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それは戦時下の六月。
去年からのB29の絨毯爆撃により、街は何もかもが焼き払われておりました。焼夷弾であぶられた瓦礫の街のそこここを、すすけた顔つきの疲れきった人々が、虚ろな様子で歩いております。勇ましく日本を守っている筈の兵隊さん達まで、心無しかくたびれた様子でした。
倒れた電信柱、焼夷弾の油の跡を残した道。もう泣き声を上げる力も無い赤子を背にした母親。――いえ、赤子はもう死んでいるのでした。その証拠に、白く濁った瞳をして、蛆がたかっているのですから、生きている筈もありません。薄汚れた不潔な包帯に血をにじませた怪我人が、手押し車に乗せられ運ばれて行きます。薬が足りないから、どうせ助かりはしないと、生きたまま焼かれている人がいるという噂は本当でしょうか。辺りには一面に腐臭がただよっています。
これが、あの華やかだった、文化の中心であった東京なのか。その悲惨な光景は、空腹とあいまり、私の足からも歩く力を奪っておりました。
この有様を見ていれば、少し目端の利く人なら、国が負けかけていることは――いいえ、すでに負けていることは、明らかであったと思います。後はただ、命がけの意地の張合いでしかなかったのです。
その日私は瓦礫の影に隠れ、めそめそと泣いておりました。お尻の下にある瓦礫が尖って痛むことすら、意識にも昇りませんでした。
住み込みで働いていた店は閉店。御主人様達も使用人を置いて疎開してしまい、この広い街に寄る辺もなく、帰ろうにも田舎は遠く――なにより私には、元々裕福でもない自分の家が、今どのような有様なのかが、よく分かっておりました。
ご主人様達の疎開が決まってすぐに、その旨を実家に書き送りましたら、母からの返事には、最近は食べるものにも事欠く有様だとあり、私の帰る場所はもう無いのだと、悟らざるを得ませんでした。
闇市は動いているとの話でしたが、懐はとうの昔に軽くなっておりました。炊き出しはあったものの、それだとて早い者勝ちで、私のような者は食事にありつけない日も多く。外食券を持っていても、肝心の食堂の方に材料がなければ、どうしようもありません。
食べる物もなく帰る所もなく、果して自分はこのままここで朽ち果てるのかと思いながら彷徨い、そのうち力尽きて座りこんでいたのです。それで立ち上がる気力も沸かぬままに、ただひたすら泣いておりました。
やはり私はここで死ぬのでしょうか。空腹も限界を過ぎ、少し感覚が鈍くなってきたような気がいたします。
苦しむこともなくこのまま死ねるのならば、いっそそれもいい。雇い主から捨てられ、実家からも見放され、この広い都会で、お友達のひとりもおりません。そんな私に、これ以上の何が出来るというのでしょう。
半ば自棄だったのかもしれません。私はそんなことを思いながら瞼を閉ざしました。お下げ髪が首筋をすり抜けて落ちるくすぐったさも、ろくに感じませんでした。
せめて最期くらいは、綺麗なものを夢見ていたい。
どうせならば美しい花の咲く野原を、少女雑誌に載っていた小説の中にあったような美しいお友達と――
「貴女、どうしたの? もしかして行く宛がないの?」
項垂れていた私の顔に影が落ちました。
柔らかな声に導かれておずおずと見上げたそこには、今時珍しい洋装の、大層美しいお嬢様が居らしたのです。
淡い紫のワンピースを着ておられました。弓なりにすっきりと流れる眉。大きな瞳は優しく細められておりました。長い髪は結い上げられており、ワンピースと共布のリボンが、よくお似合いでした。まるで私の空想の中から現れたようなお嬢様です。
夢想の中に現れた佳人と違うのは、その方が背後にしていたのが、荒れ果てた一面の瓦礫野原だったことでしょうか。
「聞こえなかったかしら。もしかして、行く宛がないの?」
私は夢見心地のまま頷きます。その人は笑みを浮かべると、背後に立つもうひとりに声をかけました。
「ねえ、どう思う?」
「いいんじゃないかな」
「そうね。きっとそうだわ」
そのお嬢様は、私に手を差し伸べられました。
「死にたくないなら、お立ちなさい」
小振りな唇から、もう一度涼やかな声が流れ出ます。
「こんな所でのたれ死にするには、貴女はまだ若いわ。私達に付いていらっしゃい。……立ち上がる元気はあって?」
その方の美貌に陶然として、無意識にかぶりを振ると、すぐに横あいから力強い腕が出てきて、起こしてくれました。
先ほどお嬢様と話しておられた、もうひとりの方。麗しい方でした。こちらも今ではあまり見かけなくなった、麻地の立派な三つ揃いを粋に着こなしていらっしゃいました。柔らかそうな髪の下から、意思の靱さをうかがわせる、輝く瞳が覗いています。凛々しく美しい青年です。
何という稀な一対であったことでしょう。天人天女もかくやというお二人が並ばれた様は、それこそまるで、少女雑誌に載っていた絵物語のよう。
