0人が本棚に入れています
本棚に追加
大学が終わり、部屋に帰る。しんと寂しい室内で、来週の講義の課題でもしようかと考えたが、結局冷蔵庫に冷やしていた発泡酒に手をつける。外は夜というのにじんわりとしていて、次第に訪れるであろう梅雨の季節を匂わせている。それを肴に、ぐぴりと喉を潤す。ついでに冷蔵庫の上に置いていたタバコの箱から一本取り出して、口に咥えて火をかちり。煙が上るのを見つめて、それから少しだけ喉奥に。咳き込みそうになるのを耐えて、灰のざらざらした味を感じる。
机に上体を寄りかからせながら、手帳を開く。いくつかの貸し借りの記録。
私はその一番上の文字をなぞる。
折り畳み傘⇄O・ヘンリーの短編集
大学一年の頃。新勧コンパでのことだった。
ファミレスからの夜の帰り、外は急な激しい雨。雨が止むまで二次会に行こうとする集団に混じることもできず、軒下でぼんやりとしていた。
「傘、ないのかな」
その時に話しかけてくれたのが、アカネさんだ。
「君、一年生だよね。なかったらこれ。使っていいよ」
「でも」
彼女が鞄から差し出した折り畳み傘。だが、それはきっと、一つしかない傘で。
それに私だって、コンビニで傘くらい買える。そう伝えようとしたのだが、彼女は首を横に振った。
「いいの。私は今日濡れて帰りたい気分だから」
そう言った彼女の笑顔をずっと忘れられなくて。私は初めてその日、大人と少女の境界を面と向かってみたのだ。あどけなく、清楚で、そして儚くて。
「あの、じゃあ」
だから、私は彼女に何かを差し伸べたくて。咄嗟に鞄から一冊の本を出した。O・ヘンリーの短編集。
「代わりにこれ、貸します。お返し」
「O・ヘンリー?」
「はい。原文とかじゃなくて全然珍しくもない訳本なんですけど。でも、私にとっては中学生の頃に買った思い出の本なんです。こうして、お守りがわりに時折持ち歩いていて、大切なんで」
私の素っ頓狂な説明を聞いても、彼女は笑わずに、それどころか心配そうに尋ねて。
「そんなものを、私に渡していいの」
「いいです。だって先輩は自分が濡れても傘を貸してくれるから。それに見合うものを貸さないとフェアじゃないです」
「フェアじゃ、ない」
「ええ。本当は先輩に濡れないで欲しいですが、それを押し付けるのはエゴが過ぎるので。いや、この提案もエゴかもですけど。でも良い方のエゴかなって、多分。あ、でもその本はあまり濡らさないでもらえると嬉しいです」
自分でも何を言っているかわからない。言葉がどんどん上滑りするのを自覚して、耳の辺りが熱くなる。
そんな私の手から、でも彼女は文庫を取った。代わりに折り畳み傘を乗せる。
「ありがとう。じゃあ、交換。濡らさないように気をつけるね」
提案しておきながら、まさか受け入れられるとは思わなかった私は、ああ、だの、うう、だのと唸ったように返事をしてしまう。
そんな私に彼女は微笑んで、それから土砂降りの中、本を胸に抱え、背中で守るようにして駅まで走っていった。
それが始まりで、ずっと貸し借りを続けている。何も産まず、進まず。彼女の気まぐれで、あるいは私の未練で関係は続いている。
気づけば空き缶は3個目になろうとしている。酩酊した体を持ち上げて、ベッドの上に倒れ込んだ。今日借りたドリームキャッチャーを鞄から取り出し、窓枠に吊り下げた。
ドリームキャッチャー。これをどこで買ったのか、誰と買ったのか。前の彼氏、それとも今の。旅行先で、二人肩を寄せ合って。互いの夢の話をしたりして、きっと。
スマホを取り出して、フリックして文字を紡いで。それから彼女に送信。
『次からはもうやめにしたいです。この貸し借りの関係』
目の端にも映らないようにベッドの下に落として、ふらふらする視界を瞼で閉じる。
ドリームキャッチャー、どうかせめて、夢だけを私にください。
最初のコメントを投稿しよう!