第2話 別れと逃避

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第2話 別れと逃避

 医院をそうそう休むわけにはいかないので、日々心に蓋をして出勤する。  悠樹との結婚話は遅々として進んでいなかった。なんとなく、二人ともがそこに触れられないでいたから。  初めは「治療どうする?」と、彼に聞かれたりしたけれど「もう少し待って……」と、答えていたら聞かれなくなった。  自分の中で折り合いをつける時間がほしかったのだ。  そうして検査から二ヵ月が経ち……ある日の夜、悠樹に呼び出された。 「――泉ごめん、結婚の話はなかったことにしてほしい」 「え……」  最初、悠希の悲痛な声音が現実とは思えなくて、どこか気の抜けた返事をしてしまう。 「俺はやっぱり、子どもがほしいんだ」 「で、でも、ち、治療すれば……できるようになるって、医師(せんせい)が……」  顔から血の気が引いていくのが分かる。言葉がしどろもどろになる。 「泉の場合、治療しても妊娠できるか分からないんだろう? 正直……ゴールが見えないまま待つのはきついんだ」  悠樹はつらそうに言葉を絞り出した。  考えた末の結論なのだろう。  泉は黙り込む。考えて考えて。生唾を飲み込む音さえ響く静けさの中で、目を閉じて悠樹との未来を想像した。  ――想像して、そして……その光景を真っ白に塗りつぶした。 「……分かった。悠希は子ども好きだもんね。私じゃ、その願いを叶えてあげられないかもしれないし」 「本当にごめん」  悠希との別れは、あっという間だった。  それからは医院でもなるべく『普通の同僚』として接した。以前からそうだったけれど、心の中はやっぱり『恋人』で『婚約者』だったから。  悠希の態度も、前より少しだけぎこちないものになっている。他の人には分からなくても、泉にははっきりと感じ取れた。  つらいけど仕方がない――割り切ろう、吹っ切ろう。泉は自分に言い聞かせた。  そうしてなんとか別れを少しずつ癒やし続け、一ヶ月が過ぎた一月のある日のこと。医院を閉めて後片づけを終えると、院長にスタッフ一同集められた。 「皆さんに伝えておきたいことがあります。……実は、小川先生と私の娘の桜子(さくらこ)が、結婚することになりました」 (……え)  泉は目を見開いた。院長の隣には、新米歯科医として今年の四月に医院に入ってきた院長の一人娘と……悠希が並んでいた。  二人は仲睦まじそうに、顔を見合わせている。 「結婚の経緯はまぁ、置いておくとして。これからもこの二人にはご指導ご鞭撻のほどを頼みます」  他のスタッフが二人をからかうように質問攻めにしていたけれど、泉の鼓膜にはその内容は一切届かなかった。  ただ分かったのは、桜子は半年前から悠希に想いを寄せていたらしい、ということだ。  泉と別れてすぐにつきあい始めたのだろうか。それにしても別れて一ヶ月、かなりのスピード婚だ。  悠希は泉の方をチラリとも見ない。気まずさを顔に表すことさえしない。もう完全に切り替えは済んでいるのだろう。  いくらなんでも早すぎる。その早さは、泉を打ちのめした。  頭の中がぐちゃぐちゃで、そして真っ白になった。心が切り裂かれたように痛くて、しばらくその場を動けなかった。  その後、誰もいない自宅に帰ってお風呂に入り、ベッドに潜り込んで、そうして――泣いた。涙が後から後からあふれて止まらない。 「うぅ……っ、ふっ……ひっ……っ」  別れた時でさえ、こんなに泣かなかった。だけど――  悠希と桜子の幸せそうな様子を見ていたら、やっぱり女として失格の烙印を押された気がして。  思わずスマホを取り、メッセージアプリの通話ボタンを押した。何回か呼び出し音が鳴った後「もしもし?」と、声がする。 「お、ね……ちゃん……」 『……泉、何かあったの? こんな朝早く』  梢の声は少し掠れていた。泉の電話が起こしてしまったのだろう。サンディエゴではまだ早朝だ。申し訳ないと思いながらも、気遣う余裕がまったくなかった。 「起こして、ごめ……おね……ちゃ……わ、たし……結婚、ダメになっちゃ……た……」  本当は一ヶ月前に伝えなきゃいけなかったのに。言いづらくて、ずるずると今日まで引きずってしまった。  姉は電話の向こうで『えぇっ』と驚きの声を上げた。 『一体何があったの? 泉。泣いていないでちゃんと話しなさい』 「あの、ね……私、子どもできない身体……なんだって。ひっ……それで……婚約破棄、されて……っ。ひっ、それで……彼は、他の人と結婚……する、って……っ、ひっ……」  しゃくり上げながら、なんとか事情を伝えると、梢が息を呑む音が聞こえた。 『泉……』 「わ、たし……もう、結婚……で、きないの……かなぁ……」  今まで保ってきた自分自身がすべて崩れてしまった。もう元のように立ち直って組み立てられないかもしれない。  友達になんて言えない。今の泉には、姉しかいなかった。  電話口で泣いている泉の声をしばらく聞いた後、梢が静かに切り出した。 『――泉、歯医者さん退職してこっちに来ない? しばらくの間でもいいし、なんならずっとこっちで暮らすのもアリよ。スティーブもね、隣でこっちにおいで、って言ってくれてる。お金の心配も要らないわよ。こっちで仕事見つかるまで養ってあげる』  優しい誘惑だ。梢は妹にとことん甘い。……でも、そこまで寄りかかってしまっては、自分がますますダメになってしまう気がするのだ。 「さすがに……永住とかは無理だけど、少しだけ、遊びに行っていい?」 『もちろんよ。思い切り現実逃避させてあげるから覚悟していらっしゃい』  姉が張り切った口調で言い放った。  少しだけ元気を分けてもらった泉は、長く勤めた歯科医を辞めることにした。  院長には何故辞めるのか、君は貴重な戦力だから辞めてほしくないと引き留められた。けれど、悠希とのことをなかったようにしてそのまま働くなんて、できそうになくて。  新しい人の確保や引き継ぎもあったので、三月まではいると約束をしたものの、退職の意志は揺るがなかった。  高梨歯科医院での最終日――盛大な送別会を開いてもらえた。  悠希もいたが、これといって何も言われなかった。他のスタッフと同じような送別の言葉だけを口にしていた。 (終わる時って、ほんとにあっけないな……)  かなり引きずるかと思ったけれど、思いのほか平静を保てたし、悠希と桜子が並んでいる姿も動揺せずに見ていられた。  そうして泉は、学生時代から数えて六年間お世話になった職場に、別れを告げ――その後、姉が『現実逃避』の先鋒として用意してくれたビジネスクラスは、つかの間の贅沢な娯楽となって、泉の目を現実から逸らしてくれたのだった。
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