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第9話 きみは私の天使
「佑、早くご飯食べちゃって~!」
「もうたべたよ。ごちそうさま!」
「わ、ちゃんと自分でお皿をキッチンに運べてえらいね!」
「ママ、ほいくえんのじゅんびもできたよ。はみがきするね」
「佑はほんとえらい! ママ、助かる~」
泉は梳かした髪を一つにくくり、簡単にメイクをした。
歯磨きが終わった佑に荷物を持たせ、玄関を出た。佑にヘルメットをかぶせてから自転車の後ろに乗せ、シートベルトを留める。
「よし、出発進行!」
「しんこ~!」
自転車を漕ぎ出しながら、周囲にいたご近所さんに挨拶をする。
「おはようございま~す」
「菅原さん、おはよう。佑くん、行ってらっしゃい」
「いってきまぁす」
自宅から保育園は自転車で五分ほどだ。今日も何事もなく到着する。
「おはようございますー。今日もよろしくお願いします-」
「佑くん、おはよう」
「みなせんせい、おはよう!」
「じゃあ佑、また後でね」
「はーい、ママ、バイバーイ」
「バイバーイ」
教室に入っていく可愛い我が子の後ろ姿を見送った後、泉はふたたび自転車にまたがった。
そしてそこからさらに十分ほど走らせた建物の駐輪場に、自転車を停める。
「今日も頑張るぞ」
泉は握りこぶしをぎゅっと握って、自分を鼓舞するのだった。
五年前、サンディエゴから帰国した泉は、就活をするか何か資格を取るか悩んでいた。
就職したのは歯科医院だったけれど、泉は元々、短大の食物栄養学科出身で、実は調理師免許を持っている。
今度はそれを生かした仕事をするのもいいかもしれない。
両親の遺産と自分の貯金があるので、数年は働かなくても生活できる。
住んでいる家も両親が建てた一戸建てなので、家賃を払う必要もない。
どうせなら、再就職する前にやっておきたいことをしようと、まず断捨離をした。
悠希との想い出の品を捨てたり、庭の木を剪定したり、物置の中身を捨てたり。
そして映画を観たり、一日中図書館で過ごしたり、料理教室に通ったり。
今度姉のところへ遊びに行くことを考え、オンライン英会話も習い始めた。
そうして一ヶ月半ほど経った頃、泉は身体の不調に見舞われた。やたら眠いし、気持ちが悪い。便秘もしている。
――そういえば、生理も来ていない。
「……まさかね」
不妊と診断された自分が妊娠するはずがない。でも生理不順を甘く見てはいけないと、婦人科に行くことにした。
不妊の診断を下した医院ではなく、別のクリニックだ。悠希のことを思い出してしまうので、同じところには行きたくなかった。
母が梢や自分を産んだ産婦人科を、訪ねることにした。
「――妊娠していますよ」
その言葉を聞いた瞬間、泉は自分の耳を疑った。
「妊娠……ですか?」
「はい、妊娠八週、月にすると三ヶ月です。予定日は……十二月二十日頃になります」
「本当ですか……?」
本当ですよ、と、エコーのプリントを差し出された。
落花生のさやに小さな粒が四つついたようなシルエット――ようやくうっすらと赤ちゃんの形になりつつあるのが分かるくらいだけど、確かにいた。
心音もしっかり聞かせてもらった。
(私……妊娠できた……)
驚いたけれど、それより喜びの方が大きかった。
「菅原さんは……産む、ということでよろしいですか?」
医師にそう問われ、泉は心で葛藤した。
あの濃密な一夜で、たった一晩で、妊娠してしまった。
蒼佑とはあれから一度も会っていない、そもそも連絡先なんて知らないのだけど。
だから父親がいない子どもを産んで育てることになる。しかも頼れる人はほぼいない。姉はアメリカだし。
でも、これは奇跡だ。
今ここで産む決断をしなければ、もう二度と、子どもを授かる機会はないかもしれないのだ。
産まない選択肢はなかった。
(せっかく私のところに来てくれたんだもの。一生懸命育てなくちゃ)
泉はお腹を擦りながら「産みます!」と、力強く答えたのだった。
それからはお腹の子のために生きた。
栄養摂取、運動など、自分とお腹の子のためになることならなんでもやった。
姉に報告すれば「私たちお互いの子ども、同じ年じゃない! 嬉しい!」と、喜んでくれた。
梢は通販で、ありとあらゆる育児グッズを注文して送ってくれた。
「そばにいてあげられないから、せめてこれくらいさせて」
そう言われれば、受け取らずにはいられなかった。
学生時代からの友人も「何かあれば呼んでね」と、言ってくれて。
つわりの時期は本当につらかったけれど、それを越えればだいぶ動けるようになったし、日に日に大きくなるお腹と、活発になっていく子どもの動きに、だんだんと母親になるのだという覚悟が出てきた。
臨月ともなると、お腹が重くてしんどくて、
「は、早く出てこないかしら……」
なんて思うこともしばしばあった。
出てきてからの方が大変なのにと、分かってはいても。
そして――三十九週を迎えた頃、陣痛が起こり。
妊娠中、こまめに歩いたりと健康的に生活していたせいか、初産とは思えないほどの安産で、赤ちゃんは生まれた。
二八〇〇グラムの男の子だった。
初めて抱っこした我が子は、サルみたいなのにとても可愛くて、ちっちゃくて、でも泣き声は力強くて。
小さくてもちゃんと人間で……この子が、この何十週か自分のお腹の中で成長してきたのかと思うと、生命の奇跡を感じた。
「可愛い……私の赤ちゃん……」
泉は泣きながら、子どもに初乳をあげたのだった。
出産して一番初めに泉の前に立ちはだかったのは、名づけだ。
「どうしよう……」
自分の字から一文字……なんていうのもしづらいし。
名づけの本を買って見てみても、ピンと来ない。
考えに考えた末、泉は父親から一文字をもらうことにした。
いずれ、この子が大きくなって父親のことを知りたがった時、ありとあらゆる面で、父親とのつながりがまったくないと知ったらどう思うか。
あんな人のことは思い出したくもない――なんて思うのは、ただの泉のエゴかもしれない。
そう考えた時、名前くらいは父親に関係したものでも許されるのではないかと。
だから『佑』と名づけた。
将来、本当の父親と会う可能性は限りなくゼロに近いだろうから故の冒険だ。
そうして父親から名前をもらった男の子は、健康ですくすくと育った。
けれど、ひとつ困ったことがある。
年を重ねるごとに、佑は父親に似てきたのだ。
四歳になった今では、ミニ蒼佑と言っても過言ではないほどそっくりだ。
とはいえ、五年も経てば、泉もだんだんと蒼佑の顔を忘れつつあったので、あくまで薄れた記憶の中での印象ではあったのだが。
シングルマザーとして一人で育ててきたためか、佑はとても聞き分けがいい。幼子でありながら、常に母親のことを考えてくれている。
天使のように慈悲深くて可愛い子だ。
可愛いというのは、親の欲目でもなんでもない。
目鼻立ちがはっきりしている佑は、保育園でも女の子に人気があるらしい。
蒼佑の子だけあって、そういうところも実によく似ている。
「ぼく、ママがいちばんだーいすき!」
そう言って抱きついてくれる我が子は、天使かな、と思う。
まだ四歳の子に気を使わせてしまって申し訳ないと思う反面、とてもいい子に育ってくれたと、泉は日々感謝をしていた。
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