私は己の穿いた継ぎ当てだらけのモンペがみっともないことすら忘れて、おふたりの姿に見蕩れておりました。
美しい青年が微笑まれます。先程掴まれた腕に、急に熱を感じました。
途端に――なんてことでしょうか。私のお腹から盛大に虫が鳴いたのです。私はもう、穴があったら入りたい心地でした。お二人は顔を見合わせると、楽しげに声を立てて笑われました。下手に気遣われるよりはいっそマシでしたが、やっぱり穴に入りたい気持ちに変わりはありません。
「こりゃ、すぐには死にそうもないね。いっそ安心だ」
殿方の方が仰います。
「無理に、とは言わないよ。でもね、僕らに着いてくれば、贅沢は出来ないけど、餓えることだけはないと約束出来る」
何故こんな事を仰るのだろう。何故私に声をかけられたのだろう。餓えて座りこんでいる者など、そこかしこに居たでしょうに。
――後に、何故あの時私に声をかけたのかと伺ってみたところ、年の頃が近そうだったのがひとつ、あとは貴女が可愛らしかったからだと、お嬢様がころころと笑いながら仰いました。でも結局、私は随分と運が良かっただけなのかも知れません。あの頃はあちこちに親を亡くした浮浪児が溢れかえっていて、私を見つけて下さったのは、いっそ奇跡に思えました。
そう、あの時の私は、見ず知らずの方の誘いが魅力的に思えてしまうほど、気持ちが弱っていたのだと思います。藁にもすがる思いで、何度も頷いてしまいました。
「良かった」と言って、お嬢様の方が頷かれます。
「私は静乃。こちらは晶。私達いとこなの。貴女、お名前は?」
「あの、千代と申します……」
数日の間食事にありつけず、か細い声しか出せなかった私に、静乃お嬢様は笑みを浮かべて頷かれました。
「さあ、参りましょう。貴女はまずお粥から食べた方が良さそうね。何日も食べていなかったのではなくて?」
「は、はい……」
頷くと同時に静乃様から手を引かれたとき、私はきっと真っ赤になっていたことと思います。泥に汚れてあかぎれだらけの私の手に対して、静乃様の手の、なんと滑らかで柔らかかったこと!
手を預けていることが急に恥ずかしく思えて、私はつい、そろりと己の手を取り戻します。静乃お嬢様は「働き者の手ね」とだけ仰って、私の手をもう一度引くと、宝物のように握って下さいました。
その途端私は、再び泣きだしてしまって、泣いて泣いて声が出るほど泣いてしまったのです。
お二人はそんな私に何も言わず、好きなように泣かせてくださいました。
お二人の手に縋るようにして歩くことしばらく。辿り着いたのは、焼け野原になった東京にも、まだこんなに緑を残した場所があったのかと驚かされるような、こんもりとした森の直中。目の前には白亜の建物があります。
「ようこそ僕らのお城へ」
「さあ入って。ここが今日からあなたの家よ」
――そこで私は、どうやら気を失ってしまったようなのです。
これが私とお二人との出会い。非常時下の東京の街でした。玉音放送――あの、安堵と虚脱と、やるせなさ、情けなさが、町中に幾重にも慟哭を生んだ放送が行われる、ふた月ほど前のことです。
あのお屋敷で過ごしたのは、ほんのわずかな間。ですがそのふた月は、私にとって、何にも代え難い、そして生涯忘れることなど出来ない時であったのです。
目が覚めた時には、夜もとっぷりと暮れておりました。ここはどこでしょう。一体何があって、私はこんな場所にいるのでしょうか。
「良かった、目を覚ましたのね」
涼しげな声に飛び起きた私は、己が上等な敷布に包まれて眠っていたことを知りました。同時に気絶する前の事も一気に思い出しました。
衣も着替えさせられていて、モンペをはいていたはずが、洋風の寝間着姿になっております。
「静乃様……あの、これは一体」
「いやね、様なんてつけなくていいのよ。――貴女随分と疲れていたのね。よく眠っていたわ」
「も、申し訳ございません!」
ここ数日、風呂にも入れず街中をさまよっていた汚れた身で、上等な寝台を汚してしまったと、咄嗟に思いました。
「謝るようなことは何もないわ。さ、それよりお腹が空いたんじゃなくて? これから作るのだけれど、こちらに運ぶ? それとも食堂に下りる?」
「あ、あの、それでしたら食堂で……」
「分かったわ。じゃあ、下りましょうか」
促されるがままに部屋を出て、呆気にとられざるを得ませんでした。
これは翌朝になって気付いたのですが、森の中に建つのは、洋館――正しくは、元は立派だったのであろう、洋館の跡地だったのです。
中はといえば、空襲のせいでしょうか、二階は半分方焼け落ちていて、無事なのは右翼の一部屋とその露台、たったこれだけでした。つまり私がいた二階で無事に残ったのは、あの部屋だけだったのです。
壊れた半分の棟は、炎に焼かれ、崩れ落ちて煤けてしまっております。柱は焼け焦げ、まだ辺りには焦げ臭さが漂っている気がいたしました。
ああ、なんて勿体ない! 元はきっと綺麗なお屋敷でしたでしょうに!
