第20話 自分でも気づいていなかった。

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第20話 自分でも気づいていなかった。

 辺りの室温が下がった気がした。秋山の表情が豹変したからだ。泉に向けられた視線は冷たくて、なんだか怖い。 (ど、どうしたんだろう……)  たじろぐ泉に、秋山はさらに目を細める。 「……今月の初め、俺と岸本と九条で宅飲みをした。あいつのマンションのリビングに入って驚いたよ。子供向けのブルーレイが山積みになっていたからね。それまで俺は、九条に子供ができていたなんて知らなかった。あいつはあいつで、その宅飲みの時に、俺に打ち明けるつもりだったって言ってたけど」  秋山曰く。とんでもない枚数のブルーレイを見て、一体何事だと蒼佑に詰め寄った。  蒼佑は、ずっと探していた泉と再会できて、しかも自分にそっくりな可愛い子供までいたと、嬉しそうに言っていたという。  秋山は、彼が泉を探していたのを知っていたので、自分のことのように喜んだそうだ。しかしそれも最初の数分だけだった。大量のブルーレイの存在理由を知った途端、彼の中には、たとえようもない怒りが込み上げてきたという。  それから、蒼佑や岸本、そして英美里に、今に至るまでの経緯を聞き出した。 「――九条は君の無茶すぎる要求に、平日も睡眠時間を削って取り組んでる。佑くんに早く会いたい一心でだ。その内体調を崩すんじゃないかと、正直俺は心配してる。そもそも九条にばかり無理難題を押しつけてあいつを責めているが、君の責任はどうなんだ? リカの件だって、九条が起きるのを待てばすぐに解決したはずなのに、話し合いを放棄して逃げたのは君だろう?」 「っ、」  泉は秋山の目を見返した。少しも逸らすことなく、こちらをまっすぐに捉えるまなざしは、悪意が籠もっているというよりは、蒼佑の援護射撃をするという強い意志を感じさせた。 「九条はたびたび君に失言をしていたらしいな? でもそれは、頑なに子供に会わせないほどのことなのか? あいつが手酷く君を捨てたり、子どもをわずらわしく思っているのならともかく、そうではないと君はすでに知っているはずだ。それに、九条の言葉に傷ついたそうだが、あいつがストーカーに遭っていたのは聞いただろう? あの時、九条は本当に傷ついて疲れていた。そんな経験をしているんだ、行く先々に同じ女がことごとく現れれば、ストーキングされていると思っても仕方がない、それほどあいつはトラウマを抱えていたと、少しは想像力が働かないのか?」  秋山は、ストーカー被害に苦悩し傷ついていた親友を、ずっと近くで見てきたのだろう。  その表情には、抑えきれない憤りが表れている。  秋山が本当に蒼佑を大切な友人だと思っていることが、痛いほど伝わってきた。 「――確かに、君に子どもができていたことを知った時の九条の発言は、君にしてみれば失言だろう。けど、子どもができないと言っていたのにできていたのだから、一瞬でも気が動転して口走ってしまった言葉でさえ、永遠に許されないようなことなのか? ……九条の名誉のために言っておくが、このことはあいつが自分から話したことじゃないからな。あいつは、他人のデリケートな事情を安易に口にするような男じゃない。俺が(・・)、あいつを誘導して無理矢理聞き出したんだ」  秋山は蒼佑を酔い潰して白状させ、岸本に補足させたという。蒼佑は「俺があんなことを口走ったから、泉を傷つけてしまった」と、後悔の言葉ばかりを口にしていたという。 (蒼佑さん……)  秋山が言葉を重ねるたびに、泉の気持ちは沈んでいく。 「九条はずっと君を探してきて、他の女には目もくれなかった。それなのに、あいつだけを責めて無茶なことをやらせ、おまけに妹の英美里ちゃんには簡単に会わせるくせに、実の父親には頑なに子どもに会わせまいとする君は、狩った獲物を甚振って楽しむネコ科の猛獣だ。英美里ちゃんから『佑くんと会った』と報告されるたびに、九条がどんなに羨ましく思っていたか、君は知らないよな? 知ってるはずがない。九条はこれ以上君を傷つけたくないと気を使って、そんな気持ちを一ミリも見せてこなかったんだから。……君は、自分がどれだけ残酷なことを九条に対してしているか、ちゃんと分かった方がいい」  言いたいことはいろいろあった。  