第26話 真実と狂気

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第26話 真実と狂気

「……え?」  何を言われたのかよく分からなくて。首を傾げていると、悠希が次の句を継いだ。 「おまえが不妊っていうの、嘘なんだよ」  悪びれもしない元カレの台詞を、泉の脳は受け入れるのを拒否しているのか、言葉が喉で詰まって出て来ない。  嫌な汗が首筋を伝う。佑の手を握る手までもが、汗ばんでくる。 「ど……う、と……?」  ようやく絞り出した声は、言葉にならなかった。「どういうこと?」と言いたいのに、どうしても単語を形成しない。 「泉にプロポーズした直後に、院長から桜子との縁談を進められてさ。どっちを取る? って言われたら、そりゃあ、院長の娘じゃん? だから、泉から桜子に乗り換えるのに『理由』が欲しかったんだよ。下手打ってバラされでもしたら、破談になるかもだし、職場での立場だって悪くなるかもしれないしさ。泉の性格なら、不妊だと分かればすんなり別れてくれるはずだし、その後、院長の娘との結婚が決まれば、フェードアウトしてくれると思った」  まんまと思惑通りになったよ――悠希は平然とした様子で言い放った。 (……何、それ)  五年前、女として失格の烙印を押された気がして、絶望の底で溺れ死にそうになっていた自分。  佑という奇跡が来てくれたおかげで、なんとか救われた。  だけど、受ける必要のなかった心の傷を、悠希の身勝手で負わされていたなんて――泉はあまりの衝撃に倒れそうになった。  隣に佑がいるので、かろうじて堪えたが。 「でも……病院で診断されたのに……どうして……」 「不妊の診断したの、俺の高校時代の後輩。そいつ、大学時代にシャレにならない悪さをしてな。俺がアリバイ証言しなきゃ刑務所に行ってたかも、ってくらいの。だからその貸しを返してもらうために、検査結果を偽造させた」 「偽造って……」  れっきとした犯罪行為を、まるで小さな悪戯をしてしまった程度の軽い口調で白状している悠希。あまりにもあっさりとした態度なので、一瞬、こちらが麻痺しているのかと錯覚してしまった。  泉がドン引きしているのを楽しんでいるかのように、悠希はくつくつと笑っている。 「――ねぇ……もし私が、あのまま不妊治療を始めていたらどうするつもりだったの?」  何も悪いところがないのに治療に入ってしまったら、どうなっていたのか……専門家ではない泉には分からない。 「その時は、セカンドオピニオンを勧めるよう、後輩に言い含めておいたんだよ」  とにかく、別れるまでは『不妊』でいてほしかった。別れてしまえばこっちのものだったからと聞かされ、泉は憤りのあまり、叫び出しそうになった。  この男の野心のせいで、自分はあんなにも苦しい思いをしたのかと。  泉の怒りをかろうじて抑え込んだのは、もちろん、佑の存在だ。息子の前で感情を爆発させるわけにはいかない。  こんな場に大事な佑をいさせたくないという親心と、佑がいてくれてるからこそ、正気を保てているのだという安堵感との狭間に、泉は立っていた。 「……どうして、この子を自分の子だなんて言い出したの? 桜子さんと結婚したくせに」  ショックやら怒りやら……いろんな感情を押し殺した声音で、泉は問う。 「それがさぁ……桜子の方が正真正銘、不妊だったんだよ」  悠希と桜子は、結婚五年経っても子宝に恵まれずにいるという。もちろん、ありとあらゆる不妊治療をしているが、結果は芳しくないらしい。  悠希は自分の血を分けた子どもを心の底から欲しがっており、不妊である妻とは不仲になりつつあるそうだ。  それを聞いた泉は、ため息交じりにかぶりを振る。 「奥さんに関しては、本当に気の毒だと思う。……けど、正直、あなたに関しては、因果応報としか思えない」  紛うことなき本心だ。なんの罪もない桜子には同情を禁じ得ない。しかし、悠希は可哀想だとも思わない。  泉が苦しんだ分、苦しんでほしいとさえ願ってしまう――そんな醜い感情が心の中で渦巻いているなんて、絶対に蒼佑や佑には知られたくはないが。  しかし悠希は、そんな泉の言葉を意に介した様子はなく。 