私は恐る恐る、床に開いた大穴から下を覗き込みました。
「ほ……本当にここにお住まいなのですか」
「そうよ」
「不用心では……」
「そうでもないのよ。残った部分は案外頑丈みたいだし、それに誰ひとりとして寄りつく人はいないもの。今はみんな、それどころではないのじゃなくて?」
静乃様はなんてことないかのように首を傾げます。どこからともなく、もう一人の声がします。
「住めば都って言うだろう? こう見えて無事に残った部屋もあるし、何より温室が生きているからね。僕と静乃は、大半の時間を温室で過ごしているんだ」
「晶様」
「様、はよしてほしいなあ。君は使用人じゃないんだから、そんなに畏まらなくていいんだよ」
階段を上がってきた所で、晶様は壁に凭れて苦笑しています。当時の私は、殿方の前で寝間着ひとつでいることを気にする余裕もありませんでした。
「まあ元々、ここは僕の家ではあったんだ。それが空襲でご覧の有様でね。それでもかろうじて寝泊まりは出来るから、そのまま住んでいるってわけ」
確かに、私が先ほどまで眠っていたお部屋も、廊下にさえ出なければこんなふうだとは気付きもしなかったことでしょう。
それにしても……お二人のご両親はどうなされたのでしょうか。まさか空襲でお亡くなりに? それとも地方に疎開していらっしゃるのでしょうか。知り合ったばかりの私には、そこまで深入りするのは憚られました。
晶様と静乃様は、それから私を温室へと案内して下さりました。一階もやはり、廊下は半ばから崩れ落ち、瓦礫の隙間から見えるのも、半分方焼け焦げた外の木々。その隙間からは晴れ渡った夜空が覗いております。やはり不用心なようにも思えましたが、森の木立が上手くこの家を隠しておりましたし、案外誰にも見つけられないのかもしれません。
そして――
「ここが温室だよ」
私は息をすることも忘れ、その光景に目を瞠りました。
灯火管制の暗い灯りの下でしたが、温室はまるで、本で見たことのある熱帯の島国のよう。赤や黄色の、強い色のお花が多うございました。どこからか甘い香りもいたします。憲兵さん達に見つかってしまえば、お叱りを受けてしまいそうなくらい艶やかで、瓦礫だらけの街の景色が嘘のようです。温室の中央には立派な床榻もあって、居心地の良さそうな空間になっています。さっきまで焼け跡と死体だけを眺めていた私の目には、この温室が桃源郷めいて映りました。
「綺麗ですね……」
「そう言ってくれると嬉しいわ。ここは私が丹精しているの」
静乃様は少し得意気です。
それにしても不思議です。一体おふたりは、どのような経緯があって、こんな廃墟と化したお屋敷にお住まいなのでしょうか。元が晶様のお宅と仰ってましたが、使用人のひとりもいる様子ではなし、静乃様の口ぶりからしても、屋敷に入って誰も出てこない様子を見ても、ここには静乃様と晶様しかおいでにならないように思えます。
出征だ疎開だので人の居なくなった家に棲み着く不届き者が居るとは、噂話で耳にしたこともございましたが、まさかこんなに上品そうな方々が、そんなことをなさるだなどとは思えませんし……。
「とにかく、お粥を作りましょう。まずは千代さんになにか食べさせてあげなければね」
そのお言葉を聞いた途端、私のお腹がまた、大きな鳴き声を上げました。真っ赤になってお腹を押さえた私に、静乃様がころころと気持ちの良い笑い声を上げます。
「ちょっと待っていてね。すぐにこさえますから」
「いえ、そんな。私が――」
「いいから座っていらして。すぐだから。ね?」
静乃様は私の肩を軽くついて床榻に座らせると、いそいそと温室を出て行かれます。
「静乃は君に良い所を見せたいんだ」
「え?」
勢いよく私の隣に腰掛けられた晶様は、悪戯っ子のように笑いました。
「食べられる物が出てくるとは思えないけど、まあ、少し様子を見てやってよ」
何でしょう。心臓がどきどきしてまいりました。晶様があまりにお綺麗だからでしょうか。それとも遠くの方から「あちっ」だの「あら?」だのと、聞き捨てならぬ声が響いているせいでしょうか。大事なお米を駄目にしていやしないかと、はらはらのし通しです。
「それより千代さん、千代さんはどこの出だい? 田舎には帰らなくていいの?」
「田舎は……その」
おそらく餓えていること。私の帰宅は喜ばれないであろうこと。
訥々と語っているうちに、聞き上手の晶様に乗せられておりました。自分が尋常小学校を出てすぐに、親類の知人であるお大尽の下にご奉公に出たことや、気の利かない女中としてよく叱られていたことや、置き去りにされたことまで、白状してしまいました。そして年が十六であると言ったら、晶様が目を輝かせました。
「そうか。それなら君は僕らと同い年だね」
今度は私が目を丸くする番でした。
「お二人はもっと年上かと思っておりました」
「そう? そんなに老けて見える?」
からかうような声音に、私は慌てて首を横に振ります。
「い、いいえ、滅相もございません。ただ落ち着いておいでだし、てっきりひとつかふたつは上かと」
