第13話 今日のお仕事はいつもより難しく。

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第13話 今日のお仕事はいつもより難しく。

   ***     「はぁ……」  泉は玄関ドアの前で大きなため息を吐き出した。  この家の主と、どんな顔をして会ったらいいのだろうか。  土曜日、逃げるように岸本邸から帰った後、不安げに泉を見る佑に「ごめんね」と謝った。 『あのひと……ママのともだちだったの?』 『昔の知り合いなの。……ちょっとケンカしちゃった』 『じゃあ、なかなおりしなくちゃだね』 『仲直り?』 『ぼくも、ほいくえんでおともだちとケンカしたら、なかなおりするんだよ? ママもだよね?』  つぶらな瞳で見つめられれば「あんな男と二度と会いたくないわよ」なんて言えなくて。 『そうね……今度会ったら、仲直りするね』  苦笑いで答えて、その場は収まった。  そして月曜日――  戦々恐々としながら事務所へ向かうと、 『今週もいつもどおり、岸本様の仕事場へ』  と、何事もなかったかのように指示された。 『あの……岸本様から、何か言われませんでしたか?』 『? 特には伺ってないわよ? 何か問題でも?』 『あ、いえ……言われてないのならいいです』  この上なく憂鬱な気持ちを抱えたまま、泉は岸本のマンションへ向かったのだった。  扉をじっと見つめたまま数分――そろそろ時間だ。 「よし! うじうじしてても仕方がない! 行きますか!」  自分を鼓舞し、泉はインターフォンのベルを鳴らし、鍵を使ってドアを開けた。 「岸本さん、おはようございまーす……」  心なしかいつもより声が頼りなくなってしまうのは、仕方がないと思うのだ。  ソロリソロリと廊下を進み、リビングのドアを開いた。  その刹那――  足下に何かが絡みついた。 「え? 何!?」  毛玉がいた。毛玉が足下から泉の膝上に飛びかかってきた。 「え、え、何?」  よくよく見れば、その毛玉は生き物だ。それも犬。  つやつやした毛並みの、シェットランド・シープドッグが、ふさふさの尻尾をブンブンと振りながら、泉に絡んできていた。 「Wait!(待て!)」  女性の声が聞こえるのと同時に、犬が動くのをやめた。 「Down(伏せ)」  伏せをした犬は、尻尾を振ったまま、何かを期待しているかのように目を輝かせてこちらを見ている。 「Good girl~(いい子ね~)」  何が起こったのかよく把握できていない泉をよそに、英美里がシェルティを撫でて、エサをあげていた。 「英美里……ちゃん?」 「おはよう、泉さん!」 「おはよう……。その子……英美里ちゃんのワンちゃん?」 「えーっと……正確に言えば、お兄ちゃんの、かな。可愛いでしょ?」 「え、えぇ……可愛いね」  ふと視線を移すと、キッチンから岸本と、それから蒼佑が連れ立って出てきた。  途端、泉の顔が強張った。 「岸本さん……一体、どういうこと、ですか?」  蒼佑よりも英美里よりも、話が早そうな岸本に疑問を投げかける。 「ん~、一昨日、九条たちから事情を聞いたよ。その上で、君たちには話し合いが必要だと、僕と英美里が判断した」 「……」  これ以上、何を話し合う必要があるというのか。  泉の表情はさらに硬くなる。 「僕はね、この九条とは中学の時からの親友なんだ。しかも義理の兄弟にもなる。まぁ、デリカシーが少々欠落しているのは、この男の悪いところだけど。それでも無実の罪でこいつがつまらない人生を送ることになるのは、それは気の毒だと思ってね」 「どういう……ことですか?」 「さて、ここからは自分で名誉挽回しなよ、九条」  岸本が肩をすくめて。それからバトンタッチをするように、蒼佑の肩を叩いた。 「それじゃあ、私たちは行こっか、了悟くん」 「そうだね。僕たちは久しぶりにデートに行くことにするよ」 「お兄ちゃん、リカ(・・)は任せといて! Come on, Lica!(リカ、おいで!)」 「!!」 (リカ? 今、リカって言った!?)  泉は目を剥いて英美里を見た。 「話はお兄ちゃんから聞いてね、泉さん」  英美里はニヤニヤしながら、ちぎれんばかりに尻尾を振るシェルティにリードをつける。そして二人はリビングのドアに手をかけた。 「あ、泉さん。今日の君の仕事は、九条と十二分に話し合うことだから。ちゃんと報酬は支払うので、逃げたりしないように」  岸本は泉に釘を刺すように、人差し指を立てた。  