プロフェッショナル

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「お姉さん、次、リクエストしてよ」 懐っこい笑みを彼は覗かせた。 その笑みは、青年と呼ぶには気が早い。 少年を抜け切らない瞳が私を試すように細められていた。 適当に好きな曲を上げればきっと、「知らないなぁ。それって、いつの曲?」なんて言うくせに、彼はすっかりおばさんの私を『お姉さん』なんて、持ち上げた。 「生憎とその時代、時代の流行しか知らないの。だからあなたの本気を、聴かせてよ」 本腰入れて聴いてあげるからと言わんばかりに、私は財布の中から諭吉さんを引っ張り出した。 「い、一万っ!?」 ひとときの戯れとしては破格だろう。 思いのほか随分と愉快な気持ちになっていたらしい。 大胆にも恰好付けて見せたけれど、私は金持ちでも何でもない。 朝から晩まで最低賃金で働き通しの、しがないパート勤務だ。 いつだって足は疲れ切って棒状態。 その上に、家に帰っても主婦業がばっちり待っている身の上だ。 貧乏暇なしの私にとって、一万円は戯れに出来るほど軽いものではなかった。 試されている。 彼はそう感じた筈で、私は事実として彼の歌声に期待を寄せていた。 それにいかばかりか彼の未来にも。 「その価値がありそうだから」 酔いしれたように私は微笑んだ。 彼は躊躇いつつも丁重に受け取った。 きっと、『ありがとう』と口を吐き掛けたのだと思う。 けれど彼はそれも躊躇い、代わりに私をそっと見上げた。 「対価は見合ってこそよね」 決して(ほどこ)しではないと、私の方から示した。 彼は頷き、一万円を懐に収めた。 その眼に宿るものは――自信というものだと思う。 「ギター無しでいい?」 アカペラを所望され、私は快く頷いた。 「ん、私が足を止めたのは、あなたの声だったもの」  彼はすくっと、立ち上がった。 そして、少しばかり喉を鳴らすように、発声練習を明後日に向けて試みる。 肩幅ほどに足場の位置を丹念に定め、彼は下腹部に手を当てた。 目を閉じ、すぅっと大きく息を吸って、吐いて、呼吸を整える。 彼が静かに精神統一する様は、(ぬる)かった空気を引き下げていくようだった。 意を決めたように開いた瞳は、前ばかりを見据えていた。 それら前置きの一連の流れが、歌い手としての彼のルーティンなのだと知る。 対価を得ることがプロだと言うなら、たった一人の観客とはいえ彼は全力を尽くさねばならないと心得ていた。 彼がこれまで研鑽して来た全てが今から披露されるのだと思うと、私はそれだけで何か熱いものが込み上げて来る。 まったく、年を取ると嫌になる。 情に脆く、原石の輝きにこうも当てられるのだから。 歌手になりたい。 夢見るだけなら、きっとそれは星の数。 煌びやかな世界の裏には、努力だけでは成し得ない壁がきっとあるのだろう。 上手いだけでは届かない。 おそらく売れるためにはそれがいる。 けれどそんな何かなど、私には見当もつかない。 だけど、そんな霞みがかった『何か』よりも培ってきた努力は嘘をつかない。 彼はこれから持てうる実力の全てを明るみにする。 ぶつけられる本気を前に、ドキドキと心音が高鳴らないはずがなかった。 すぅっと、喧騒が途切れた。 途切れさせたのは彼の集中力だ。 おもむろに発した一音は重低音。 大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計――。 出だしの一番で誰もが早押しできるその歌は、保育園なんかで必ず歌うであろう童謡だった。 老若男女、この歌を知らぬ人を探す方が難しいに違いない。 だが、しかしだ。 正直、この選曲には拍子抜けした。 がっかりしたと言ってもいい。 けれど、彼は歌い手として、歌い手らしい選曲をしたのだと、すぐに私は理解した。 なるほど、そう来るわけね。 声だけで勝負する。 声だけで評価して欲しい。 彼はそう誇示した。 だけど、そんなことは次第にどうでも良くなる。 最早、脳裏に浮かぶのは、歌詞が示すように人一人の一生でしかない。 花嫁を迎えるというくだりが、私は一番好きだった。 幸せそうで、それでいて温もりに溢れている光景が浮かぶのだ。 夫君が細君を心待ちにしていたその様に胸打たれる。 きっと、生半可な代物じゃあこうはならなかった。 天へ祈りを届けようとするような圧巻の歌声だった。 彼は童謡を見事に聖歌に変えたのだった。
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