「きっと直にそう言ってられなくなると思うよ」
「はい?」
意味が分からず首を傾げたら、晶様は首を突き出すようにして、私に囁きかけました。
「ねえ、君。どうして自分が、ここに連れて来られたのかって思ってるだろう?」
「え……ええ、はい……」
そう仰るからには、何かご用がおありだと言うことでしょうか。それだとしたら納得です。役目も無しにこんなお屋敷に連れて来られてお食事までいただくだなんて、立つ瀬がないではありませんか。
晶様がくすりと笑われました。
「君にはね。僕らの緩衝材になって欲しいんだ」
「かんしょうざい……と申しますと」
「つまり、僕と静乃の間に入って、衝撃を和らげる役割、っていうか」
「衝撃……お二人は喧嘩をなさるのですか?」
私に思いつくのはそのくらいのことでした。晶様はまた、楽しげにお笑いになります。
「いいや。むしろ逆かな」
「え?」
晶様は視線を落とすと、唇を指で僅かに摘ままれました。
「……そうだな、むしろそれが駄目なのかもしれない」
「あの、それはどういう――」
その時、「大変大変」と、おっとりした声が聞こえました。静乃様は声とは異臭の放たれた土鍋を手にしています。
中を覗かせて頂くと、べったりと鍋底にこびりつく白いお米がありました。
「おかしいわね。さすがにお粥は失敗しないと思ったのだけれど」
……静乃様はもしかして、料理はお得意ではないのでしょうか。
私がちらりと晶様に目を向けると、言わんとすることを察したのでしょう、西洋人めいた仕草で、軽く肩を竦められました。
「僕は最初から諦めてる。料理なんて天才のすることだよ」
何となく予想はついていた気も致しますが……このお二人、これまでどうやって生きてこられたのでしょう。
「あのう……そのお粥ですけど」
私はおずおずと切り出しました。
「お焼きに作り直してもようございましょうか」
「え……ええ、いいけど。そんなことが出来るの?」
「はい。少しお時間をいただけましたら」
「でも、千代さんもお腹が減っているでしょうに」
そう言えばそもそも、私のお腹が減っているからと、もてなして下さるおつもりだったのです。
「そんなに長い時間はお待たせしませんから。申し訳ありませんが、お勝手まで案内していただけますか」
しばらくして。失敗したご飯をお焼きにしてお持ちすると、お二人は大喜びなさいました。
「まるで魔法みたい! 本当に食べられる物が出来たわ!」
「喜んで頂けてようございました」
「手慣れてるね」
「……実家では、よく作っていましたから」
このご時世、大事な食料を――しかも白米を――無駄にするなんてこと、出来る筈がありません。
実家で炊飯を任されるようになった頃。失敗を繰り返した私を母は叱りもせずに、このお焼きの作り方を教えてくれたものでした。と言っても、我が家のお焼きは、こんなに綺麗な白米だけで出来ているものではありませんでしたが。私が少しずつ失敗しなくなって、お焼きを作る機会もなくなった頃、炊飯の仕事は妹が任されることになりました。そうして失敗して泣く妹に、お焼きの作り方を教えたのは私。
野沢菜を入れただけの素朴なお焼きを、お二人は随分お気に召して下さったらしく、美味しい美味しいと食べていらっしゃいます。
戦争が始まる前までは、きっとなに不自由なくお暮らしだったでしょうに。こんなに喜んでいらっしゃるご様子を見ると、なんだか切ないような気がいたします。
この頃になると、私はもうすっかり、お二人に気を許しておりました。何故お二人が私を連れてきて下さったかを、少しも考えもせず。
「それでね、千代さん」
「あの、静乃様。どうか私のことは千代と」
お話を遮ってしまいましたが、どうにも気持ちが落ち着かず、私は口を開いてしまいました。
「え?」
「私は奉公人として、こちらにお勤めをはじめたのだと思っております。どうぞ千代とお呼びになって、何なりとお申し付け下さいませ」
「まあ、千代さん」
静乃様は困り顔で、隣に座る晶様を見上げました。
「私達、お友達としてお招きしたつもりでいたのよ。奉公人だなんて」
「ご覧の通り、僕らは料理もろくに出来ない。手伝ってもらえると助かるのは確かだが、そんなつもりはなかったんだ。お給金が払える訳ではないし……」
「そんなの。このご時世ですもの。食べさせて頂けるだけで千代は十分でございます」
「でも……」
私は胸をはりました。
「いいえ、いいえ。ただお世話になるだけでは千代の立つ瀬がございません」
家事くらい任せてもらわないと、この家に住まわせてもらう義理がないではないか。そんな思いが胸にありました。ほんの少し、自分が意地をはっているような気もいたしましたが、ここだけは譲れないと思っていた気がいたします。眠ってから頭がすっきりしたおかげでしょうか。見知らぬ方にふらふらと、しかも子供のように泣きながら着いてきた昼間の私の態度を、図々しいとも恥ずかしいとも思う程度には、我に返ってもいました。
