君の指が星をなぞる

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 カナタの顔が近い。人里離れた夜は暗いけれども、月明りでカナタの整った顔立ちはくっきりと分かる。 「寒くないですか?」  カナタが少し身を寄せると、肌が綺麗なことまではっきりと見えた。乾燥とは無縁のカナタの柔らかそうな唇に視線が行ってしまう。美しい物語を、キラキラした世界を語るカナタの唇。カナタがしゃべるたびに、白く整った歯が見え隠れした。日中、太陽の光に照らされた桜色の唇とは印象の違う口元がどこか大人びて感じた。  気づけば、吸い寄せられていた。唇と唇との距離が徐々に近づいていき、唇同士がついに重なった。秋の夜風で少しだけ冷えたその唇は柔らかくて、何かの果実のようだった。 「なんで、キスしたんですか?」  真剣な瞳でカナタが問いかける。その瞳だけで、何かの魔法にかけられそうだった。ただ、理由を聞かれてもうまく言語化できなかった。 「……分からない……ごめん。嫌だった?」  答えようとしたとき、唇の感触の余韻が残っていて一瞬言葉に詰まった。カナタは小さく首を横に振った。 「嫌じゃないですよ。楓はどうでしたか?」 「どう、って言われても。分からない」  胸の奥から、何かがこみあげてくる。不快なものではないけれど、熱い何かを感じる。けれども、それが何なのかが分からない。 「もう一回しますか?」  カナタが耳元でささやく。脳に直接風があたっているような感覚だった。何も言えないまま頷く。  カナタの頬に手を添える。寝る前だからとおろしている長い髪をカナタの耳にかけるとカナタの吐息が漏れた。目をつぶったカナタともう一度唇を重ねた。  心地よくて、もし魂というものがあるのなら、カナタの魂と同化していくような錯覚に陥りそうだった。唇という体の表面の一部に触れただけで、目に見えない心に触れることが出来たような気がした。 「どうでした?」  こんなオカルティックな発言を、宗教や神の何たるかを分かっている知識人のカナタの前でするのは、ひどく見当違いな言葉になってしまいそうで憚られた。 「嫌いじゃない感覚」  尋ねておいて、カナタは何も言わない。ただ、こちらをじっと見つめている。 「愛しいです」  ふいに手を握られた。言葉としては聞いたことがあるけれども、ピンとこない語彙だった。 「抱きしめてもいいですか?」  うなずくや否や、カナタに抱きしめられた。カナタの鼓動や体温を感じる。心臓の音が大きくて、でもその音は嫌いではなかった。 「カナタ、いい匂いがする」  肩に顔をうずめると、ラベンダーの香りがした。 「その言葉は反則ですよ……」  カナタが顔をあげて、暗闇でも分かるくらいにゆでだこのように真っ赤になって、うるんだ瞳で見つめてくる。可愛いってこういうことを言うのかなとぼんやりと思った。 「楓のことが好きです」 「うん」 「狩りをしているときの一生懸命な姿も、楽しそうな横顔も、ロボットについて語るときに少し早口になる無邪気さも、綺麗で優しい声も、長い睫毛も、琥珀色の瞳も、全部愛しています」 「愛?」  好き、は分かるけれども、愛しているという概念がいまいちよく分からなかった。カナタに対してプラスの感情を抱いているのは確かだけれども、この感情にそもそも名前があるのかもよく分からない。 「楓の恋人になりたいです。楓は、同じことを思ってくれていますか?」  恋。番うことで、子孫を残してきた前時代の本能の一つ。前時代の方法での生殖機能は人間から消失し、性別という概念は本の中にだけ存在する過去の遺物となった。いくらカナタが懐古主義者とはいえ、体は現代人であり前時代の方法での生殖機能が備わっているわけがない。好き、恋、恋人、愛……言語化不可能なそれらを頭の中で反芻したが、答えが見つからなかった。 「ごめん。恋が分からない」  カナタのことは間違いなく、好きか嫌いかで言えば好きの部類であるが、カナタの「好き」は、食べ物やゲームや銃が「好き」であることと意味が違うことはなんとなく分かる。なので、軽々しくカナタに「好き」とは言ってはいけないような気がした。  そもそも、カナタ以外の人間と深くかかわったことがないので、カナタ以外の人間に対して特定の感情を抱いたことがない。友達という言葉の意味すらよく分からないままに、カナタと友達をやっている。  カナタはすべてを悟ったかのように、ため息をついた。とても悲しげな表情をしていた。 「困らせてしまってごめんなさい。ひとつだけわがままを言ってもいいですか?」 「うん」 「一度だけ、楓から抱きしめてください」  カナタを強く抱きしめる。カナタがしゃくりあげるように小刻みに震えているのを腕の中で感じた。10センチ以上背が高いはずのカナタがいつもより小さく見えた。 「カナタ……泣いてるの……?」 「泣いてないです。だから、明日になったら全部元通りです。自分たちは友達。ずっと友達です。それでいいですか?」  蚊の鳴くような声でカナタは答える。カナタを傷つけてしまったことにひどく胸が痛んだ。どうして、自分はこの気持ちを表現する言葉を持っていないんだろう。  
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