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ラーメン屋のポイントカード⇄大学の参考書
書き心地の良いシャープペンシル⇄天体望遠鏡
自転車⇄修学旅行で買った木刀
サボテンの鉢⇄新作のゲーム
お気に入りのシュシュ⇄コーヒーメーカー
タバコを吸う権利⇄ノートパソコン
高校の頃の制服⇄モバイルバッテリー
大きな豚のぬいぐるみ⇄ブログの編集権限
高性能スピーカー⇄貰い物のポストカード……
開いた手帳に並ぶ記録。見開きでもう1頁と半分近くを埋めている。こうして一々書き残しているのは、我ながら律儀だと思う。
バスの車内、前側の席で小さな子が声を振り絞って泣き始めた。どうやら横に座る母親が持った玩具を彼は触りたいらしい。ちょうだい、ちょうだいと上擦った声で叫ぶ。母親はぴしゃりとその要求を跳ね除け、静かにするよう強く戒めているが、泣き声はますます大きくなるばかり。
こういう光景に出くわすと、自分自身が何か間違えたかのように居心地が悪くなる。だから手帳を閉じて、気を逸らす為に窓の向こうを見る。5月の昼下がり。見慣れない街並みと、どこでも見慣れたチェーン店の看板。
バスのエンジンがかかり、振動が身体を伝う。唸るような駆動音に子供の泣き声が紛れる。車内アナウンスが流れ、聞き取れない滑舌で目的地を伝える。
そして出発直前、彼女がステップを踏みバスに乗ってきた。ベージュのチュニックとデニムパンツ。括った髪を靡かせて。
「お疲れさま、ヒロ」
そう言って彼女は隣の席に腰掛ける。花の香りがふわりとする。
「お疲れさまです。遅かったですね」
「うん。劇場出た後に同期と少し話してたから」
「ああ、何人かいらっしゃってましたね」
「うん。でもこのバス逃すと次だいぶ後だから、そこそこに切り上げちゃった。ねえ、今日の劇どうだった」
「まあまあですかね。役者さんは頑張っていたと思うんですけど、演技の質はもうちょっとって感じ」
ぷしゅー、と音を立てて乗車口が閉まり、バスが走り出す。
「アカネさんはどう思いました」
「けっこう面白かったと思うよ。やっぱり英語劇でオリジナル作品をやるのが良かったね」
「それはそうですね」
「こういう演目、いつも大体シェイクスピアとかだし。話の筋を知っていると、演技が退屈な時に眠くなっちゃうから」
「眠るべきか、眠らざるべきかですね」
「ふふ、それ全然上手くないし、面白くないね」
「辛辣ですね」
そんな中身のない会話をくだくだと続ける。得るものはきっとないけど、子供の泣き声でざわついていた心は落ち着く。気づけば件の子供も、ぐずつくのを止めたようだ。
車中に聞こえるのはエンジン音とくぐもったアナウンス。そして隣の彼女の柔らかい声音だけ。
「それで、次は何にしようか」
彼女が尋ねる。いつものように。
「またゲームとかどうですか」
「そうだね、それありかも。ちょうど今やっているゲーム、終わったところだし」
「自分で何か買ったんですか」
「うん、それこそ前に借りたシリーズの、一番最初のタイトルをね。リメイク版がアプリであったから。ラスボスが有名なあの台詞言ったよ。世界の半分をやろう、ってやつ」
「だいぶレトロゲームですね」
「シンプルだったけど楽しめたよ。だからまた何か新しいの、貸して欲しいかな」
「良いですけど、レトロゲームの次にプレイするのがまた最新のゲームって、技術の高低差に酔っちゃいそう」
「私、けっこう鈍感だから平気だよ」
バスが停車して、何人かが乗り込んでくる。混み合ってきた車内で、彼女は身体をこちらに寄せる。体温がじんわりと服越しに伝わる。
「世界の半分」
耳元で囁かれたその声は、魔法の様に頭に響く。
「もらえるってもし言われたら、ヒロはどうする」
「もらえたとしても、困りますね」
くらくらしそうになるのを止め、平静を保って答える。
「維持管理とか、色々大変そうですし」
「そうだね、私もそう。いきなりはいどうぞ、ってなっても心の準備ができていないし。だから、勇者が聖人君子だからとか関係なく、魔王のあの提案を受けるのって難しいんじゃないかな」
「そうかもしれないですね、魔王は交渉が下手だった」
「そうそう。それこそ最初はお試し期間とか用意すれば良かったんだよ。一週間とかで」
「勇者よ、世界の半分を貸してやろう、って」
「うん。その提案なら私、少し考えるかも」
「貸し出される世界側からしたら、たまったものじゃないですね」
話しながら、私は勇者となった彼女の姿を想像する。最終決戦の舞台で、お試し期間に逡巡するアカネさん。さらに魔王の一押し、先着一名様に魔王城のふかふかベッドをプレゼント、なんて。
「あ、次の停車場で私降りるね。ボタン、押してもらってもいいかな」
「人差し指で、ですか」
彼女は頷いたのを見て、窓枠のボタンを右手の人差し指で押す。ピンポン、と音が鳴る。
「今回借りたその指、中々上手く使えなかったなあ。会うタイミングがないと、こうしてお願いできる機会がないし」
「そうかもですね、私はこの指使えないの、不便でしたけど。エレベーターのボタンを押したり、講義中ノートを取るのも、ご飯を食べるのだって、人差し指使わずにするのって意外と難しかったですから」
「ヒロがまごまごしている様子、見たかったなあ。可愛かったろうに」
「揶揄うのはよして下さい」
本当に思っているのに、と彼女は口を尖らせる。表情豊かな彼女のこうした所作は人を惹きつける。
「でも、そっちを困らせているだけなら、今回の貸し借りは今日で終わりにしよっか」
「そうですか。じゃあアカネさんから借りている試験対策ノート、週明けの古典の講義に返しますね」
「うん、お願い。その時に次に貸し借りするものもお互い持ってくることにしようか。ヒロは今度、何か借りたいものはある」
「今回は特にないですね、お任せします」
「了解。貸したいもの、実は思いついているから、それを持ってくるね」
「え、何ですか」
「知りたいの」
頷くと、アカネさんはこの手を取って、人差し指を立たせる。そしてそのまま自分の口元まで運んだ。伸ばされた人差し指の側面に、彼女の柔らかい唇が触れる。
しーっと、口の隙間から空気を漏らして。ナイショ、と彼女は悪戯な表情で言う。
「人差し指を使う権利、返す前にせっかくだから、また使わせてもらっちゃった」
「そういうの、あまり他の人にやらないで下さいね。変な勘違いさせるから」
「大丈夫。流石に彼氏でもない男の人とかにはこんなこと、しないよ」
バスが停留所に止まる。彼女は腰を上げて、ひらひらと手を振る。
「じゃあまた週明けに」
「はい、彼氏さんによろしくお伝えください」
彼女の後ろ姿が去っていく。そのポニーテールの揺らぎをぼんやりと、私は眺めている。
彼女がいなくなったバスはまた、次の目的地に向かって動き始める。振動に身体を預けながら、私は自分の人差し指を見る。先ほどまで、彼女に貸していた指。
彼女の唇の触れた部分を自分の口元に持っていこうとして、止めて。代わりに私は手帳を再び開く。リストの最後に一行追加する。バスの振動で揺られて、歪んだ文字。
講義ノート⇄人差し指を使う権利
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