第28話 ジェットコースター

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第28話 ジェットコースター

 次の週末、蒼佑にはプロポーズの返事をした。もちろん佑と一緒にだ。 「パパ! いついっしょにすむの? きょう? あした?」  菅原家のソファに座った蒼佑の膝の上で、佑は期待に目をキラキラさせている。そんな息子を見て、蒼佑は感動したように空を仰いで目を閉じた。 「佑、パパと一緒に住むには、いろいろ準備があるの。だから、すぐには無理なのよ」  泉がそう説明すると、佑はくちびるを尖らせた。 「じゃあ、らいしゅう?」 「そうだなぁ……保育園の運動会が終わったらにしようか?」  佑の運動会は、十月の上旬だ。あと一ヶ月切っているものの、その間に諸々の手続きなどを済ませればいいだろうと、蒼佑は泉に提案した。 「うんどうかいおわったら? わかった! ぼく、ちゃんとまつよ」 「一緒に住む前に、蒼佑さんのご両親に、挨拶に行かないといけないんじゃない?」  何もせずに一緒に住むなんてできないと、泉が言えば、 「そういや英美里が来週末、岸本と一緒に実家に行くって言っていたから、便乗しようか。あと、泉のお姉さんにも挨拶しなきゃな。本当ならサンディエゴに行って直接お会いしたいけど、とりあえずはビデオ通話ででも」 「そうね」  見るからに浮かれている蒼佑の姿は、同じく浮かれている佑にそっくりだ。 (二人とも、可愛い……)  来週末に、九条家に挨拶に行くことになり、泉と佑の服を新調して、手土産のリサーチなんかもきっちりとして。  今後について、蒼佑といろいろと話し合いをしていたら、だんだんと彼との結婚が現実味を帯びてきて……景色が色鮮やかに見えてきた。 (なんだかんだで……私も浮かれてるなぁ……)  何をしていても、ふと気づくと幸せを噛みしめている自分がいて、泉は苦笑したのだった。      ***     九条家訪問を翌日に控えた金曜日――泉はいつものように、岸本のマンションで仕事をしていた。 「泉さんも、明日、九条の実家に行くんだよね?」 「あ……はい。すみません、便乗させていただいて」  蒼佑から岸本に話は通っていて、もう実家にも伝えてあるそうだ。英美里からは、 『お兄ちゃんと泉さんもいよいよだね! 私も嬉しい! うちの両親ね、佑くんの写真と動画観てびっくりしてたの。お兄ちゃんの小さい頃にそっくりだって。だから会うのを楽しみにしてるみたい』  と、連絡が来た。  英美里の文面からは、蒼佑の両親が頭ごなしに反対している様子はうかがえないので、泉はとりあえずホッとしたのだ。  シンクで洗い物をしている泉の横で、マグにコーヒーを注いでいる岸本は、砂糖と牛乳をこれでもかと入れている。お子様舌は飲み物にも反映されているようだ。 「泉さん、九条と結婚したら仕事はどうするの?」 「しばらくは続けたいと思ってるんです。蒼佑さんも好きにしたらいいと言ってくれてるんで」  今のところ、一年くらいは働いて、それから家に入ろうかと思っている。蒼佑は好きにさせてくれるつもりでいるようだが、彼を支えたい気持ちが大きくなっているし、叶うなら、二人目もほしい。佑に弟か妹を作ってあげたいのだ。 「そっかー。じゃあ僕も、泉さんの後任を探さないといけないね」 「すみません。海堂社長にいい人を探してくれるよう、伝えておきますね」 「うん、よろしくね」  岸本に軽く頭を下げた時、エプロンのポケットに入れてあるスマートフォンが鳴った。 「あー……すみません、佑の保育園からです。具合でも悪くなったのかな……。はい、菅原です」 『白山(しろやま)ひまわり保育園園長の仲元(なかもと)です――』  てっきり担任の保育士からの電話だと思っていたので、園長だと聞いて泉は驚いた。 「園長先生? いつも息子がお世話になっております。どうかされましたか? 佑が何かご迷惑でも?」 『――実は、佑くんが誘拐されてしまいました。大変申し訳ありません』 「……はい?」  耳に聞き慣れない単語が入ってきて、一瞬、脳が困惑した。 『事情はお会いしてから説明させていただきますので、とにかくすぐ、白山警察署に行ってください』 「あ、はぁ……」  園長の切羽詰まったような声音に気圧され、どう反応したらいいのか分からなかった。  