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第4話 海が運ぶ奇跡のきざし
「――ありがとう」
低く通る声が聞こえた。英美里のそばにいた男性の声だ。
「……いえ、困った時はお互いさまなので」
この男には嫌な思いをさせられたが、女性に罪はない。ましてや異国の地、日本人同士で助け合うのは当然だ。
「乗り物酔いの対処に詳しいんだな」
「私の姉が昔から乗り物に弱くて、少しだけ詳しくなりました」
昔から梢の乗り物酔いには家族が手を焼いてきた。大人になってからはよくなったが、小さな頃は近場に行くにもエチケット袋が欠かせなかったのだ。
男はどこか気まずげに泉に話しかけてくる。それもそうだ。さっきは有無も言わさず彼女をストーカー扱いして、法的手段を執るとまで言って脅したのだから。
あれで何事もなかったように普通に話しかけてきたとしたら、相当な面の皮の厚さだ。
「すまない、もう一度確認させてほしい。……君は本当に俺のことを知らないんだな?」
彼がしおらしげに尋ねてきた内容に、げんなりする。
(この期に及んでまだ言うのかしら……)
やれやれといった表情を隠さず、泉はため息をついた。
「しつこい。いい加減にしないと法的措置を執りますよ? さっきも言いましたけど、私はただ姉のところに遊びにきただけの観光客です。あなた方のことなんて知らないし、どこで何をしようと興味もないですから」
彼に言われたことをそのまま返す。ちょっとした意趣返しだ。
「そうか……さっきは申し訳ないことをしました」
意外な態度に、泉は目をぱちくりと瞬かせた。
「……さっきとは違ってずいぶん素直に謝るんですね?」
神妙に頭を下げて謝罪の意を示す男に、チクリとイヤミを口にする。無実の罪を着せられかけたのだ、これくらいは許されるはず。
「本当に失礼なことを言ったと反省しています。……それに、英美里を助けてくれてありがとう」
「お気になさらず。……英美里さんを見ててあげてください。私はちょっと……風に当たってきます」
泉は立ち上がり、右舷まで歩く。船の進行方向から吹く向かい風が心地いい。肩まで伸びた黒茶色の髪が乱れるのもかまわずにひたっている。
「ふぅ……」
右舷の向こう側――はるか前方に視線を移しても、陸地など一切見えない。海だけが、そこにある。水平線の上にも、やっぱり空しかない。
(海ってほんと広いんだなぁ……)
しみじみと思う。
『ママ、ほら! またイルカが見えるよ!』
弾んだ声の方を見ると、白人の小さな子どもが、母親の服を引っ張りながら、海を指差している。
行く時に見た、イルカの併走だ。
『あのイルカたちも親子かしらねぇ。仲よさそうに泳いでるわ』
『僕とママみたいだね』
『ふふふ、ほんとね』
とても仲睦まじい親子だ。今の泉には眩しすぎる。
(私には……永遠にああいう光景は訪れないのかな……)
今まで忘れていたのに。
思い出してしまうと、無性に切なくなる。永遠に続く海のように、手の届かない景色。
(泣かない。もう泣かない)
遠くを見つめながら、泉は懸命に涙を堪えた。潮風に瞳の表面を煽られてもなお、涙は流さなかった。
船がゆっくりと着岸すると、クルーの合図で乗客は下船した。皆が、『楽しかったよ』『クジラとイルカ可愛かったぁ』『また乗りたい』などと、口々に感想を述べながらデッキから去っていく。
泉もクルーに「Thank you so much.」と一言告げ、地面に足を着けた。近くの駐車場に、リムジンが迎えにきてくれているはずだけれど。
「すみません」
後ろから日本語で声をかけられた。女性の声だ。
「はい。……あ、えっと、英美里さん、でしたっけ」
「はい。さっきはありがとうございました。あれから、悪くならずに済みました。……これも、貸してくれてありがとうございました」
頭を下げた英美里が、おずおずとブランケットを差し出した。そういえば船の上で貸していたんだった。 両手で受け取り、小さくたたんでバッグに押し込む。
