プロフェッショナル

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──聞いてあげるわよ。 そんな情が沸いたものの、今どき、簡単に動画で撮って投稿できる。 わざわざ私の足を止める必要なんてなかったことだろう。 それでも彼は画面越しではなく、生で他人の足の止まる様を見たかったのかもしれないじゃない? そして、私はまんまと惹き付けられた訳だった。  私など、まるで気にした素振りなく熱唱する彼を眺めて、夜の空気がやけに馴染んでいることに気付いた。 なんとなく絵になる光景に、辺りに撮影機材がないか、つい確かめてしまった。  まぁ、そんな筈もない。  彼はただ、この街の気怠い夜の空気にあてがい歌っているだけだ。  まるで歌に恋い焦がれるように、ただ歌う。 ──好きなのね。  音楽に詳しくも、さして興味があるわけでもない私の足を止めたほどの歌唱力は褒められたものだ。  いつか彼が世に出てきた暁には、この一時のご縁を誰かに自慢しようなどと、私は内心でほくそ笑んでいた。 ──さぁ、そろそろ……。 歩を進めようとした時だ。  途端に気が済んだのか、畳み掛けるようだった曲調を彼はがらりと変えた。  一曲だけで済ませるつもりが、彼は音色を途切れさせずに続けてしまう。 どうやらこちらの心を見透かしていたようだ。 どうせならもう一曲聴いて行きなよと、そういう訳だ。 飽きさせないからさ。 そんな声が聞こえた気がした。 またしても乗せられた私は、手にしていた重い買い物袋を肩に持ち替えた。 仕方がない、後一曲よ。  さっきまでの若者の主張らしい猛りっぷりとは打って変わって、お次はバラード。 喧騒に溶け込むような優しい声音。 甘やかであるのに酷く切ない声音は、秘めた恋情を歌ったものだった。 私を相手に選曲したと言うのなら、彼はなかなか(いき)なことをする。 女性は幾つになっても恋に焦がれるものだ。 日常から切り離された非現実を彼は見事に演出した。 闇夜を縫うような伸びやかな声量でもって、もっと近づいて欲しいと乞うているようだった。 ふっと、笑みが鼻を抜けた。 こんな時でさえ浮かべた男が夫だというのが少し可笑しかったのだ。 たまにはそうした気分で、あの髭面なんぞ撫でて差し上げようかしらん? そんな悪戯心に紛れさせねでもしなければ、今や恋心はまったく素直でない。 それでも歌声に触発されて、鬼嫁は優しい気持ちになっていた。
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