お二人は困ったように顔を見合わせておいででしたが、直に諦めたご様子でした。
「まあ、仕方がないか。でも呼び名だけは勘弁してくれるかい?」
「女学校のお友達と変わらぬ歳なのに、呼びつけにするのはいやだわ」
「……承知いたしました」
お二人にそう言われると、これ以上依怙地になるのも気が咎めました。この辺りが手の討ちどころというものでしょう。
あとになって思えば、よくああまで雇い主に言い張れたものだと己で己に感心いたしました。前のご主人様とは、おどおどしてばかりで、ろくに口をきいたこともありませんでしたのに。お二人が同い年だというので、いくらか気安く感じていたのでしょうか。
「さて、お腹もくちくなったところで、家の案内の続きをしないとね」
そう言って、晶様は一階を案内して下さいました。晶様の部屋だという寝室がひとつ、お勝手に便所に浴場。暮らしていくに必要な部屋は、最低限生き残ってくれたと、晶様は笑いました。
それから二階へ。廊下は中途で途切れ、外の景色が丸見えになっているのは先ほど見た通りです。瓦礫は一階にそのまま崩れ落ちた様子で、折れ曲がった鉄の芯が、あばら骨のように痛々しく、剥き出しになっておりました。
「千代さん、そっちじゃなくてこっち」
晶様が廊下の端、扉の前で手を振っておいでです。
「物珍しいのは分かるけど、あまり端に寄っては危ないよ。いつ崩れ落ちるか分からないからね」
晶様が扉を開けると、そこには最前まで私が寝かされていた部屋がありました。改めて見ると、夢のようなお部屋です。磨き抜かれた西洋風の家具達。窓掛けは品の良い淡い緑の地に、可憐な小花が散っております。ベッドには天蓋が掛けられていて、まるで幼い頃に夢見た、西洋のお姫様のお部屋みたいです。
「君はこの洋間を使ってくれ。静乃がうちに持ってる部屋なんだけど、構わないだろう?」
私は頭からさっと血の気が引いていくのを感じました。
「いえ、そんな! 静乃様のお部屋をこれ以上お借りするだなんて滅相な事、出来ません!」
「いいんだよ。僕と静乃は同じ部屋で事足りるんだから」
私は思わず頬を染めました。
いとこ、と仰っていましたが、このご様子から察するに、お二人は既にご婚約を済ませておいでなのでしょうか。それとも、仲の良いいとこは、男女であってもそのようなものなのでしょうか。
「ここはね、まるで奇跡の部屋なんだ」
晶様が壁により掛かって、目を遠くへと投げました。
「本当に。……あの何もかもが焼けてしまった空襲の日、私はこの部屋で眠りについていたの。逃げ遅れてしまって、もう駄目だと思っていたのに、二階ではこのお部屋だけが無事だったのよ」
「気が気じゃなかったよ。僕はもう、静乃は死んでしまったかと思っていた。……本当に無事で良かった」
晶様が慈しむような目を静乃様に向けておられます。何気なく伸ばされた指が静乃様の頬をくすぐり、静乃様が機嫌の良い猫のように瞼を閉じておられます。その親密なご様子に、私はもう、心臓が高鳴って仕方がありませんでした。
お二人の視線が、再び私へと向かいます。
「そんな訳だから、千代さんはこの部屋を使っておくれ」
「そうよ。ここでも安心して暮らして欲しいもの。ね?」
結局私は、お二人に押し切られる格好で、静乃様のお部屋をお借りすることになりました。それどころか、寝間着まで貸していただくことになってしまい……。
慣れない寝台の感触に、その夜私は、寝付けずにおりました。そもそも、寝台で寝るのが生まれて初めてのことでした。田舎の我が家も、お仕えしていたお屋敷でも、与えられたのは煎餅布団と薄い上掛けくらいのもので、こちらのような白くて良い香りのするお布団や、空気のようにふわりとした白い寝間着になど、とんと縁が無かったのです。
私は溜息を吐くと、寝台から起きあがりました。
昨今、厳しい灯火管制が敷かれていて、灯りは黒布で覆わねばなりません。そんな無粋な黒布をほんの少しばかりずらして光を作ると、壁際に置かれた洋風の姿見が照らし出されました。
私は姿見の前に立ちます。
鏡に映るのは、街中のどこにでも居そうな平凡な娘。薄らぼんやりした顔で、こちらを眺めておりました。
「……勘違いしてはいけないわ」
私はただ、このお宅にお勤めすることになっただけ。このふわふわとした寝間着だってお部屋だって、私のものではありません。上等なそれにはまるで似つかわしくない、ただの娘でございます。
私は元々、空想癖がありました。
実家にいるときも、先日までお世話になった家でご奉公していたときも、仕事の途中に空想に耽って叱られたことが、何度あったことでしょうか。
そのお宅でお嬢様が取り寄せておられた少女雑誌を、いけないと思いつつも何度盗み読みしたことでしょう。現場を見つかって、お嬢様からお叱りを受けたこともございました。
『女学校にも行けない人が、こんな本を読んでどうするの』
