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プロローグ 旅のはじまりはビジネスクラス
抜けるような青空はどこまでも爽やかだ。吸い込まれそうなほど澄んでいる。
空を背負った海はどこまでも続く。青く染めた絞りのような細波が、無限に広がっている。
目の前では、多数のヨットが停泊しているハーバーが景色に活気を添えており、カモメが上空を飛んでいたり、マストで羽根を休めていたりする。
「いい天気~! これはもう、ホエールウォッチング日和じゃない?」
泉はクフフ、と多少気味の悪い笑いを漏らしながら、非日常的な空気を全身に浴びていた。
周囲には乗船を待つ人々が列を成す――その大半は日本人ではない。白人、黒人、ヒスパニック、アジア……様々な人種が、あと少しでやって来るイベントを今か今かと待ちかまえていた。
これから大型のヨットに乗り込み、沖へ出てクジラやイルカを探すセイリング――ホエールウォッチングだ。
いつかは体験してみたいと思っていた。それがようやく叶うのだ。楽しみで仕方がない。
泉は今、アメリカ・サンディエゴにいた。
姉の梢がアメリカ人実業家と結婚してサンディエゴで暮らしており、遊びに来ないかと誘われたのだ。初めは躊躇したものの、姉が旅費は負担するから是非にと説得され、一人太平洋を横断してやって来た。
航空券の手配などもすべて梢がしてくれた。しかも、座席はなんとビジネスクラス。さすがはセレブ……やることが違うと、ありがたく贅沢をさせてもらった。
搭乗チケットに印刷された『C』の文字を見て「なんでビジネスクラスはBじゃなくてCなんだろう……」と思ったけれど、エコノミーだって『E』ではなく『Y』なのだから、何か事情があるのだろう。そんなことはどうでもいい。
優先的に搭乗させてもらい広々とした座席に着くなり、CAが恭しく跪いたのには仰天した。
『菅原様、本日はご搭乗、まことにありがとうございます。本日、菅原様を担当させていただく、鈴原と申します。何かございましたら、遠慮なくお申しつけくださいませ。まずはお飲みものはいかがでしょうか?』
エコノミーでは聞いたことのない口上に、泉はひたすら恐縮するばかりだった。
倒せばフルフラットになるシート、スリッパ、化粧品ブランドのアメニティ、クロスを敷いたテーブルの上に一品ずつサーブされるコース料理、タッチパネルで注文すればいつでも飲食できる軽食やワインなど。見るもの食べるものをことごとく写真に収めている辺りが庶民だなぁ……と思いつつ、一生に一度あるかないかのセレブ気分を堪能した。
姉によれば、ファーストクラスになるとパジャマまで用意されているというのだから、まさに『空の旅』と言うに相応しいと、泉は感心したのだ。
『今この時が、旅の一番の盛り上がりポイントかもしれない……』
徹頭徹尾、興奮を抑えきれないまま、行きの旅を終えたのだった。
姉夫婦に空港まで迎えに来てもらい、そのまま彼らの自宅へ行くと、あまりの大豪邸にクラクラした。バックヤードにはプールがあるし、おまけに広々とした芝生には時折シカやウッドチャックなどがやって来る。
そんな広大な敷地内で繰り広げられるバーベキューの豪快さと美味しさときたらもう!
『イズミのために、コウベビーフを取り寄せたよ!』
巨漢の義兄・スティーブが何キロもある神戸牛を担いで現れ、ビールを片手にバーベキューソースを肉塊に塗りたくりながら、どんどんグリルしていく。
セレブなはずなのに、そうとは思えないワイルドで陽気な調理の光景を見て、
『あー、もったいない、塩コショウとわさびで食べたいぞー』
なんて思ったことは内緒だ。
梢は初め、泉を観光に連れて行くつもりだったらしいが、何せ姉は現在妊娠中。連れ回すのも心配だし、この家付近だけでも物珍しいものが多くて飽きないし、何より、姉にじっくり話を聞いてもらいたかったので、数日間、この大邸宅でのんびりさせてもらったり、夕食には高級なレストランでのフルコース料理も堪能させてもらった。
そして帰国直前は、一人でサンディエゴ観光を楽しむことにしたのだった。
ラホヤビーチ、サンディエゴ動物園、ミッドウェイ博物館など、有名どころを一通り回り、最後に選んだのがホエールウォッチングだった。
これが終われば明日は帰国の途につく。現実逃避も終了だ。就職活動もしなければならないが、そんなことは帰ってから考えればいい。
今はとにかく、クジラとイルカ! なのだ。
ヨットが到着し、乗り込むと、クルーからの説明があった。
船は木造の中型帆船で、乗客は五十人弱ほどだろうか。家族連れやカップルが多い。泉は一人旅なので、ひとまず適当な場所に滑り込んで座る。
出港して三十分も経つと、周りは空と海だけになってしまった。
青い空、青い海――この広大な景色を見ていると、人間ってちっぽけだなぁ……なんて思う。
『イルカがいるわよ!』
誰かが英語で叫んだので、思わず人垣の間から顔を出すようにして海を見ると、何頭ものイルカが船と併走するように泳いでいる。
(わぁ……イルカだぁ。水族館以外で初めて見たぁ……)
調教しているわけではないのに、船と並んで泳いでくれるとは、なんていい子たちなんだろうと、泉はひたすら感動しながらスマートフォンで動画を撮っていた。
すると――
「ねぇねぇ、調教してるわけじゃないのに、どうしてイルカって船と併走するの?」
(え、日本語……?)
たった今、泉が考えていたことを、しかも日本語で口にした女性がいる。思わず弾かれたように隣を見た。
大学生風の女性が、彼女の隣に立っている男性に尋ねていた。
「あぁ……あれは、船が起こす波に乗って泳いでるんだよ。そうすればイルカは泳ぐエネルギーを節約できるんだ。人間に愛想を振りまいてるわけじゃない。ただずる賢いだけだ」
長身の男性が、笑って言っている。
(ちょっとぉ……興醒め……ロマンも何もあったものじゃないわ……)
そんな豆知識、聞きたくなかった。「海の住人が陸の住人に挨拶してくれてるんだよ」くらい言ってほしかったのに。
はぁ、と大きくため息をつくと、その音が聞こえてしまったのか、男性がこちらを見て、そして目を大きく見開いた。
「君は……」
切れ長のするどい目つきで捉えられ、泉はたじろぐ。しかし、彼の顔をよくよく見てみれば――
「……あ」
確かに、見覚えのある顔だったのだ。
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