あなたが私の何を知っているというの? とか。  どうしてあなたに、そんなことを言われなきゃならないの? とか。  何も今、言わなくてもいいじゃない、とか。  でも言えなかった。  秋山の言葉が、泉の深層に強く強く突き刺さったから。 『自分は、一人で(・・・)佑を産み育ててきた母親』 『失言を繰り返す男は、父親として認められない』  これらを免罪符に、蒼佑に対して何を課してもいいと思っていたのでは?  蒼佑が子ども番組チャレンジを必死にこなしているのを、高見の見物をして悦に入っていたのでは?  蒼佑が佑に会えるか否かは、すべて泉の意思次第――そんな傲慢なことをまったく思っていなかったと言えば、絶対になかったとは断言できない自分がいて。  秋山から突きつけられた言葉は、泉の醜さを浮き彫りにしたのだ。 「あ……、わた――」 「ごめん、待たせて……って、泉、顔色真っ青じゃないか。どうした?」  電話を終え戻ってきた蒼佑が、個室の扉を閉めるや否や、泉の顔を見てギョッとした。 「わ、わ、たし……」  声が震えてしまう。言い返す言葉が、口から出てきてくれない。 「……秋山、何か言ったのか?」 「俺は、九条がどれだけ頑張ってきているか、泉さんに知ってもらいたかっただけだ」 「一体何を言ったんだ? こんなに震えてるじゃないか。大丈夫か? 泉」  秋山はあくまでも冷静な姿勢を崩さない。蒼佑は秋山に責めるような視線を突きつけた後、泉の背中を擦った。 「ご、めんなさい……私、失礼します……」  泉は震える手で財布から千円札を二枚抜き、テーブルに置く。そしてバッグのストラップをぎゅっと握りしめ、個室を飛び出した。 「泉!」  呼び止める蒼佑の声を振り払い、レストランを出て、人の波を縫うようにして駅に向かう。 (最低……最低……っ)  心の中で、自分に毒づく。  自分がこんなにも醜い人間だなんて、思わなかった。  佑を妊娠してから、一生懸命、佑の手本となれるよう、頑張って生きてきたつもりだ。  だから、佑の父親にもそうあってほしいと願い、蒼佑を突き放し、条件をつけた。  だけど、でも―― 『君は、狩った獲物を甚振って楽しむネコ科の猛獣だ』  そんなつもりはなかった。  人を甚振る趣味なんてない。  それなのに、秋山は泉をそう表した。 「泉……!」  駅に辿り着いたところで、蒼佑に腕を取られた。 「そ……すけ、さん……」 「ごめん泉、秋山が何か酷いことを言ったんだよな? 二人にしてごめん」  申し訳なさそうに眉尻を下げる蒼佑を見て、泉は涙が込み上げてきた。 「あ……秋山さんの……言う、とおり、なの……、ぅ……っ」  本当は薄々分かっていた。  蒼佑ばかりを責めてきたけれど、自分だって、早とちりで迂闊で馬鹿だったこと。 『……君は、自分がどれだけ残酷なことを九条に対してしているか、ちゃんと分かった方がいい』  人に言われなければ、自分がしていたことに気づかなかった。  佑に会えないまま黙々と課題をこなしていた蒼佑に「英美里と佑を会わせた」だのと平気で伝えていたのだから。  残酷極まりない仕打ちだ。  それを聞いていた蒼佑は、一体何を思っただろう。 「泉、大丈夫か?」  気遣わしげに顔を覗き込んでくる蒼佑の表情は、ただただ泉を心配しているそれだ。  泉を責めるような要素は、一つたりとも彼の中からは見つからない。  五年前のあの朝だって、秋山の言うとおり、彼を叩き起こして「リカって誰よ、もう!」なんて、問い質せばよかったのだ。  そして、その前日の夜だって―― 「あの時、ちゃんと避妊してさえいれば、今頃――」 「それ以上言ったらダメだ! 泉!!」  ――蒼佑さんは、自由の身だったのに。  そう続けようとして、蒼佑に強く止められた。あまりにきつい口調に、泉の身体がビクリと震えた。 「蒼佑さん……」 「……それ以上言えば、佑の存在を否定することになってしまう」 「……っ!!」  大きく息を吐き出した蒼佑から、静かに告げられた一言。  泉はハッとして両目を大きく見開いた。数瞬の後、開かれた双眸から大粒の涙があふれ出す。  泉は、駅のコンコースの片隅でくずおれた。
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