……ただ少し、憧れていただけなのです。これでも小学校の時分は、成績も良かったのです。それこそ高等女学校にやる気はないかと、担任の先生が父を説得しに来てくれるくらいには。だけれど、我が家はどこをどう振っても学費など出せる訳がなく……。仕方がありません。そんな家は決して珍しくなどなかったのですから。
女学校とはどんな世界なのでしょう。静乃様に訊いてみたら、色々と教えて下さいましょうか。静乃様を見ていると、私が夢見、憧れていた全てを思い出します。
――不思議な方々……。
私のような者をこんなに気に掛けて下さるなんて。どうしてあそこで私を拾ってくださったのか。死にたくなければお立ちなさいと言った時の、毅然とした静乃様の態度が思い浮かばれます。着いていかなければ死んでしまう。そう無意識のうちに考えていたような気もいたします。
もしかしたらお金持ちに付き物の気紛れや施し……なのでしょうか。
私は首を横に振ります。
いいえ。それならそれで構わないのです。実の親にも雇われ先にも捨てられてしまうような娘が、なんとしてでも生きていくためには、こちらに拾われたのは幸いじゃありませんか。
――そう言えば、あれはどういう意味だったのでしょう。静乃様がお粥を焦している間に、晶様が仰った言葉。私には、静乃様と晶様の緩衝材になってほしい、という……。話の途中で静乃様がいらっしゃって、何となく尻切れとんぼになってしまったのですが、どうにも気になります。
私はしばらくの間、その事について考えていたのですが、直に諦めました。こればかりは、晶様にもっと詳しく話を聞かなければ分かりようもありません。
全ては明日からからのことです。きちんと働いて、このご恩を返さなければなりません。
それから数日は、非常時とは思えないほどに平和な日々が続きました。
水はお屋敷の裏手にある井戸からポンプで汲み上げることが出来ます。電気は多少不安定で、度々停電もありましたが、夜はランプで事足りました。ガスが問題なく使えたのは、料理をする身にとっては随分と助かることでした。慣れない洋風のお勝手にも少しずつ慣れて、お二人は私の作るなんの変哲もない田舎料理を、美味しい美味しいと食べて下さいます。晶様の仰る通り、贅沢が出来るような状況ではありませんでしたが、食料はそれなりに蓄えてあって、今すぐに餓えることはないようでした。
他にも、静乃様が温室の手入れをするお手伝いをしたり、晶様が剣の鍛錬をなさるのを静乃様と見物することもありました。
静乃様が仰るには、「私と晶がこの家に住んでいるのは、温室と離れがたいからなの」とのことでした。
「手入れをしなければ、草木はすぐに死んでしまうでしょう? だからここに残りたいって、お父様とお母様に我が儘言ったのよ」
「ご両親はさぞかしご心配なさっているのでは?」
「そうね。でも、晶が一緒だから。ああ見えて晶は強いのよ。剣の腕前ならそんじょそこらの兵隊さんでも叶わないわ」
「晶様のご両親は……」
「お父様は軍の方でね。状況が状況だから、ずっと官舎に詰めておいでなの。お母様は晶の弟妹を連れて、ご実家に疎開しておいでなのよ」
なるほど。ご両親が不在の訳は、これで分かりました。
――ですが「緩衝材」の件は、あれ以来何となく機を逸したまま。晶様も話を蒸し返そうとはなさらなかったので、私も訊きづらくなってしまいました。
この山の手への空襲も殆どが途絶え、このまま何もないのではないか、鬼畜米兵も神国日本を攻めるのを諦めたのではないかと思いたくなった頃。ここは新聞も敢えて取ってはいらっしゃらぬそうで、私は一度、どうしてなのかと晶様にお伺いしたことがあります。
すると晶様は、映画俳優のように絵になる仕草で、首を竦められました。
「嫌なニュウスしか載っていないのに、どうして読む必要が?」
それでも、私が気にしていたことを覚えていて下さったのでしょう。晶様はある日、煤塗れになりながら、大きな箱のような物を、瓦礫の山から掘り返してみえられました。
「まあ、晶様! その格好は一体……!」
「服を汚したお叱りはあとで。それより、良い物を見つけてきたよ」
「良い物、と仰いますと?」
「ラヂオ」
晶様は私が渡した布で丁寧にその箱を拭いますと、温室の卓の上へと載せました。静乃様が目を丸くしておいでです。
「あら、ラヂオ。てっきり私、空襲で焼けたのだと思っていたわ」
「まだ分からないよ。見た目は無事でも、中身まで無事かどうかは……」
ですが晶様が電源を入れますと、ラヂオからは蝉の鳴くような機械音が鳴りはじめました。
「聞こえる?」
「ちょっと待って。……うん、聞こえる」
私の耳にも入ってきました。どうやら軍歌のようです。
「どうだい、千代さん。ラヂオがあれば戦況は分かる。確かに、少しくらいは情報も仕入れておいた方が良さそうだからね」
「ええ……はい!」
ラヂオが教えてくれたのは、新聞と同じく、戦争の話だけ。昔の楽しいラヂオとは大違いでしたが、それでも構いませんでした。人の声がすると言うことは、やはり楽しいことだったのです。
そうして私は夢を見ます。このまま何事もなく、この夢の欠片のような美しい廃屋で、お二人とずっと一緒に暮らして行けたら良いのに、と。
