を己の胴に結んだ麻紐で縛り直す。赤子を背負う女とはかような重さなのであろうかと、毎度近隣の村に丸太を運ぶ度に加賀良はふと思うのだった。それはいつかは自分もどこぞの娘を嫁に貰い、子を産ませ、その子を背負うことを頭のどこかで考えているからなのだが、本人には自覚が無い。  阿木弥の惚れた女を一目見てみたいという好奇心は日に日に増していってしまい、ついには自分でも驚くような行動に出てしまった。普段仕事一辺倒で木の事ばかり考えている自分では考えられない暴挙であると、額に流れた汗を拭う。 「しかし、長年共に暮らしてきたが、あやつの好みのおなごなぞ、頭で考えたことも無かった。どのようなおなごが好みなのであろうな。色白か? はては太尻か? いやいや色黒で痩せた女を好んでいたりして……」  妄想を膨らませていたが、足は止めずに歩き続ける。  そしてようやく「かげら」の入り口へとたどり着いた。村は周囲を銀杏の木で円を描くように覆われ、「かげら」外の土地との区別をつけている。  秋を過ぎ、冬の始まりの中で残った銀杏の枯れた葉が、一枚ふわりと枝から離れると、加賀良の総髪の毛先に触れ、落ちていった。  それを合図にしたか、加賀良は歩き出し、「かげら」の暗い朱色で塗られた門をくぐった。  門をくぐる間の一瞬、上下左右に視線を巡らせ、眉を寄せる。 (……しかし、正式な村の門であるというのに、ところどころ塗りが剥げておるではないか。見たところ2、3年は塗り替えておらぬと見た。何故なのであろうな)   不思議に思ったが、さほど気にすることでもないだろうと頭を一つ振り、また前だけを見て足を進めた。  村は、驚くほど人がいない。外に2、3人歩いてはいるのだが、その数人の村人も、何の目的があり歩いているのかが理解出来ない様子であった。  例えば買い物に出かけていたり、商売をしている、といった人間は雰囲気で分かる。だがそこにいる村人たちは、皆一様に青白い顔をして、どこを見ているのかもわからぬ空虚な視線を、あちらこちらに向けては、ぼうっとした足取りでいるのだ。 (理解(わか)らぬ……)   加賀良は眉を寄せた。この村の異様さは今まで訪れた村の中では感じたことの無いものであった。  村全体が灰色の厚い雲で覆われているように感じる。このどんよりとした暗さの正体は一体何なのであろうか。 (だが荒廃しているといった訳ではない……)   村人は餓鬼のように痩せている訳ではない。着物も襤褸(ぼろ)を纏っている訳ではない。それなりの村の、それなりの衣服といった体(てい)である。  そこではっと加賀良は気付いた。 「そういえば俺は、阿木弥の好いたおなごの姿なぞ、理解(わか)っておらぬではないか……!」   思わず大きな声を出してしまい、焦って口に手を置く。  村人に聞かれていたかと感じたが、皆黙ってただ茫とした眼差しで歩いているだけである。  ほっと胸を撫でおろした瞬間、目の前に淡白い光が見えた。  (ん……?)   驚いて目を瞠る。  光に見えたものは、女であった。  白に紫を一滴垂らしたような色の着物を身に纏い、両手に薄紅の椿の花束を抱いている。  加賀良と垂直に重なるように歩いている。少し俯いたその横顔は、長い睫毛が頬に影を落としていた。白い肌に、赤い唇が浮き上がるように咲いており、凛とした美しさを放っていた。  明らかに他の村人とは様子が違う。 (このおなごか……)   加賀良はそう確信した。  女が加賀良の方を向く。その深い夜色の眼差しが、加賀良を射抜いた。  加賀良はぴたりと動きを止めてしまった。  女は身動きせず、唇を少し開けながら、じっと加賀良を見ている。  するとゆっくりと体勢を変えて加賀良に近付いてきた。  加賀良は、女が自分に一歩一歩近づいて来る度に、心の臓の音を大きくさせていった。  女が、加賀良のつま先に己のつま先が触れる距離まで近づく。そして、片手を上げたかと思うと、加賀良の頬に触れた。  女のしなやかな指が、添えられるように置かれる。 「ふっ……」   加賀良は吐息を漏らした。ほんのり頬も朱に染まる。やがて我に返り、たじろぐと女から離れるように後ずさる。 「な、何をするか!」 「あなた、この村の人じゃありませんね」 「……っ」   女は一歩後ずさった加賀良の羽織の裾を手に持つと、己の鼻先まで上げ、くん、と匂いを嗅いだ。瞳を閉じ、長い睫毛を伏せる女の白い顔に、加賀良は更に頬を染める。 「何を……っ」 「あなたからは、木の香りがします。爽やかな森の一つ一つの木肌の香り。雨土を含んだ根から育まれた命の香り」   女は瞳を閉じたまま玲瓏な声で囁いた。  加賀良は女の顔を茫然と見ていたが、我に返り、女が手にしていた着物の裾の下の部分を掴むと、勢いをつけて女の手から離した。 「やめろ」   女の赤い唇が、陽の光に当たって艶めいたのを、加賀良は目の端に捉えた。唇の深い紅の色が、陽の光に一瞬薄紅色へと変化した。  女は口角を上げて艶やかに微笑むと、隙をついて加賀良の頬を両手で掴んだ。  両手で持っていた椿の花束が、ぽとりと地に落ちる。  加賀良があっ、と思う間も無く、口の端に弾力のある女の唇が当たる。  啄むような口づけを施すと、女は「私の名は、乙女椿(おとめつばき)と申します」と加賀良の耳元で囁いた。  ぞわりとした感触が耳朶を打ち、加賀良の耳を朱に染める。  女・乙女椿は、蝶のようにふわりとその場を去って行った。  加賀良は気の抜けたような顔で、ただ茫然と女が去って行った方向を見つめていたが、やがてがくんと腰を落とすと、その場に頽れた。
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