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第10話 男なんてもうこりごりなので、下心は仕事をしません。
家事代行サービス『ナッツハンド』の事務所は、泉の自宅から直で向かえば七分ほどで着く。
保育園経由だと少々遠回りになるが、大した負担ではない。
「おはようございます、夏子さん」
「おはよう、泉ちゃん」
清潔感を大切にした事務所は日当たりもよく、業務柄、隅々までよく掃除されている。
「今週も変更なしで大丈夫でしょうか」
「泉ちゃんは、いつものように岸本様の担当です。よろしくね」
「了解です。じゃ、行ってきます」
ものの五分で、泉は事務所を後にした。
佑を妊娠してから、友人の紹介でナッツハンドに籍を置かせてもらうことになった。
社長の海堂夏子のはからいで、妊娠中は事務所の仕事をさせてもらい、出産して一年後、佑を保育園に預け始めると同時に、本格的に家事代行業のシフトを入れてもらうことになった。
初めは単発で一、二時間程度、慣れたら三時間……と、段階的に時間を増やしていき、佑が二歳を迎えた頃にはすっかり要領を得て、手早く丁寧にこなせるようになった。
そうして真面目に仕事に向き合ってきた泉に、指名で定期サービスの話が来たのは、二年ほど経ったある日のことだった。
以前何度か単発で家事をした家から、平日五日間の専属契約を持ちかけられたのだ。
人気小説家の岸本了悟だった。泉の仕事振りを気に入ってくれた末の打診だった。
初めて訪問した時にも聞いたことだが、岸本は原稿中は驚異の集中力で没頭してしまうので、家事はもちろんのこと、食べることさえ忘れてしまうらしい。
それを担当編集者に咎められ、いっそ家政婦を雇ったらどうかと勧められたそうだ。
仕事内容は、家事全般に加え、金曜日には土日の食事の作り置きを準備しておく、というものだ。
夏子からも岸本からも、いっそ会社経由ではなく個人契約にしたらどうかと勧められた。
しかし夏子から受けた恩を、仇で返すわけにはいかない。
泉はあくまでもナッツハンドの社員でいたいと、夏子に伝えた。
そんなこんなで、泉は岸本家の専属担当となったのだった。
月曜日の朝だけは、その週の仕事内容の擦り合わせのため事務所に顔を出すが、残りの四日間は直接岸本の家を訪れることになっている。
今日は月曜日なので、朝、事務所に寄ってから、岸本家へ向かった。
作家・岸本了悟のことは知っていた。
過去に著作を数冊読んだ程度のレベルでしかないが、何しろ彼は日本で一番権威のある文学賞を獲った人気作家なのだ。
メインジャンルはミステリーだが、それだけに留まらず、社会派ドラマの脚本なんかも手がけている。
彼の家で仕事をするようになってから、未読の作品を何冊か読んだ。
仕事と育児でなかなか読書の時間など取れない中、少しずつではあるが、読み進めた。
シンプルな文体なのに、深く、いろいろ考えさせられる作品が多い。
感想を伝えたところ、
「わざわざ買って読んでくれたの? 言ってくれればあげたのに」
と、返ってきた。
ナッツハンドのスタッフの中には、
「気に入られてるなら、玉の輿狙っちゃえ!」
なんて言ってくる人もいたけれど、泉にはそんな気サラサラなかった。
もう男なんてこりごり。いや、息子以外の男は、というべきか。
自分には佑さえいてくれればいいのだ。
だから、岸本に対してなんの下心も持っていない。
彼はおそらく、泉のそういう面も買ってくれているのだと思う。
「岸本さん、おはようございます」
一応合鍵は持たされているけれど、念のため、インターフォンのベルを鳴らしてから入ることにしている。
「おはよう、泉さん。今日もよろしく頼むね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。食事ですが、何かリクエストありますか?」
「そうだなぁ……お昼は手で食べられるものがいいな。サンドイッチとか。夜は魚系。泉さんのご飯、何食べても美味しいから毎日楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます。今日も一生懸命作りますね」
リクエストを覚えた泉はまず、洗濯機を回した。