――ですが、やはりそうはいかないのでありました。
「千代さん! 早く一階へ!」
ある夜私は、晶様の声で目を覚ましました。すぐに続いて聞こえはじめた、空襲警報の音。ドアを蹴破らんばかりの勢いで、晶様が部屋に入って参ります。
「ほら千代さん、急いで。防空壕に逃げるんだ」
「し、静乃お嬢様は? お嬢様を迎えに行かなくては!」
「一階の床下が壕になっているんだ。静乃はもう中にいる。だから早く!」
急かされて寝間着のまま階下のお勝手に下りると、そこが壕なのでしょう、ぽっかりと開いた四角い穴の傍に、静乃様が立っておいででした。
「ああ、千代さん!」
カンテラを片手に駆け寄ってきた静乃様が、私の手をぎゅっと握ります。
「静乃、まだ壕に入っていなかったの?」
「だって千代さんと晶が心配で。でもよかった。早く中に」
跳ね上げ式の扉から防空壕へ下ります。はしご段を下れば、案外広い空間が広がっておりました。どうやらそこは、元は食品庫として使われていた場所のようです。それを掘り広げて、防空壕に転用したのでしょう。あちこちに缶詰や乾パンの包みが見えました。これならばしばらく籠もっていても、生きていけるかもしれません。
蓋を閉めると、私達は床に車座になって誰ともなく天井を見上げました。空襲警報は鳴り響いておりますが、まだこちらに来ている様子はなく、飛行機の音は聞こえて参りません。でもどうせ直に飛んでくるのでありましょう。
――と、私は不意に、信じられないものを耳にいたしました。
「ふふ……っ、やだ、思い出しちゃった」
軽やかな笑い声は、確かに静乃様のものでした。
「どうしたんだい、静乃。こんな時に笑ったりして」
「だって。昔、隠れん坊をしたことのことを思いだしたのですもの」
静乃様はそう言うと、私の手をぎゅっと握りました。
「聞いて、千代さん。晶ったら酷いのよ。みんなで隠れん坊をしていて、自分が鬼になったとき、私をわざと探さずに帰ってしまったの。だから私は、押し入れの中で待ちぼうけ」
「まあ」
私が目を丸くすると、晶様は唇を尖らせます。
「仕方がないだろう。静乃がぼやぼやしているのが悪い」
「晶ったら、ずうっとこの調子。なんであんな意地悪をしたのって何度も訊いたのに、教えてくれないの」
私はおずおずと口を開きます。
「あのう……千代には、晶様の意地悪の理由、分かるような気がいたします」
「まあ、それってどんな?」
静乃様は小鳥のような仕草で、首を傾げられました。
「きっと晶様は、静乃様を閉じ込めて囲い込んでしまいたいくらい、お好きだったのだと思います」
「……あらまあ」
「ち、ちが――!」
暗いカンテラの光の下でしたが、晶様が赤くなったのはすぐに分かりました。
「千代さんは、どうしてそう思ったの?」
「晶様のなさったこととそっくり同じことを、私の弟がいたしましたから」
晶様が、片手で顔を覆って私に訊ねました。
「……ちょっと待って。その弟っていくつ?」
「さあ……。あの頃は五つか六つにはなっていたかと」
「へ~え」
「……もの凄く幼稚だって言われている気がする」
晶様がそれはもう、見るからに萎れてしまわれたので、私と静乃様は思わず笑ってしまいました。
そのときでした。晶様の顔色が変わったのは。
「しっ」
「晶様?」
「……来た」
晶様が鋭い目を天井へと向けます。その目はコンクリを透かして、向こうの空を睨んでいるようでした。
……確かに、遠くからB29の発する飛行音が低く唸っているようです。気のせいか、焼夷弾の立てる吹き戻しに似た音まで聞こえてくるような気がいたしました。
――前のお屋敷は、これでやられてしまったのです。夜半に訪れた、あの恐ろしいビイ公のせいで。
思わず総身を震わせた私の手を、温かで柔らかな手が握って下さいました。静乃様が、聖母のように優しく微笑んでおられます。
「三人でいれば少しも怖くはないわ。ねえ、千代さん?」
反対の手を、晶様までもが握って下さいます。
「そうだよ、千代さん。僕らはきっと大丈夫だ」
「……ええ、はい、きっと」
私は頷いて瞼を閉じて大きく息を吐きます。瞼を透かして漏れ入るカンテラの光が、とても温かな宵でした。
それからも私達は、毎日を出来るだけ楽しく、夢のように過ごしました。
あまりに頻繁に空襲があるからと、服を着たまま寝ることが増え、そうして警報が鳴って、地下の防空壕に逃げる日もありました。ですがそれだとて、お二人と一緒なら、もう怖くはありませんでした。
お二人はいつ如何なる時でも明るく、防空壕の中で色々なお話を聞かせて下さったものです。それは世の中がこんなに変わってしまう前。お父様やお母様に連れられていった観劇や、学校での楽しかった出来事。私が憧れた夢の世界です。
