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第27話 プロポーズされましたが。
「……はい?」
頬を濡らしたまま、泉は蒼佑から身体を離した。彼は優しいまなざしを一層優しく細めて、もう一度口にする。
「俺たち、結婚して一緒に暮らさないか?」
泉が何度もまぶたを瞬かせると、目尻に残っていた涙が頬を伝い落ちていった。
「結婚……? 本気?」
「結婚のことは、再会した時からずっと考えてたんだ。でも、佑の父親として泉に認められるまでは……と、その件には触れないようにしてた。君にプレッシャーを与えたくもなかったし。本当は、ちゃんと時と場所を選んで君にプロポーズをしたかったんだけど。でも、そうは言っていられなくなった。俺は、泉と佑を……俺の家族を守りたい。佑を法的にも俺の子にしてしまえば、元カレも手出しはできなくなる」
蒼佑の顔は真剣だ。本気で泉にプロポーズをしてくれているのだろう。
「でも……蒼佑さんは、結婚相手が私でいいの?」
「泉がいいんだ」
わずかな迷いもない、きっぱりとした声音に、泉は困惑を隠せない。
「私……蒼佑さんが、そこまで私のことを想ってくれる理由が分からない。蒼佑さんならきっと、もっときれいで資産家のご令嬢と結婚できるでしょう?」
父親として佑とはいい関係を築いてほしいけれど、自分との関係を強要するつもりなど、泉にはこれっぽっちもない。
だから泉を気遣って、プロポーズなどしてくれなくても大丈夫だと、伝えたかった。
しかし蒼佑はわずかに眉尻を下げ、ゆるゆるとかぶりを振った。
「……泉も知ってるとおり、俺は二度、ストーカーに遭ったことがある。つきまとっていた女たちは、二人とも……かなりの美人で、しかも九条物産の役員の娘だったり、取引先から派遣という名目で乗り込んできたご令嬢だったりした」
二人ともお嬢様学校を出ていたり、大学のミスコンで優勝していたりと、セレブではあったものの、九条家の規模には及ばない家だったため、さらなる玉の輿を狙っていたのだろう。
彼女たちからのアプローチを断った後、それぞれに共通していたのが「まさか私を振るだなんて」という反応だったそうだ。その屈辱が、彼女たちをストーカーに変えたという。
「――だから俺は、女性に過度な美貌や家柄や経済力なんかは、まったく求めていないんだ。両親にも、俺の結婚相手は家や会社との利害関係などない女性を、自分で選ぶと宣言してる」
「そうなの……」
「泉に初めて会った日にも言ったと思うけど、俺は君の目が好きなんだ。澄んでいて凜としていて、ストーカーに疲れていた自分の心まで浄化される気がした」
「自分じゃ……よく分からないけど」
前回も今も、『目』について褒めてくれてはいるものの、蒼佑にどんな目を向けていたかなんて、自分じゃ分からない。だから、力説されたところで「そうなのね!」なんて、納得できるはずもない。
「五年前……船から下りて、俺や英美里が謝った後、夕食に誘ったろう? あの時泉が見せた笑顔で、もうダメだった」
サンディエゴの船上で警戒心に満ちた瞳が、ふっと緩んだ瞬間――強引にディナーに誘った九条兄妹に対し「仕方ないなぁ……」と言いたげに笑った泉に、ぎゅっと心を掴まれたのだと、蒼佑は言った。
泉に去られた後も、そんな風に惹かれる女性には出逢えなかった。会う女性は皆、蒼佑に過大な希望を寄せつつ、好かれよう好かれようと大仰な振る舞いをしてきた。普通なら、それはそれで可愛らしく好ましく思えるかもしれない。しかしストーカー被害に遭ってきた蒼佑にとって、それは好感度を下げる要素でしかない。
蒼佑に対し、心底なんの期待もしていない態度だった女性は、泉だけだったという。
(それはきっと……)
不妊の診断をされた上に酷い失恋をしたばかりだったからだと、泉は思った。
自分には女性として何かが足りない、だから男性にも求めたりしない――それが態度に出ていたのかもしれない。
それでもあの夜は、心の傷が癒えていない中、蒼佑が泉に『女』を見出してくれたのが嬉しくて、舞い上がってしまったのだけれど。
「――再会したばかりの時、君に会えた嬉しさと佑の存在を知った驚きで、気が急いてしまった。とにかく、夫として父として、責任を取らなければ、と。でも……君と佑をじっくり知っていくうちに、心が満たされていくのが分かって……責任じゃなくて、俺が君とともにありたい、一緒に佑を育てていきたいと思ったんだ」
蒼佑は一生懸命、気持ちを伝えてくれている。真剣なのがありありと伝わってきて、泉は少しだけたじろいでしまった。
(信じていいのよね……?)