「具合がよくなったのならよかったです」
「あの……もしよかったら、夕食ご一緒しませんか? お礼をさせてください」
「あ、いいえ。お礼をしていただくようなことは何も……」
「――是非、お礼をさせてください」
横から男性の声が割り込んできた。英美里の同行者の彼だ。
「ほんとに大したことはしていないので、お気遣いなく……」
「お礼もそうですが、お詫びも兼ねています。ストーカー扱いしてしまったお詫びです」
男は眉尻を下げ「お願いですから――」と、縋るように言い募ってくる。ここまで下手に出られると、なんだか断りづらい。だけど……。
「あの、でも……お邪魔じゃないですか?」
「何がですか?」
「新婚旅行……ではないんですか?」
若い二人のカップルが観光旅行をしているのだ。新婚旅行の可能性が高いのではと、泉は勝手に思っていた。
さっき、英美里を心配そうに見つめていた彼を見ていて、少し羨ましく思ってしまった。だから二人の近くにいたくないと思ってしまい、気まずさもあって距離を置いたのだ。
「あー……そうか、そう見えたか」
「やだ、私たち夫婦に見えたんですか?」
二人は目を丸くし、顔を見合わせている。
「え……違うんですか?」
「英美里は、俺の妹です」
「妹さん?」
今度は泉が目を丸くした。てっきりカップルだとばかり思っていたから。
「私、東京の大学生で、春休みを利用して兄のところに遊びに来てるんです。……あなたと同じ」
「今さらですが、俺は九条蒼佑。妹は九条英美里と言います」
「私は……菅原泉、です」
あれだけ悪意を向けてきていた相手が、今は愛想よく話しかけてくる。なんだか調子が狂ってしまう。
話の内容から推測するに、蒼佑はアメリカ在住なのだろう。英美里は長期休みに兄の元に観光目的でやって来たというわけだ。
確かに彼女は、どこか彼に似ている。それにかなりの美人だ。
(美形兄妹かぁ……羨ましい)
これまで印象の悪さが先に立っていたけれど、改めて見ると蒼佑はこれまで会ったこともないほどの美青年だ。
黒髪は潮風に吹かれてサラサラと流れ、優しげに緩められた切れ長の瞳はきれいな二重。すっきりと通った鼻梁に血色のよい薄めのくちびる。どのパーツもきれいで、ややもすると見蕩れそうになる。
英美里は彼のパーツを女性用に作り替えたような顔をしている。違うのは、彼女は髪の色をブラウンに染めているところ。
泉も決して醜くはない。むしろ高梨歯科医院ではよく男性スタッフから声をかけられた。しかしこの兄妹の隣にいると、泉なんて完全に引き立て役でしかない。
姉の梢は欧米人好みのアジアンビューティだ。日本人好きする可愛いタイプではなく、シュッとした大人の女性といった佇まい。おまけに外資系勤務なので、あちらの男性からは結構モテたらしい。
梢は父親似、泉は母親似なので、この九条兄妹とは違いあまり似ていなかった。
「ところで菅原さん、ホテルはどこなんですか?」
「あ……グランドベイサイド・サンティエゴですが」
「わっ、菅原さんもグランドベイサイドなんですか! 私たちもなんです!」
蒼佑の問いにうっかり素直に答えると、英美里がパン、と嬉しそうに手を叩いた。最初は泉に適当に話を合わせているだけなのかと思った。けれど英美里がホテルのカードキーを見せてきたので、どうやら同じホテルに泊まっているのは本当らしい。
リゾート地のビーチ沿いにあるその高級ホテルは、スティーブが予約も支払いもしてくれていた。申し訳ないと思いつつ甘えさせてもらっているのだ。
「それならなおさら、夕食をご一緒しましょう。あそこのステーキハウスは美味しいですから」
「うんうん、是非是非」
同じ笑みでうなずいている美形兄妹のキラキラぶりに気圧され、泉はつい「わ、かりました……」と返事をしてしまった。
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