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第11話 再会
***
岸本了悟の自宅は、仕事場のマンションから徒歩十分ほど。同じブロックにある他の家の倍の大きさはある。泉からしたらかなりの豪邸だ。
停まっている車も高級国産車で、ピカピカに磨かれていた。ガレージには他にも自動車が停まっていて、おそらくそれは他の客のものだろう。
泉は何度かこちらで仕事をしたことがあるが、仕事場よりも広いだけに少々重労働。でもいつもそれほど汚れていないので、その分助かっている。
「佑、ここは人のおうちだから、走り回ったり、勝手に家のものを触ったりしちゃダメよ? それからちゃんと他の人にご挨拶もすること。分かった?」
「はい!」
岸本邸の前で言い聞かせると、佑は背筋を伸ばして、手を上げた。
『かしこまった集まりじゃないから、服装はラフでいいからね』
岸本はそう言ってくれたけれど、さすがに普段着というわけにはいかない。
泉はちょっとお洒落なワンピースに、髪は緩く巻いてハーフアップにした。
佑はワイシャツにハーフパンツに靴下――梢が「七五三用に」と贈ってくれたスーツ一式から抜き出して着せた。念のためネクタイと、着替え一式もバッグに忍ばせてある。
泉はベルを押した。
『泉さん、そのままリビングまで入ってきて』
岸本の声で返ってきたので、玄関まで来ると、そっとドアを開けた。
「お邪魔します」
「おじゃまします」
母の真似をしながらも、キョロキョロする佑が可愛いと、泉は口元を緩ませる。
泉は勝手知ったる、といった様子で迷うことなくリビングへ直行した。
中へ入ると、すでに何人かがいて、岸本が客人をもてなしていた。
「あぁ、泉さん。よく来てくれたね」
彼がこちらへ来て、泉の前に立つ。
「本日は親子ともどもお招きいただき、ありがとうございます。こちら、息子の佑です」
「こんにちは。すがわらゆうです」
佑はぺこりと頭を下げた。岸本はその場でしゃがみ、佑と目線を合わせてくれた。
「佑くん、初めまして。僕はね、お母さんのお友達の岸本了悟といいます。『りょうくん』って呼んでくれるかな?」
「りょう……くん?」
佑は戸惑いながら泉を見上げた。そんな気安い呼び方をしてもいいのかと尋ねているようだ。
泉はフッと笑う。
「岸本さんがそう呼んでほしいんだって。いいよ」
「分かった。……りょうくん。ほいくえんのおともだちと同じなまえ」
「そうなんだ? 偶然だね。今日ね、佑くんと同い年くらいの子たちがいるんだよ。ほら、もう庭で遊んでるだろう?」
岸本がリビングの掃き出し窓の向こうを指差した。
そこには、彼が用意してくれたであろう、子ども用のおもちゃが置かれていた。
簡易砂場に砂遊び用の道具、子ども用キッチンセット、小さな滑り台まである。
(わ……すごい)
普段は庭にあんなものはないので、この日のために用意してくれたのだろう。
しかし、これなら確かに佑は普段着でよかったかもしれない。
帰ったらシャツとハーフパンツは即クリーニング行きだなぁと、泉は心の中で苦笑い。
さらにはリビングにも、ブロックやパズルなどが用意されていた。
庭の遊び場には、すでに二人の子どもがいた。男の子と女の子が一人ずつ。
「僕の担当編集さんたちのお子さんなんだ。優しい子たちだから、佑くんもすぐ仲よくなれるよ。……小泉さん、坂崎さん」
岸本が先ほどもてなしていた客人二人に手招きをする。
「この方、僕の家の家事一切をしてくれている菅原さん。泉さん、この女性は参堂館の小泉さん、こちらの男性が光陽台出版の坂崎さん。泉さん、会ったことあったっけ?」
参堂館も光陽台出版も、有名出版社だ。岸本はどちらの社からも人気シリーズを出していた。
「僕はお会いしたことあります。岸本先生のサイン本を受け取りに来た時に、ちょうどお仕事されていましたよね」
「あ、はい。その節は、私にもお菓子をいただきまして、ありがとうございました」
男性編集者の坂崎が岸本のサイン入り新刊数百冊を車で取りに来たことがあったのだが、玄関で応対したのが泉だった。