このひとを、佑の父親として、泉の伴侶として、心からの信頼を寄せてもいいのではないか――そう思った。
蒼佑は泉の両手をぎゅっと握る。
「本当は脆いところもあるのに……佑のためならそんな弱い部分を隠して、懸命に強くあろうとする泉のことを、愛してるんだ。だから、俺と結婚してほしい」
「……っ」
愛してる――その言葉が、泉の心に甘いシロップを注いできて。じゅわじゅわと全身に染み込んでいく。
胸がいっぱいで、言葉を紡げないまま蒼佑を見つめていると、彼の顔がそっと近づいてきて。
「……」
泉は抗わなかった。蒼佑のくちびるが、泉のそれを捉えた瞬間、全身が痺れた。
キスなんて、五年前に蒼佑としたのが最後だ。佑のほっぺにチュウをすることはあっても、性愛を孕んだそれは本当に久しぶりで。
ちゅ、ちゅ……と、何度も音を立てて啄まれた後、わずかにゆるんだくちびるの隙間から、蒼佑の舌がするりと入ってきて。
熱い舌が泉のそれを搦め取ると、口の中に甘い何かが広がっていくような感覚がした。
ぴったりと合わさった粘膜の隙間から、濡れた音が漏れる。
蒼佑の指に頬を撫でられると、そこからまたゾクゾクと甘い痺れが体内を疾駆した。
久しぶりの行為に『女』である自分を思い出して――泉の全身が歓喜に包まれる。
随分と長い時が経った気がして――ようやくくちびるが解放されると、蒼佑が困ったような表情で、泉の口元を拭ってきた。
「――返事も聞かずにごめん、泉が可愛すぎて我慢できなかった」
泉はふるふると首を横に振る。
「ううん、嬉しかったから……。でも、結婚のことは……佑と相談させてほしいの」
佑は「パパとおなじおうちにすみたいなー」と、日々口癖のように言っている。だから絶対にいい返事ができるはずだ。でもけじめとして、最終確認だけはしたい。
「もちろん。佑が嫌がるようなら、無期限保留にしてもらってかまわない。……その時は、かなり落ち込むと思うけど」
佑は蒼佑に対しても「パパ大好きー」なんて甘えたりしている。しかし一緒に暮らすとなればまた違うかもしれないと、蒼佑は心配しているようだ。
それを想像して落ち込む様子を見せる蒼佑を見て、泉は「蒼佑さん、可愛い」と、クスクス笑ってしまった。
翌日、蒼佑がいない食卓で、泉は佑に尋ねた。
「佑は、パパと一緒に住みたい?」
「うん!」
鰯の蒲焼きを頬張ったまま、佑はめいっぱいうなずいた。見事なまでの即答だ。
「パパもね、佑と一緒に住みたいんだって」
「ほんとに!? あのね、よるパパとぼくとママで、ならんでねたいなぁ。それでね、ねるときに、パパに本をよんでもらいたいの」
泉が蒼佑の意思を伝えると、佑の瞳がキラキラと輝き出した。
「あとね、あとね、ほいくえんのうんどうかいにも来てほしいし、おゆうぎかいも見てほしいの。それからね――」
佑の口からは、後から後から願望があふれ出す。泉は止まらない息子の言葉を聞き、涙が出そうになった。
この子は今まで、父親がいないことで淋しい思いをしてきたのだ、それをずっとずっと、母親を慮って我慢してきたのだ――息子が今まで秘めてきた『父子の光景』への憧れを、ガツンと突きつけられ、泉は切なくなった。
佑がこんなに素直に『父親と一緒にしたいこと』を口にすることができているのも、すべて蒼佑が愛情を注いでくれているおかげだ。彼が息子を愛してくれているからこそ、佑も父を信頼して願いをぶつけられている。
泉自身も、愛情深い蒼佑のことを考えると、幸せな気分になる。一緒にいたい。キスだけでなく、その先だってしたい。
蒼佑を、心から愛している――泉はようやく、完全に自覚したのだった。
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