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第6話 非日常に酔わされて
「このホテルのバー、見晴らしがすごくいいんですよ」
英美里がうきうきした様子でエレベーターに乗った。
「英美里はあまり飲みすぎるなよ。そんなに酒強くないんだから」
「すでに顔赤いですもんね、英美里ちゃん」
三人はホテルの上層階へ向かっている。二次会と称し、バーで飲むつもりだ。
食事代はすべて蒼佑が出してくれた。レストランを出てから「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」と告げれば「これでお礼とお詫びになるとは思えないけど、満足してもらえたならよかった」と、蒼佑は笑った。
英美里は食事の時に飲んだワインのおかげで、すでにほろ酔い状態。蒼佑がたしなめている。
その間にエレベーターは目当ての階に到着する。三人揃って下りた途端、誰かのスマートフォンの呼び出し音が鳴った。
「あ、私だ。……ごめーん、彼から電話。先に行って飲んでて」
英美里はスマホを耳に当てながらきびすを返す。「もしもしー? そっちは早朝なのに大丈夫なのー?」などと話しながら、エレベーターホールの隅っこに留まっている。
「どうします? 蒼佑さん」
「あいつは電話し始めると長いから、先に行こう」
すぐには通話が終わりそうにない英美里をそのままにし、二人は歩き出す。
「英美里ちゃん、日本に彼氏がいるんですね。あれだけ美人だといないはずないか」
「……実は大物議員の息子とつきあってるんだ」
蒼佑がこそりと耳打ちしてきた。
「へぇ~、すごい!」
間接照明がムードを演出するラウンジバーのカウンターに、二人で並んで座る。
泉はカクテルのアフターディナーを、蒼佑はビールのIPAをオーダーした。
ステーキハウスでも軽くワインを飲んでいたので、ここではほどほどにしようと、サーブされたカクテルをちびちびと口に運ぶ。
そのペースで半分以上飲み進めても、英美里が来る気配はない。
「……英美里ちゃん、遅いですね」
バーのエントランスをちらりと振り返りながら言うと、蒼佑がはぁ、とため息をついた。
「これは多分……やられたな」
「え?」
どういう意味だと彼の顔を見れば、苦笑いをしている。
「英美里が変な気を回して、俺たちを二人きりにしてるみたいだ」
「……はい?」
「多分あいつは、俺が君に興味津々だってことに気づいてる」
(……ん?)
一瞬、何を言われているのかと思った。幾度かまばたきをすると、蒼佑は堪えきれないといった様子でクッと笑みを漏らした。
「信じられない、って顔をしてる」
「あ……え? だって、そんな……」
これまでに、この男の気を惹くエピソードがあっただろうかと、思案を巡らせる。
(……ダメだ、何も思い浮かばない)
眉間にしわを寄せてみても、まったく分からない。
蒼佑は二杯目に選んだゴッド・ファーザーのグラスに目を留めたまま、静かに語り出す。
「船の上で、君が俺に怒った時の目……怒りで真っ赤に燃えているのに、明るく澄んでいてきれいで……それがやけに新鮮だった」
蒼佑が今まで女性たちに向けられた瞳は、大抵、粘着質な光を宿していたという。特に例のストーカー二人の目は、ドロドロに淀んでぞっとするほど暗かった。
だから泉のようにまっすぐ透き通った眼差しは、とても眩しく感じたそうだ。
「英美里を介抱してくれた時の君は、すごく真剣な目をしていた。俺があんなにひどいことを言ったばかりなのに、上辺だけじゃなく本当に英美里を心配してくれて、汚れるのも気にせずブランケットを敷いてくれた」
「だからそれは、同じ日本人として……」
蒼佑が真面目な顔で感謝するほどのことなんてしていない。だから申し訳なくて、声を上げた。もちろん、周囲の迷惑を考えたボリュームでだけれど。
「――それから……英美里を助けた後に海を見ていた君の目はひどく悲しそうで、痛みを堪えているようだった。不安定で、今にも脆く崩れそうで……見ているこっちがつらくなった」