「俺、泉と結婚すればよかったかな~」  なんて、暢気に言い出す始末だ。さらには、佑を指差して。 「その子、俺の子だろ? 認知するから俺に親権くれよ。一人で育てるの大変だろうし、俺なら金持ってるし、何不自由なく育ててやるよ」  などと言い放つ。あまりに無茶苦茶な言い分だし、正気の沙汰とは思えない。泉は呆れ果てる。 「この子があなたの子である可能性は、一ミリもないから。名前が『ゆう』なのは、実の父親から漢字をもらっただけで、その人とは今、いい関係を築けているの。あなたとは無関係だから、今後一切、私たちには近づかないで」  きっぱりと言い残し、泉は佑を連れてその場を去った。 「なんなの、あの人……」  佑を自分の子だと言い張る悠希は、目つきも言動も怖くて、どこか狂気すら帯びていた。  途中から、佑の耳を両手で塞いでいたくらいだ。おかげで佑の耳には余計な情報を入れずに済んだ。  あまりにもショックが強すぎて、翌日は佑の世話以外、何も手につかなかった。  しかし精神状態が不安定でも、仕事ではそれを見せてはいけない。月曜日から金曜日までは、がむしゃらに働いた。嫌なことを忘れるために。  あまりの打ち込みように、岸本が「泉さん、えらく張り切ってるね」と、目を丸くしていたほど。  そして週末が来て。  二週間ぶりに会った蒼佑に、佑は嬉しそうに抱きついて、久しぶりにたっぷりと遊んでもらった。アメリカのお土産も貰ったので、終始ご機嫌だった。  夜、菅原家で夕食にデリバリーのピザを三人で食べて。佑が「パパといっしょに、おふろに入りたい!」と言い出したので、蒼佑にお願いする。  蒼佑は佑自身に教えてもらいながら、親子の入浴を無事に済ませた。浴室から聞こえてきた楽しそうな声に、泉の心はほっこりした。  佑を寝かしつけた後、二人の時間が来て。泉はコーヒーを淹れ、リビングのテーブルに置いた。 「ありがとう、泉」  佑が起きていた時は、なんとか忘れていられたものの、二人きりになって蒼佑の顔をまじまじと見た途端、悠希のことを思い出す。必死にそれを隠そうとしたけれど、彼には泉の憂いが伝わってしまったみたいだ。 「泉……何かあっただろう? 今日、ずっと不安げな表情(かお)をしてたな」 「え……」  気持ちを取り繕っていたことに気づかれていたのが、恥ずかしいような嬉しいような、複雑な気分で。つい、目を泳がせてしまった。 「俺でよければ、話してほしい。……泉の力になりたいんだ」  蒼佑が手を握ってきた。不安をなぎ払うような、力強く頼もしい温もりだ。 (あぁ……もう……)  今、気づいてしまった。  蒼佑が、いつの間にか泉の心の支えになっていたことに。  あれだけ邪険にしていたにもかかわらず、根気よく泉のワガママにつきあってくれて。泉や佑のことをよく見ていてくれて。  泉親子を温かく包み込んでくれる、大きな存在になっていた。  悠希の件――一人で抱えるにはあまりにもきついし、これは彼にも関係してくることだ。話さなければならない。泉は目線を引き戻し、蒼佑の顔をまっすぐ見つめた。 「あのね、私……不妊じゃなかったの」  泉はすべてを打ち明けた。  自分を捨てた悠希に会ったこと。  不妊であるとねつ造されたこと。  彼の妻が不妊であること。  佑が自分の子ではないかと疑われていること。  彼の態度が狂気じみていて、とても怖かったこと。  話し終えた瞬間、泉は深く長く息を吐き出した。途端、糸が切れたように双眸から涙が零れ出す。この一週間、気丈に振る舞ってきたつもりだったが、もう限界だった。 「泉……」 「ぅ……うぅ……っ」  蒼佑は泣きじゃくる泉を引き寄せ、抱きしめる。 「あまりにも酷すぎる仕打ちだ……つらかったな、泉」  痛々しげに呟く声が、上から聞こえた。  蒼佑の手が、泉の頭を優しく撫でてくれる。佑を撫でる手つきよりも、優しく甘い。  彼の胸に顔を埋めて泣いて。何分か経った頃、ようやく頭を上げた泉の潤んだ目に飛び込んできたのは、何かを決意したような蒼佑の顔で。  刹那、彼は凪いだ声音で告げた。 「――泉、俺と結婚してほしい」
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