そして彼が週末に溜め込んだ食器類を洗う。食洗機があるので、それを使うのだが、土曜日に使った食器もあるので予洗い必須だ。
その後は掃除をする。掃除機は使わず、フローリングワイパーと雑巾での拭き掃除。
岸本が別室で仕事をしているからだ。
実はここは彼の仕事場のマンションだ。自宅は別にある。
でも月の半分以上はこちらにいるので、一通りの家電は置いてあり、泉も助かっている。
掃除が終わると、スーパーに買い出しだ。食事の材料を二日分ほど買う。今日は魚をリクエストされたので、明日は肉になるだろうと、牛と豚の細切れ肉を選んだ。
岸本は穏やかでインテリ味あふれる見た目をしているが、味覚は割と子どもに近い。本人も「お子様舌なのは自覚しているよ」という。
だからサンドイッチにはマスタードは塗らないし、魚も極力骨がなく身離れがいいものを選ぶ。
帰宅すると、洗濯が乾燥まで終わっていたので、取り出してたたむ。
そして昼食の準備だ。
サンドイッチは刻んだピクルスを入れた卵サンドにBLT+アボカドサンドにした。食べやすいように、ワックスペーパーで包んでから半分に切る。
野菜たっぷりのコンソメスープは、夕食にも出せるよう多めに作っておいた。
調理師免許を持っているとは言っても、こういう仕事にはずっと縁がなかったので、家事代行に就く前に、何度か料理教室に通った。
あっという間に勘を取り戻し、今こうして他人に「美味しい」と言ってもらえる。それが嬉しかった。
昼食を書斎に運び、泉も自分の昼食を食べる。
契約で、岸本に作ったものと同じものを食べていいことになっているので、サンドイッチの残りをいただいた。
午後はお風呂とトイレ、玄関周りを掃除する。
そして最後の仕事は、夕食作りだ。
五時には佑を迎えに行かなければならないので、四時半には完成させておく。
結局鮭の南蛮漬けにした。パプリカや玉ねぎもたっぷりと甘酢に漬けておく。
それにお昼のスープと、ミックスビーンズとオリーブを盛ったサラダ。
四時過ぎには出来上がったので、岸本に声をかける。
「お夕食の準備も終わっていますので」
「ありがとう。……あ、泉さんちょっといい?」
岸本が部屋から出てきて、泉を呼び止めた。
「なんでしょう?」
「今週末の土曜日、何か予定ある?」
予定を聞かれるなんて珍しいなと思いながらも、スマートフォンのカレンダーを開く。
「今のところ、特に予定はありませんが……」
「よかった。実は僕、今度結婚することになってね」
「わぁ、ご結婚ですか! おめでとうございます!」
突然の報告に、泉は目を丸くした。
これまで、岸本のプライベートについて聞いたこともないので、つきあっている女性の有無も知らなかった。
彼の年齢が三十四歳だということを、かろうじて知っているくらいだ。
泉が見る限り、少なくとも仕事場には女性の気配を感じさせるようなものはまったくなかった。
自宅へはごくごくたまにしか行かないので、よく覚えていない。
だから婚約者がいたとは驚きだ。
でも、素直におめでたいと思った。
「親しい人たちを呼んで、婚約者のお披露目パーティをしようと思って。パーティとは言っても、ただの食事会みたいなものなんだ。よかったら、泉さんも来てくれない? もちろん、佑くんも一緒に」
「え……でも、いいんですか? 私なんかがご招待受けて」
「だって僕が結婚したら、君の仕事にも影響あるじゃない。僕の奥さんになる人、家事あまり得意じゃないみたいだから、きっと泉さんにお世話になると思うんだよね。だから、彼女と顔合わせしといてもらいたいんだ」
岸本が言うには、婚約者の女性は資産家のお嬢さんで、今まで家事とは無縁に生きてきたそうだ。
だから家事代行サービスは、今後も使う気まんまんなんだとか。
「そういうことなんですね。分かりました。喜んで伺わせていただきます。子どもにもお気遣い、ありがとうございます」
「友達の子どもも来るし、仲良く遊べると思うんだ。だから、週末空けておいてね。時間とか決まったら教えるから」
「はい、よろしくお願いいたします。楽しみにしております」
泉はカレンダーアプリに予定を入れてから挨拶をし、岸本邸を後にした。
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