第21話 ようやく、やっと。

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第21話 ようやく、やっと。

「泉、大丈夫か?」 「っ、わ、わた、わ、たし……っ」  しゃくり上げながら、泉は目の前にしゃがんだ蒼佑の服を掴む。蒼佑はポケットからハンカチを取り出して、泉の頬を拭った。 「わた、し……が……っ、一番、の、失言……っ、して……! ぅう……っ」  一番言っちゃいけなかった。  今まで散々、蒼佑に失言ばかりだのなんだのと、チクチク嫌味たらしく言ってきた自分が、よりにもよって、世界で一番大切な、可愛い息子を否定するようなことを口走ってしまうなんて。  自分の言動が、あまりにもショックで。  嗚咽が止まらなくて、呼吸を妨げるほどだ。  しゃっくりのように裏返った声を上げる泉の背中を、蒼佑が抱きしめるように擦る。 「俺が(・・)言わせたんだ。泉はまったく悪くない。全部全部、俺のせいだ。ごめん、本当にごめん」 「うぅぅ……っく……っ」  泉は蒼佑に縋ったまま、うつむいて泣いている。 「泉、ちょっと立てるか? 少しだけ歩こう」  蒼佑は泉の両肩を支えて立ち上がらせると、そのまま近くの自販機脇のベンチに連れていき、座らせてくれた。それから自販機でアイスティを買い、それを泉の手に握らせた。 「……あ、りがと……」  それから少しして、泉の涙はようやく止まる。 「少しは落ち着いた?」  真っ赤な目をした泉はこくん、とうなずいた。  二人の間に沈黙が訪れる。辺りは行き交う人々の喧噪でうるさいくらいなのに、泉と蒼佑の間だけが、やけに静かに思えた。  その間、蒼佑は何も言わずにいてくれた。  どれくらい経っただろうか。ようやく呼吸が落ち着いた泉は、最後に大きく深呼吸をして、そして。 「……ごめんなさい。私、無神経だった」  英美里には気軽に佑を会わせておきながら、蒼佑には許さずにいたこと。  英美里に佑を会わせていたことを、悪びれもせず蒼佑に伝えていたこと。  しかも、秋山に指摘されなければそれに気づかなかったこと。  泉はぽつりぽつりと打ち明け、謝った。 「秋山がそんなことを言ったのか!? っ、あいつ……!!」  蒼佑は忌々しげに吐き出すと、泉の背中を再び擦った。 「私……本当に最低だった」  泣きすぎて痛くなった目を瞬かせる。蒼佑は泉を励ますように背中を擦ったまま、切り出した。 「――泉、俺な、今すごく楽しいんだよ。毎日ブルーレイ観ながら『佑はどんなシーンが好きなんだろう』『佑はどのキャラが好きなんだろう』って、想像してるんだ。それに作品自体も面白いから、続きが気になってつい、観るのをやめられなくて、夜更かししてしまうこともあるんだ」  そこには決して、義務感は存在しないのだと、蒼佑は優しげに笑う 「――それから、英美里から佑と会った話を聞くのも、すごく楽しみなんだ。実はこれは、泉には内緒だったんだけど……英美里はずっと、佑の写真や動画を撮って、俺に送ってくれてたんだ。それを観るのが本当に楽しくて。……ごめんな? 勝手に佑の動画を撮って観たりして」  泉はふるふるとかぶりを振る。  蒼佑の凪いだ声音は、真剣だけれどどこか甘くて。紡がれた言葉は、間違いなく彼の本音なのだと、痛いほど伝わってきた。 「俺は、泉が佑を産んでくれて、本当に感謝してる。……泉だって、佑が生まれてきてくれて、幸せだと思っているだろう?」  泉は間髪入れずこくこくとうなずいた。 (そんなの……)  当たり前ではないか。  子どもを一人で産んで育てるのは、本当に大変だった。頼れる人がそばにはいなくて、すべてが手探りだったから。  生まれて間もない頃、なかなかおっぱいを飲んでくれなくて、泣きながら助産師に相談したり。  ハイハイを覚えた頃に初めての熱を出して、一人でおろおろしてしまったり。  二歳の時、全身にじんましんが出て、心配で夜も眠れなくなったこともあった。  でも、佑を産んで後悔したことなど、ただの一度もない。  佑と過ごす一分一秒、すべてが幸せに満ちていた。 「英美里から送られてきた動画の佑は、元気でいい子で……泉の愛情をたっぷり受けながら育ってきたんだな、って、よく分かった」  蒼佑はポケットからスマートフォンを取り出し、とある動画を再生した。 「これ……」  それは午前中、英美里が水族館で撮影してくれたものだ。泉もシェアしてもらっていた。 『あ! イルカが、わっかつくってる。すごいね、りょうくん!』 『佑くん、この白いイルカは、ベルーガ、っていう名前なんだよ』 『べるーが? かっこいいなまえ!』 『そうだね。かっこいいね』 『ねぇねぇ、りょうくん。こんどはえみりちゃんも、どうがとって? ぼく、えみりちゃんともいっしょにとりたいし、そのあとは、ぼくがりょうくんとえみりちゃん、とってあげるね』  ベルーガの水槽の前で映っているのは、佑と岸本だけだ。英美里は撮影役らしい。しかし動画からは、三人仲良く水族館を堪能している様子がうかがえた。 「この動画だけでも、佑がいい子なのが伝わってくるな?」  蒼佑にそう尋ねられ、泉の瞳からまた涙が伝う。 「佑……」  本当に可愛い、唯一無二の大切な存在。 (私のところに来てくれて、ありがとう……)  佑がお腹の中にいる頃から、何度も何度も伝えてきた言葉だ。これからもきっと、たくさん口にするだろう。 「泉」 「何?」  動画が終わり、スマートフォンをしまった蒼佑は、両手で泉の手を取った。 「佑を……俺たちの子を、一生懸命、こんなにいい子に育ててくれて、本当にありがとう」 「蒼佑さ……」  きっと今日の泉は、涙腺が緩みきっているのだろう。乾ききっていないまなじりから、何度目かの涙が零れる。  佑の父親である彼の一言で、今までの苦労が報われた気がして……全身から力が抜けた。  蒼佑はそっと、弛緩した身体を抱き寄せる。  なんの他意も感じさせない。ただ単に、慰めのぬくもりを与えるためだけの抱擁だった。  その日以来、泉の中で蒼佑に対する感情が、急速に変化していった。  蒼佑は、誠実に泉親子に向き合おうとしてくれている。失言をしないよう、慎重に言葉を選んでくれている。  泉は、彼の誠意をひねくれて受け止めたり、目を逸らしたりしていた今までの自分を反省した。  曇った眼鏡をピカピカに磨いて、素直な目で見てみれば、蒼佑は確かに変わったというのが分かる。再会した時からこれまでの間で、彼の中では『覚悟』の若葉が芽吹き始めたのかもしれない。  泉は、蒼佑を佑に会わせようと決意した。  それを彼に伝えると、 「ここまで来たら、例の課題が終わるまで待ってほしい」  と返ってきた。これだけはけじめとして終わらせたい、それにコンプリートすれば佑との会話も盛り上がるだろうと彼は言う。  あと少しで終わるからと張り切る蒼佑に、泉は心が温かくなった。  それから半月ほど経ち――ついに蒼佑は課題をクリアする。  SNSの最後の投稿には「やっと会える」と、締めの言葉が記してあった。
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