二人と一匹は、軽い足取りで楽しそうにマンションを出ていった。  嵐が過ぎ去った後のように、室内はシンとした静寂に包まれる。 「……」 「……」  沈黙がたっぷりと時を吸い込んで。  気まずげなため息が泉の口から漏れたのは、それから少し経ってからだ。 「……一体どういうこと?」 「……英美里の言うとおり、リカはあのシェルティのことだ」 「犬? 犬にあんな甘い言葉かけてたの?」 「あの時はまだ生後半年くらいで、甘えん坊だったから、毎朝ベッドに乗ってきてた。いつも俺の顔を舐めたり頭の周りで遊んだりしていたから……君の感触を、どうやらリカだと勘違いしていたんだと思う。ちなみに、これまで『リカ』という名前の女性とつきあったことはない」  英語で話していたのは、アメリカのトレーナーにしつけを依頼していたので、命令などはすべて英語だったという。  泉は呆然としたまま、固まっていた。 (私は犬相手に絶望していたというの……?)  なんてマヌケなのだろう。 「そんな……」 「せめて、俺が起きるまで待っていてくれたらよかったんだ」  今度は蒼佑がため息をついた。勘違いしたのを責められている気がして、居心地が悪い。  泉の中では今、突貫工事が繰り広げられている。  これまで抱いていた蒼佑への感情の半分を分解し、別な形へ組み立て直しているのだ。  目を閉じて、大きく深呼吸。  細く長い息を吐き出し、そして。 「分かりました。今まで『蒼佑さんは私を他の女と間違えた』と思い込んできたことは、今日で忘れます」 「泉……」  蒼佑の表情が明るくなった。 「でも」  一方、泉の表情は未だ硬いままだ。 「――でも仮に、あの時、私が去らずにいて……すぐに誤解を解いてくれた蒼佑さんと関係と続けていたとしても。妊娠が判明した途端、どうせあなたは『嘘をついた』だの『騙した』だのと言うに決まってるのよ。……結局、あの朝のことを誤解しようがしまいが、あなたと私の関係はすぐに終わっていたの。……今となんら変わらない」 「そんなことは……!」  きっぱりと言い放つ泉に、蒼佑はたじろぐ。彼にとって、予想外の言葉が返ってきたからだろう。 「確かにあの子の父親は蒼佑さんよ。あれだけ顔がそっくりなんだもの。今さらごまかしたりしない。でも、父親になってくれなんて思わないし、父親面されても迷惑なの」 「取りつく島もないわけか」 「蒼佑さんの失言グセが、あの子に移ったら困るもの」  わざと嫌味を言えば、蒼佑は一瞬、不快そうに眉を寄せた。が、すぐに話題を切り替えた。 「あの子……『ゆう』だよな。どういう漢字を書くのか岸本に聞いたけど……俺の名前から取った、でいいんだよな?」 「……えぇ、そうよ」 「それなら――」  父親から一文字を取ったのなら、少しは希望を持ってもいいのか――おそらく蒼佑はそう言いたかったのだろう。  けれど。 「確かに蒼佑さんから『佑』と名づけた。でもそれは、一生父親には会わないと思っていたからよ。……こんなことになると……分かっていたら……つけなかったのに」   言葉尻を少しだけもごもごと濁らせて、泉は吐き出した。そのわずかな弱気を突くように、蒼佑がたたみかける。 「君がどう思っていようが、こうして俺たちは再会した。そして俺は息子の存在を知った。何もなかったようにできるはずないだろう?」 「……じゃあ聞くけど。あなたは一体、どうしたいの?」  彼の真意が知りたくて、泉は尋ねた。 「まず、君とやりなおすチャンスがほしい。……俺はずっと泉のことが忘れられなかった。あれから、誰ともつきあっていないくらいには」 「え……」  泉は驚きの声を上げた。  超絶美形セレブの蒼佑が、五年もフリーだなんてありえない。本人はともかく、女性が放っておかないだろうから。  この場を取り繕うための嘘ではないのかと、泉は訝しむ。 「嘘だと思うなら、英美里に聞いてみるといい。君を探しながら他の女とつきあうなんて、そんな不誠実なこと、俺はしない」 「……」  泉は何も言い返せなかった。  そもそも、この言葉の真偽を判断できるほど、彼のことを知らないのだ。 「それから、佑の父親になりたい。今後、あの子を絶対に傷つけたりしない。もちろん、君も。二人を何よりも大切にすると誓うよ」  蒼佑の表情は穏やかで、そして真剣だ。  心の底からの訴えだと、泉にも分かって――思わず絆されそうになってしまった。
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