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第3話 出逢いは最悪
***
「……あ」
目の前の男を見て、思わず声を上げてしまった。まさかこんなところでも会うなんて。向こうも同じことを思ったのか、彼は泉の顔を見て、一瞬、目元を歪ませた。
海外の有名観光地で日本人と出くわすなんて、珍しいことじゃない。ホエールウォッチングの船上で会うことも、ままあるだろう。しかし――
「……君、どこの部署の人間だ?」
併走するイルカを『ずる賢い』と、情緒もなく笑っていた男が、ゴミを見るような目つきで泉を睨めつけ、意味不明なことを口にした。
「は?」
「俺たちの後をついて来るなんて、気持ちが悪いストーカーだな。いい加減にしろ」
吐き捨てられた言葉に、泉の頭の周りにはクエスチョンマークが飛び交う。
「? 何言ってるんですか? あなた」
「俺たちの行く先行く先に現れて、ストーカーじゃなければなんなんだ?」
「……ただの観光客ですけど」
姉夫婦の家を出た泉は、二日間、スティーブが手配してくれたガイドつきのリムジンであちこちの観光地を回った。
ドライブであちこちを巡りつつ、メインの観光地ではフリータイムを設けてもらい一人で回る、というスタイルを取ってもらった。
実はその先々で、この日本人カップルに遭遇していたのだ。
ラホヤビーチではアザラシを見て女性がキャッキャしていたのを見かけたし、ミッドウェイ博物館では日本軍VSアメリカ軍の解説を興味深げに読んでいる男性の横を通り過ぎた。
サンディエゴ動物園にいたっては、ガイドバスツアーで一緒になったのだ。園内を四十分ほどかけて回るツアーでは、女性が動物を見て興奮しているのを、男性が微笑ましそうに見ていた。後ろの方に座っていた泉からは彼らの様子がよく見えていたのだったのだ。もちろん、動物に見入っていたので、彼らのことなど大して気にも留めていなかったのだが。
これすべて、偶然の邂逅でしかない。
(まぁ、日本人だから観光する場所とかペースが似るのかもなー)
泉はこの程度にしか思っていなかったのに、この男ときたら!
「ラホヤでも博物館でも動物園でも、俺たちの後をついて来ていたろ? これ以上ついて来るなら、法的手段を執る」
男は泉を指差して、言い放った。
(黙って聞いていれば、この男はぁ~!)
見ず知らずの女性をストーカー扱いするなんて、完全に頭がおかしい。ついに泉の中で何かが切れた。
「あのねぇ! 私は、日本から来て一昨日までサンディエゴの姉の家にお世話になっていた、ただの旅行者! ……っていうか、あんた誰!? あんたのことなんて微塵も知らないし、これまでの観光地であんたたちと出くわしたのは、すべて偶然! 大体なんなんですか? どこの部署だとかなんとか。私は日本の歯科医院を先週退職したばかりの無職ですけど何か? あんたのこと何一つ知らないのにストーカーって! 自意識過剰にもほどがあるし、そっちこそいい加減にしてもらえ――」
その時、周囲から『わあぁ!』と、歓声が上がった。
泉は皆が指差す方向を見た。すると海面に何かが沈んだ波紋だけが見えた。
『コククジラですって!』
誰かが言うのが聞こえた。
いつの間にか船は海上で停まっていて、クジラの動向を皆が見守っている。どうやら観測地点に着いていたようだ。
船の左舷には乗客が集まっている。運悪く見られなかった人もいたようだ。泉もその中の一人だった。左舷のベストポジションにいたはずなのに。
泉は悔しくて声を荒らげた。
「っ! あなたが! 私に変な言いがかりつけてくるから! 瞬間を見逃したじゃないですか! サイテー! あれが見たくて来たのに! 私がストーカーなら、あなたは疫病神よ!」
言いたいことを言い終えた泉は、ふん! と、大げさに顔を背けてそこから離れ、別の場所に移動した。
(なんなのもう! ほんとムカつく!)
けれど、黙っていればかなりの美形だ。こんな出逢いじゃなければ目の保養になっただろうが、今の泉にとってはいろいろな意味で地雷でしかない。
しばらくして、先ほどのクジラが再び海面に上がってきた。そして背中から潮を吹いたかと思うと、大きな尾びれをひらりと揺らし、海中へ潜っていった。
「わぁ~! すごい! クジラだクジラ!」
素晴らしい光景に、憤っていたことなどすっかり消え失せる。
嫌なことは忘れよう、うん、と、もうあの男のことは思考の彼方へ追いやった。
それからも運よく、クジラの潮吹きは何度も見ることができた。
女性クルーがマストの上によじ登り、海のあちこちに目を配ってクジラを探す姿はすごくカッコよかった。見つけると『あそこにいるわよ!』と合図を送ってくる。何がなんでも乗客にクジラを見せてやらねばという執念さえ感じた。
そのおかげか、一度だけシロナガスクジラも見られた。シロナガスクジラの観測時期は主に六月から九月なので珍しいらしい。地球上で最大の動物の雄大な姿が感動的すぎて、うっかり泣きそうになった。
観測地点の遊覧が終わると、船はハーバーへ引き返し始める。
「はー……楽しかったなー。変な言いがかりつけられちゃったけど」
船にはいくつかクーラーボックスが置いてあり、ジュースやお菓子が入っている。主催者側が用意してくれたもので、好きに飲食してもいいのだ。泉はコーラを一本もらい飲んでいると、数メートル離れた右舷に、人がうずくまっていた。例の日本人カップルの女性だ。
「……船酔い?」
見ると、あの男性がいない。トイレにでも行っているのだろうか。なんとなく心配になり、近づいて背中を擦った。
「大丈夫ですか? 船酔い?」
女性は小刻みにうなずいた。見ると顔色があまりよくない。
「乗り物酔いの薬は飲んできたの?」
今度はかぶりを振った。小声で「乗り物酔い、初めてで……」と、小さく呟くのが聞こえた。
「とにかく、船は真ん中が一番揺れないから、移動しましょう?」
彼女の肩を抱き、真ん中あたりのハッチに座らせた。その時――
「英美里、どうした?」
戻って来た男性が、心配そうにひざまずいた。
「船酔いしたみたいです。薬は持ってないですか?」
「残念ながら、持っていない。薬疹が出る子なので下手な薬は飲ませられないんだ」
男は心配そうに女性の額に手を当てている。
「じゃあ、クーラーボックスの中にジンジャーエールとクラッカーがあると思います。それを持ってきてください」
「……分かった」
男はすぐに泉の指定したジュースとお菓子を持ってきた。
「少しずつでいいから、このクラッカーを食べてジンジャーエールを飲んでみて。科学的根拠は私にはよく分からないけど、ショウガとデンプン質は乗り物酔いにいい、って言われてるの」
彼女は泉に言われるがままに、ジンジャーエールとクラッカーを口にした。
「横になる時は、船の進行方向と平行になるようにね」
泉はデッキに自分のブランケットを敷くと、英美里と呼ばれた彼女を寝かせた。エチケット袋を広げた状態で横に置いておく。
英美里が言うには、クジラを見ている時は気分が高揚していて大丈夫だったけれど、引き返し始めたら急激にテンションが低くなり、具合が悪くなってしまったようだ。
泉は横になった英美里の背中を、しばらくの間擦っていた。
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