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第1話 残酷な現実
「泉、結婚前にブライダルチェックを受けてみないか?」
婚約者の言葉に、菅原泉はぱちくりと瞬きを繰り返した。
「ブライダルチェック……?」
それがどういうものかは知っていた。結婚を控えた男女が、将来的に妊娠・出産に影響する病気の有無を調べる検査のことだ。
女性はいわゆる婦人科検診、男性は精子検査や性病検査が主な検査項目となる。
「やっぱり子ども欲しいしさ、問題が早めに分かれば、早期治療もできるし」
「そっか……うん、そうだよね。受けてみようか」
泉は神奈川県桜浜市内の高梨歯科医院で、歯科助手を担当している。そして、婚約者の小川悠希は、同じ職場で働く歯科医だ。
二ヶ月前にプロポーズをされ、準備を始めていたところだ。
「去年結婚した友達がブライダルチェック受けた病院、評判いいらしくて。そこで受けようか?」
「うん、そうしよ」
二人揃って受診できたのは、それから十日後のことだ。
「結果が来たら、一緒に見ような」
帰り際、悠希と約束した。
「きっと二人とも異常なしだよ。大丈夫」
この時の泉は、自分の身体について何一つ不安なんて抱いていなかった。
短大に通っている頃から、泉は高梨歯科医院で受付のアルバイトをしていた。患者さんにも丁寧に接し、明るく真面目に働く泉は院長に気に入られ、短大卒業後はそのまま歯科助手として正式登用される。
医院のスタッフは院長を初めとする歯科医師が、大学病院からの派遣や訪問歯科医も含めて五名、歯科衛生士が七名、歯科助手が三名。三階建てのビルは自前で、設備や治療技術も常にアップデートし評判もなかなかいい。個人医院としては規模は大きい方だろう。
泉はこれまで特に大きなもめごともなく、上手くやってきた。院長からの覚えもめでたい。職場になんの不満もなかった。
歯科助手になって一年後に、悠希が新米歯科医師として高梨歯科に入って来た。彼は明るく礼儀正しい好青年で、すぐにスタッフに溶け込んだ。
悠希とつきあうようになったのは、泉が二十三歳になってすぐのことだ。
『泉ちゃんのことが好きなんだ』
照れた顔がとても可愛い、と思った。
元々悠希に好意を持っていたので、一も二もなくOKした。しかし職場恋愛は何かと面倒だ。二人の交際は周囲には秘密で、でも順調に進んだ。
約一年後の九月十二日――二十四歳の誕生日にプロポーズされる。
『俺と結婚してほしい』
悠希の部屋でそう言われた時、天にも昇る気持ちだった。ようやく職場の人たちに二人の関係を公にできるし、姉にも報告できるのだと安心もした。
泉には両親がいない。高校生の頃に母が亡くなり、父も短大生の頃に死んでしまった。二人とも病気だった。
それからは姉の梢が母代わりとなってくれた。梢は外資系金融機関でバリバリと働くキャリアウーマンだったので、学生時代は泉の生活費や学費を出してくれた。
夫のスティーブとは取引先で知り合い、彼からの猛烈なアプローチの末、結婚し渡米したのだ。
アメリカにいてもいつも泉のことを思ってくれ、連絡も頻繁にしてくれる。心の支えとなってくれる梢には感謝しかない。
婚約の報告をした時も、自分のことのように喜んでくれた。
悠希と一緒に幸せになって、これからいっぱいいっぱい姉孝行しようと思っていたのに。
「え……どういう……」
一枚の紙を両手で握った泉は、声を震わせた。
「どうした? 泉」
「悠希……」
泉は縋るようなまなざしで、悠希を見上げた。黙って紙を渡す。
「――妊娠困難の所見が認められるため、要精密検査……。これって……」
「妊娠しづらいって、こと……?」
検査から一週間、結果が郵送されてきた。悠希の部屋で一緒に開封した泉を待っていたのは、想像もしていなかった事実だ。
そんな馬鹿な。私に限って不妊だなんて。
目の前が白くなる。
悠希の方は異常がなかったようで、ホッとしたけれど。
どうしたらいいのか。私の身体に何が起きているの?
「とにかく、精密検査してみよう。俺もつき添うから」
悠希が肩を抱いて励ましてくれたので、泉はなんとか平静を保てた。
ブライダルチェックをしてくれた医院を訪れ、改めて検査を受けた。その間、悠希はそばにいて励ましてくれて。
彼がいなかったら、きっと耐えられなかった。
(きっと大丈夫、ちゃんと検査したら異常なんてない)
恐怖で震える自分に心で言い聞かせながら、結果を待った。
一週間後――
「菅原さんは、排卵障害を起こしていますね。……無排卵症です」
医師の穏やかな声音と残酷な内容――それは泉の心に鋭く突き刺さった。
「無……排卵……? で、でも、生理は毎月来ています」
「月経は来ても排卵はしない、無排卵月経、ということになりますね。無排卵症の原因は過度なダイエットやストレス、不規則な生活や喫煙など、いろいろありますが、菅原さんの場合、どれも当てはまらないようですから……ひょっとしたら、遺伝性かもしれません」
縋ってみるものの、すぐに無慈悲な回答が返ってくる。
喉がカラカラに渇いている。声が上手く出せない。
「あ、の……これって……治るんで、しょうか?」
「排卵を誘発させる薬を服用していただく治療になるのですが、飲み始めてすぐに排卵する人もいれば、そうでない人もいます。受診して一年経ってようやく排卵する人もいるんです。……もし原因が遺伝であれば、治療は長期になる可能性もあります」
「そう……ですか」
「泉……」
診察の間、悠希はずっと背中を擦り続けてくれた。
医師から今後の治療について尋ねられたが、すぐには答えを出せなかった。
放心状態で自宅に帰ると、悠希が心配そうに尋ねてくる。
「――どうする? 泉」
「え?」
「このまま治療に入る?」
「そ、れは……うん。でも……今はちょっと……放っておいて」
泉は両手で顔を覆い、項垂れる。
「……」
治療以外の選択肢はないと分かっている。けれど、女性として欠陥があると宣告された気がして、ショックで何も考えられない……考えたくなかった。
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