自分が電話を切ったのかも覚えていないまま、数十秒経って。 「……泉さん、何かあったの? 顔色真っ青だよ」  岸本が心配そうに顔を覗き込んできて、ようやく我に返った。 「佑が……佑が、誘拐、された、って……」 「えぇっ! どういうこと!? 泉さん、しっかりしなさい! ほら、早く行かないと! どこに行けばいいの!?」 「白山、警察署……」 「分かった! 僕が車で送っていくから、すぐ準備して! その間に九条に連絡しておくから!」 「は、はい……っ」  泉は弾かれたように動き始めた。エプロンを外してバッグに突っ込み、震える手でスマートフォンを操作する。相手は上司の夏子だ。事情を説明すると、 『こちらは心配しないで、とにかく早く行ってあげて!』  と言ってくれた。  岸本が車のキーを持って「行くよ!」と、背中を押してくれたので、言葉に甘える。  助手席に乗ると、すぐに車は駐車場を出た。 「――九条には電話しておいたから。すぐに来るって」 「あ……りがとう、ございます」  泉は膝の上でバッグを握りしめながら、お礼の言葉を呟いた。 (どうして……? どうして佑が……)  すぐに頭に浮かんだのは、悠希だった。あの時垣間見えた、佑に対する執着めいたものが、今でも忘れられない。  だから悠希が佑を連れ出したのだろうかと、初めは思った。  でも悠希は……計画的に泉を陥れたほどの狡猾な男だ。もし佑を手に入れるとしても、もっと上手くやるはずで、こんな無謀なことをするとは思えない。 (じゃあ、誰が……?) 「佑……」  知らない人に連れていかれて、怖いだろうに。  ケガなどさせられていないだろうか。  泣き叫んでいないだろうか。  とにかく、無事でいてほしい。 (神様、お願いします……。佑を……守ってください)  泉は心の中で、ずっとそう願い続けた。 「――さん、泉さん」 「は、はい」 「着いたよ、警察」  ハッと顔を上げ見回すと、そこは駐車場だった。前方に目を移せば、無機質な建物があり『白山警察署』という文字が見えた。  泉は慌てて助手席から外に飛び出した。  建物に入り、近くにいた職員に佑の件を告げると、すぐに別室に案内された。そこには、佑の担任の杉原(すぎはら)と、園長がいた。 「菅原さん! 申し訳ありません! 佑くんが……!」  杉原は立ち上がり、頭を下げた。すでに散々泣きはらした顔で、しゃくり上げながら説明を始める。  曰く、保育士が数名で、園児たちを保育園隣の公園で遊ばせていた。公園内には親子連れ数組、木陰のベンチで読書をする女性が一人いたそうだ。  何分か経った頃、佑が他の園児とベンチのそばで虫を探してしゃがんでいたところ、読書をしていた女性が突然立ち上がり、佑を抱えて逃げ出したというのだ。  保育士がそれを目撃し、大声を上げて追いかけたものの、女は近くに停めてあった車に佑を押し込め、逃げていってしまった。 「本当に申し訳ありません、本当に……」  杉原と園長が揃って頭を下げる。  説明された状況を噛み砕いていく内に、だんだんとそれが現実なのだと思い知らされて。泉は身体が震えるのを、止められなくなった。 「あ、頭を上げて……ください。その犯人……女性だったん、ですか?」 「はい、二十代から三十代くらいの女性でした」  保育士たちは、逃走した車の車種とナンバーを覚えていて、すぐにそれを警察に通報してくれたという。  今、その車の持ち主を調べているところだと、同じ部屋にいた警察官が言った。 「あの……佑……私の息子が、狙われたんでしょうか? それとも、無差別……なんですか?」 「それはまだ分かりません。連れ去った犯人に聞いてみないことには。そろそろ、車の持ち主は分かるはずなのですが」  それから泉は別室に案内され、事情を聞かれた。  誰かに恨まれてはいないか、心当たりはあるか、など。  当然ながら誰かに恨まれる覚えは、泉にはない。けれど、悠希のことは話しておいた。 (佑……)  泉は胸を押さえた。佑の笑顔が浮かんでくるたびに、心臓が痛くなる。  その時、ドアをノックする音がした。 「泉……!」  入って来たのは、蒼佑だった。
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