第15話 父親を始めるにあたってのプロローグ

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第15話 父親を始めるにあたってのプロローグ

「あ、あと、サンフランシスコには計五年間在籍していて、本帰国したのは一昨年の春。それ以来、海外進出を国内からサポートする仕事をしている」 「へぇ……」  名刺を見ながらうなずいていると、今度はこちらのターンとばかりに、蒼佑が尋ねてきた。 「泉は? 歯科医院を辞めてからどうしていた? 佑を産んだ時のこととか、岸本の家で働くことになった経緯とか、聞かせてくれないか?」 (……話さないわけにはいかないわね)  泉は、サンディエゴから帰国した後の人生を、蒼佑に聞かせた。  佑を妊娠したと分かった時、初めは信じられなかったが、最初で最後の妊娠だと思い、産む決意をした。  一人で産んで育てるのは本当に大変だったものの、自分の子供は本当に可愛くて、苦痛だと思ったことはない。  母親としては至らない部分もたくさんあると思うけれど、佑はほとんど不満を漏らしたことがなかった。  以前一度だけ、父親について聞かれたことがある。 『うちにはパパがいないの?』  と。  一瞬答えに困ってしまったが、嘘はつきたくなかったので、 『パパとママは、仲よくできなかったの。だからどこかで生きてはいるけれど、もう会えないの』  そう答えた。  でも父親の分もめいっぱい大切にして、愛情をたっぷり注いで育ててきたつもり。  佑を保育園に預けながら、家事代行サービスの仕事をしてきて、たまたま岸本に仕事振りを気に入られ、専属にさせてもらえたことも話した。  贅沢さえしなければ、あくせく働かなくてもやってはいける。  親の遺産と家もあったし、姉の梢はことあるごとに育児用品や服を送ってくれて、その分家計も助かっているし。  そういう点では、自分たちは本当に恵まれていると思う。  でも万が一自分に何かあった時のために、佑にはお金を残しておきたいから。  極力、自分で働いた分だけで生活するようにしていた。 「そうか……一人で子どもを育てるの、大変だったな」  泉の話を聞いて、蒼佑はしみじみと言った。 「あ、そうだ。これ……佑の写真」  泉はスマートフォンに入っている佑の写真を見せた。  本人には会わせたくないが、写真くらいなら見る権利はあるだろうと、蒼佑にスマホを差し出した。  それはスマホの機能を利用して作った、佑のスライドショーだ。  生まれた時に撮ってもらった最初の写真からスタートし、初めて寝返りに成功した時のもの、初めてつかまり立ちをした時のもの、保育園に初めて行った時のもの、運動会でかけっこをした時のものなど、節目節目の写真をスライドにした。  梢に送るために作ったものだが、まさか佑の父親に見せるはめになるなんて。  蒼佑は黙ったまま写真が流れていくのを見つめていた。どんな顔をしているのかが気になり、ちらちらと彼の表情をうかがえば、感動したように目元を震わせていた。 「……可愛いな」 「でしょう?」 「自分で言うのもなんだが、最初の写真、俺の生まれた時とまったく同じ顔をしてる」 「……そう」  ――本当に、俺の子なんだな……。  ごくごく小さな声で、蒼佑が呟いた。 「悔しいけれど、そうね。本当にそっくりよ、あなたと佑は」  やれやれといった様子で同意すると、蒼佑は居住まいを正す。 「泉、これは佑のためだと思って聞いてほしい」 「……何?」 「佑と会うことは、君が認めてくれるまで控えるのは全然いい。むしろ俺の汚名を返上するのに必要な期間だと思っている。……でも、養育費だけはきちんと支払わせてほしい。君が要らないと言っても、佑には受け取る権利があるはずだ。子育てはこれからどんどん金がかかるようになる。佑はひょっとしたら将来、留学したいと言うかもしれない。医者になりたいと言うかもしれない。そうなった時に佑の夢を叶えてやるためには、金はどれだけあってもいいはずだ」 「……」  確かに蒼佑の言うとおりだ。  いくら泉が蒼佑の援助は不要だと思っていても、父親からの養育費は、あくまでも子どもの(・・・・)権利だ。  自分の意地で佑の権利を握りつぶすのは、泉にとっても本意ではないから。 「金を払っているんだから佑に会わせろ、俺に親権をよこせ、なんて言わないから安心していい。……これまでの分も、君たちの力になりたいだけなんだ」  佑を見れば蒼佑の子どもであることは疑いようもないのだけれど、それでも「本当に自分の子どもなのか?」と、微塵も疑っていないだろう申し出に、泉は少し困惑していた。 「蒼佑さん、一つ聞きたいんだけど」 「何?」 「もしも佑が、どうしようもなくわがままで性格の悪い子だったら? あなたにまったく似ていない子だったら? それでもそこまで言ってくれた?」  少し意地悪だな、とは思った。でも、彼の真意を聞きたかったから。 「佑が俺の子であることが変わらないなら、同じことを言ったよ」  蒼佑は少しの迷いもなく、そう言った。 「あ、そう……」 「でも、佑は優しくて行儀のいい子じゃないか。あんな子が性格悪いなんてない。君がしっかりと育ててくれたんだな、ってすぐに分かったよ」 「え? どうして……?」  昨日、ほんの少しの間しか会っていないのに、そこまで断言できるなんて。  泉は驚いて目を見張った。 「昨日のパーティで、庭から家に入ってきた佑は『外で砂を払って、手も洗ってきた』と言っていただろう? それにジュースを飲む時、あの子はちゃんと『いただきます』と、小声で言っていたのが聞こえた。英美里と遊ぶ時も君の許可を得ていたし。泉は相当気を使ってあの子を育ててきたんだな、って分かった。母子家庭だから余計にちゃんとしなければ、って思っていたんだろう? 佑はそんな君の努力を分かっていて、だからあんなに聞き分けのいい子に育ったんだ」  蒼佑が穏やかな笑みで言った。 「……」  泉は何も言えなかった。  蒼佑が、泉だけじゃなく佑の心の内まで理解してくれてるなんて、信じたくなかった。  彼の言葉に救われた思いがしたなんて、知られたくなかった。  黙り込んでいると、蒼佑が心配そうに泉の顔を覗き込んだ。 「ひょっとして俺、また変なこと言ったか……?」 「え?」  眉を寄せて尋ね返すと、蒼佑が少し慌てたように両手を振った。 「もし、気を悪くしたらごめん! 俺は、佑がすごくいい子だってことを伝えたくて……」  泉はいいママだとか、佑は顔は俺に似ているけど性格は泉に似たんだなとか、いろいろ言い訳じみたことを並べているのがおかしくて。 「……ぷっ」  泉は思わず噴きだしてしまった。 「い、泉……?」 「――大丈夫、気を悪くなんかしてないから。……今の言葉ではね」 「そ、そうか……」  笑いながら伝えると、蒼佑はあからさまにホッとしたように手を胸に当てた。 「そうそう、養育費のことだけど……きっと認知(・・)とか、そういう手続きが必要になるのよね?」 「うん、そうなるな。手続きで泉にもいろいろ面倒かけるけど、俺でできることは全部俺がするから、考えておいてほしい」  あえて『認知』という言葉を出したのは、蒼佑が怯むのではないかと思ったから。  でも彼は怯むどころか、前のめりで食いついてきた。  ちょこちょこと試すようなことを言ってきたこっちが後ろめたくなるほどに。  蒼佑は本当に、佑のことを息子として受け入れているのだと、認めざるを得ない。 「……分かった。前向きに検討するわ」  私のためじゃなくて佑のため――泉は自分にそう言い聞かせて返事をした。
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