それは流れて

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「でも貴方、それにしては浮かない顔してますね。もう働かなくてもいいというのに、まさに今から出勤するかのような渋い顔をしている。いいんですよ、もう安心して。それとも、やっぱりなにか心残りでも?」 「いや……」 「気づかずとも少しの未練が残っていると成仏できませんから、私でよければお聞きしますよ、その未練」  頭にひとつだけ浮かぶ、レンタル屋の言う「未練」、それを言葉にしようとすれば喉が震え声が揺れる。未練なんてものは無いと思っていたのに何故だろう、手が震える。 「母親を独り、残してきてしまった。僕は父を早くに亡くして、母親に育てられてきたから。迷惑も心配もかけてきた。だから必死な就活の末にあの会社に入ることが出来て、母親も安心して喜んでくれてたんだ。でも、こんなふうに先に死んでしまっては……親孝行どころか――」  呼吸が乱れ、止まっている心臓が強く痛んだ。全身に力が入り、嗚咽が止まらない。苦しい。苦しい。これほどに苦しいのに何故―― 「――涙が出ないんだ」  僕に近づき背中をさするレンタル屋は優しくこう告げた。 「貸しますよ」  そうして理解する「レンタル屋」の意味。そうか、なるほど君は。 「涙、出ないでしょう。出ないんですよ、死んじゃうと。だから代わりに貸すんです。貴方の代わりに私が泣くことで感情を肩代わりするんです。どうですか?レンタル、してみませんか?」  過呼吸にも似た荒い呼吸はまだ止まず、僕は優しく微笑むレンタル屋に縋る他なかった。ようやく口にできた言葉で、頼る。こんなふうに人に頼るなんてしたのはいつぶりだろう。そんなことをうっすらと考えた。 「頼む、借りさせてくれ」 「ええ、では始めましょうか」  向かい合って座る僕とレンタル屋。うっすらと暖かい風が吹いて、「泣く」という感情だけを助長する。決して涙は出ずに、ただ泣くという気持ちだけが胸に渦巻き苦しさが増していく。肩で息をする僕の肩に優しく手を置いたレンタル屋は、僕の顔を真っ直ぐと見据え、目の奥を見つめるように焦点を合わせた。ゆっくり、ゆっくりと僕の息に合わせるように呼吸を重ねるレンタル屋は一言「大丈夫」と伝えてくれる。 「私を見ててください。大丈夫、大丈夫」  つう、とレンタル屋の瞳から流れた涙は、僕らを包む柔らかな光によってキラリとひかった。それをきっかけに涙をぽろぽろと零していくレンタル屋は僕の目を見つめたまま離さない。  僕は。  声を上げて泣いている、ような錯覚を味わっていた。不思議だった。涙は一粒も出ていないのに、それでも僕は泣いていた。泣けていた。  途端。  この空間に雨が降る。これも、涙なのだろうか。人肌の温度で振り続ける雨はきっと涙だった。紛れもなく、僕の涙だ。 「落ち着きましたか」 「……ああ、えっと」 「もう大丈夫、ですかね。間接的にも泣けたことで、たとえお母様のことを思う気持ちは残っていても、未練としては残らないと思います。もう、大丈夫ですよ」 「……ありがとう」  レンタル屋は僕から少し距離を置いてまた後ろに手を組んでゆらりと揺れた。落ち着いた呼吸のおかげで鮮明になってくる視界と思考。今のは、一体なんだったんだろうか。 「あ、そう言えばお代は――」 「ああ、要らないですよ。あっ、それならハンカチくれます?」  そう笑顔で話すレンタル屋に、ポケットからハンカチを差し出せばまだ頬に残っていた涙を拭って自分のポケットにしまい込んだ。そんなのがお代で良いのかと再度聞くも「要らない」の一点張りで。 「あっ、それと」  何かを言い残していたのか再び口を開いたレンタル屋は言う。 「気持ちよく成仏してくれれば、それでいいです」  言い方よ、とは思ったがそれがレンタル屋の優しさなのだと分かったから何も言わなかった。ただその優しさを受け入れて立ち上がる。
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