「見てたんですか?」
イルカを見ていた親子に、きっと来ない自分の未来を重ねて泣きたくなったあの時――まさか、蒼佑に見られていたなんて知らなかった。
「いろんな表情を見せる君のことが、気になって仕方がなくて。……はは、これじゃあ俺の方がストーカーみたいだな」
蒼佑が自嘲しながらこちらを見る。その表情がやけに色っぽくて、ドキリとする。
「英美里ちゃんがそれに気づいて、私たちに気を遣ったということ?」
「……おそらく」
「こうしてお兄ちゃんの後押しをしたということは、私は英美里ちゃんに気に入られてるのね」
「……かなりね。ホテルに帰る車の中でも、クジラより君の話題の方が多かったくらいだ」
肩をすくめる蒼佑に、泉は首を傾げた。
「そこまで好かれるほどのことなんてしてないのに……」
「英美里はきっと、君をお姉ちゃんのように思っているんだ。……うちは男所帯だから」
蒼佑の家庭は両親もちゃんと揃っているが、兄弟は蒼佑、長弟、英美里、次弟と、男ばかりだそうだ。英美里は一人娘で家族に可愛がられているが、彼女は常々「なんでも相談できるお姉ちゃんがほしかった」と言っていたらしい。
そんな時に突然現れて、なんの見返りも求めずに甲斐甲斐しく面倒を見てくれた泉は、英美里にとっての『理想の姉』だったに違いない――蒼佑が語った。
「――だから本当は、俺を通じて君を自分の近くに繋ぎ留めておきたいんだと思う」
「そうだったの……」
ふいに静寂が訪れる。
知り合って間もないけれど、英美里も蒼佑もいい人だなぁ……と、しみじみ思った。
出逢いはともかく、それ以降はとても心地よいひとときを過ごさせてもらっている。
日本に帰っても縁が続くといいな……そう思えるほど、この兄妹との時間は楽しかった。
お酒が進むにつれて、話は盛り上がる。時折笑い声が立つほどだ。
蒼佑につられ、泉も饒舌になる。
だからつい、サンディエゴに来たわけを話してしまった。
婚約者がいたこと。
ブライダルチェックで不妊だと診断されたこと。
子どもを欲しがっていた彼に振られてしまったこと。
その後すぐ、彼が他の女性と婚約したこと。
「……ごめん」
「え?」
「君は傷心を癒やすためにここに来たのに、俺は……」
傷を抉るようなことを言ってしまったと、蒼佑が口調に申し訳なさを滲ませた。
(あー……失敗したかも)
軽く話してしまったけれど、よくよく考えてみれば内容は結構重い。しかも彼の罪悪感を引きだしてしまったし。こんな場で聞かせる話じゃなかったと反省する。
「もう謝らないで、って、さっき言ったでしょう?」
泉はムッとした表情を蒼佑に向けた。もちろんわざとだ。これくらいしないと彼の謝罪は止まらない気がしたから。
蒼佑はふっと笑う。
「分かった。もう謝らない」
「蒼佑さんって、ほんと真面目。羽目を外すことなんてあるの?」
泉はふふふ、と意地悪く笑う。アルコールのせいか、目元が熱い。でも気分は高揚しつつある。
「もちろんあるよ。今も、泉さんのおかげで楽しい酒を飲んで、内心羽目を外してる。英美里の思惑に乗るのもシャクだけど……俺は、泉さんとのことをサンディエゴだけで終わらせたくない。もっと、君のことが知りたい」
蒼佑が真剣な面持ちで泉を見つめてくる。瞳の奥の奥まで見透かされそうな眼差しに、心臓が跳ねた。彼に心の中を読まれたのかと思ったから。
「蒼佑さん……」
「君にひどいことを言ってしまった俺には、そんな権利はないのかもしれない。けど『許す』と言ってくれたから……君の優しさにつけ込もうと思う」
きれいな切れ長の瞳を甘く細めて、蒼佑が告げる。
「……」
言葉の通じない異国。
ムードたっぷりのラウンジバー。
極上の美貌を湛えた男。
――足下からふわふわと浮き上がりそうなほど、非現実的なシチュエーションだ。
(これも現実逃避……なのかな)
アルコールでほどよく緩くなった頭が、硬く結ばれた心の紐を解いていく。
泉が蒼佑の手を取ったのは、それから数呼吸後だった。
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