その時に手土産のお菓子をおすそわけしてもらったのだ。
「で、この子が泉さんのお子さんの佑くん。雫ちゃんたちと遊ばせてもかまわないよね?」
「もちろんです」
みんなで庭へ行き子どもたちを引き会わせれば、あっという間に佑はふたりの場に溶け込んだ。
楽しそうに砂場で遊び出した姿を見て、泉はホッとする。
「岸本さん、何かお手伝いしましょうか?」
「泉さんは、今日はお客様だから動かなくていいよ。あと、このタルトもありがとう」
手土産に、ミニタルトのセットを買って持参した。生ケーキだと日持ちがしないし、こういう時には少々不便だ。
その点、このミニタルトは多少保存が利くし、個包装なので誰かが持ち帰ってもいい。
リビングと続き部屋になっているダイニングには十人ほど座れるダイニングセットがあり、テーブルにはすでに料理がたくさん並んでいる。
「実はね、道路が事故渋滞しちゃってるみたいで、僕の婚約者は少し遅れるんだって。申し訳ない。飲み物、なんでも飲んでていいから」
「そうなんですね。じゃあ私、子どもたちを見ていますね」
玄関から靴を持ってきて、リビングから外に出る。
泉は傍らに置かれた椅子に座り、子どもたちが遊んでいるのを見ていた。
その間にも何人か岸本の友人が来て、都度紹介されたので挨拶をする。
「佑、楽しい?」
「うん、楽しい!」
一緒に遊んでくれている二人は、男の子が五歳の拓実、女の子が佑と同い年の雫といった。
「ゆうくん、シャベルでここ掘って」
「うん、わかった」
雫が指差した砂地を、佑が手にしたシャベルで掘っていく。
(砂まみれだなぁ……着替え持ってきてよかった)
でも二人と仲よさそうにしてくれて、泉はホッと胸を撫で下ろした。
その時、玄関の方が賑やかになった。
「――了悟くん、遅くなってごめんね~」
「君たちが事故に巻き込まれなくてよかったよ。……兄さんは?」
「お兄ちゃんは、そこのコインパーキングに車停めに行ってる」
どうやら婚約者の女性が到着したようだ。
「佑、ママちょっと挨拶してくるから、遊んでて」
「はーい」
泉は窓の外で簡単に身体を払ってから靴を脱いだ。
さすがに主賓には外からの挨拶ではダメだろうと、室内に戻る。
「あぁ泉さん。やっと来ましたよ。こちら僕の婚約者の、九条英美里さん」
(……え)
その名前を聞いた瞬間、脳髄がブルッと震えた。
目の前の女性に恐る恐る焦点を合わせると、相手も目を大きく見開いている。
「……泉、さん?」
「……え、みり……ちゃん」
五年前に一度だけ会った顔――記憶は薄らいでいたけれど、一瞬にして過去に戻ったように、色鮮やかになった。
「え……君たち、知り合いだったの?」
岸本が目を瞬かせている。
「あ……はい、少し、だけ」
口元が強ばって上手く言葉が出せない。
「!」
次の瞬間、泉の全身が総毛立った。
『――兄さんは?』
『――そこのコインパーキングに車停めに行ってる』
確か二人はこんな会話を交わしていなかったか。
(ま、まさか……)
泉は思わずリビングの外を振り返る。
佑はこちらを気にもせず、楽しそうに遊んでいる。
(どうしよう……)
泉の鼓動が大きく波打ったように強くなる。
「――岸本、頼まれてたワイン、これでよかったか?」
「……っ」
とても、懐かしかった。
最後に聞いたのは、他の誰かに英語で囁いた愛の言葉。
掠れていて、低くて、少し苦い声音だった。
今、泉の耳に飛び込んできたのは、サンディエゴのヨットの上で聞いたのと同じだ。
張りがあって、落ち着いていて、やっぱり低くて。
その姿を見た瞬間、泉の胸はぎゅっと締めつけられた。
同時に、彼が泉を捉えた。
「……泉、か?」
英美里同様、驚きに目を剥く姿は、さすが兄妹だと思った。
「蒼佑……さん」
(あぁ……変わってない)
――泉の中で五年間止まっていた何かが、再び動き始めたが、彼女自身はそれに気づいていなかった。
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