ですが気になることがひとつ。時折晶様は、ふらりと姿を消すことがございました。そんなとき、静乃様はまるで置物になったかのように、温室の牀榻から動こうとなさいません。私がお茶を淹れてきたことにも気付かないご様子で、ただその透明で宝石じみた瞳を硝子の向こうへと投げかけたまま、身じろぎもせずにおいでなのです。その窓の外は、数時間前、晶様がお姿をお消しになった場所でした。
「……晶様、早くお戻りになると良いですね」
静乃様は今初めて私の存在に気付いたとでも言いたげに目を丸くして、それから、稚い子供のようにこっくりと頷かれるのでした。
そんなことが月に数度はあって、帰ってきたときは決まって、晶様は両手に食料の入った風呂敷包みを持っておられました。
中身はその時その時でまちまちでしたが、ある日など紙袋にいっぱいのりんごを持ってお戻りになったこともございます。静乃様が嬉しそうだったのが印象的でした。
「まあ、立派なりんご!」
「伯父貴は長野に別荘を持っていてね。そこの近くでりんごがなるんだ」
晶様が私に説明をして下さいます。おじ、と仰るからには、静乃様にとっても親戚筋に当たる方なのでしょう。
「懐かしいなあ。子供の頃を思い出すよ。伯父貴の所に遊びに行っては、りんご畑に忍び込んで、その場でもいで食べたりしてたっけ。食べ過ぎて動けなくなった所を伯父貴に見つかって、随分と呆れられたものさ」
やんちゃな少年時代が、目に浮かぶようです。静乃様は袋の中から四角い包みを取り出しておられます。
「これ、バタアじゃなくって?」
「こっちには小麦粉もあるよ。ほら、少ないけど砂糖も!」
「まあ素敵。これだけあれば、アップルパイが作れるわね」
お二人の視線が、一斉にこちらを向きました。
あっぷるぱい……多分、洋菓子の一種なのでしょう。生憎と私は、そんな小洒落たもの、作ったことがございません。それどころか、見たことも食べたこともございません。
ですが、お嬢様達の瞳は、既にきらきらと輝いていて、とてもそんなことは申せませんでした。私は諦め気分で溜息を吐きます。
「……静乃様、お料理の本はお持ちですか?」
静乃様は大きく頷かれますと、
「取ってくるわ!」
ウキウキと温室を出て行く静乃様をほのぼのとした気持ちで見送っていましたら、晶様の手がりんごをひとつ拾い上げました。
「静乃は昼飯は食べた?」
「あ、はい。ただ少し食が細かったような……」
「いつもなんだ。僕が伯父貴の所へ行くと、帰ってこないんじゃないかって心配になるんだろうね。食事もなにも抜いちまって、人形みたいに静かになる。……君が一緒にいてくれてよかったよ。食べてくれるだけいい方だ」
「あったわ!」
弾むような声がして、静乃様が本を手に戻って来られました。
「この本に載っていたわ。アップルパイの作り方! どうかよろしくね、千代さん!」
「はい、お任せ下さいまし!」
責任重大です。これは絶対に失敗出来ません。私はご本を胸に抱いて、力いっぱいに頷きます。
――ですが。
「……申し訳ございません」
数時間後、私は温室に置かれたテーブルの上に乗る炭の塊を前に、お二人に頭を下げておりました。
出来上がったアップルパイは、匂いこそは悪くないのですが、表面が黒焦げで、とても食べられる物とは思えませんでした。
「良いのよ、千代さん。天火は使ったことがないと言っていたのに、私が無理を言ったからね」
そう、静乃様の仰る通り、敗因は憎き天火、西洋風に言う所のオーブンです。やはり使ったことのない私には、些か荷が重かったようでした。私は肩を落とします。
「せっかくのお砂糖やバタを、無駄にしてしまいました……」
「そんなことないよ。見た目はどうあれ、中は美味しいよ」
「あ、晶様! いけません、そんな物をお食べになっては!」
止める間もあればこそ。晶様は平気な顔で私の作ったアップルパイを食べています。私がまごついている間に、静乃様まで焦げだらけのそれを食べてしまいました。
「あら本当。美味しいわよ。ほら食べてみて」
問答無用でフォークを口の前に出されて、私は渋々口を開けました。
その途端入ってきたのは、とろりとした風味と甘味。抜けるようなりんごの甘い香り。
「まあ、美味しい」
「でしょう?」
「なんで静乃が威張るんだい?」
晶様が苦笑しておられます。
「だってとっても美味しいのだもの。ああ、シナモンがあればよかったのに。きっともっと美味しく仕上がっていたわ!」
しなもん、と、私は頭の中に書き付けます。初めて聞く言葉です。もし入手出来たら、次は入れられるようにしようと思います。
「また作ってね、千代さん。きっとよ」
「勿論です、静乃様。次は失敗いたしません」
静乃様は無邪気に笑って、身に纏ったスカアトを軽やかに翻しました。
「ねえ、二人とも。戦争が終ったら、アップルパイやサンドウィッチを持って、ピクニックに行きましょうね。春が良いわ。桜の咲く頃にお花見をしながら食べるのよ」
今日一日、萎れておられたのを見ていた分、明るいご様子を見るのが嬉しい気がいたしました。晶様も目を細めて、楽しげな静乃様を見つめておいでです。
でも……果たしてそれは、いつになれば叶う願いなのかとも思います。街は焼け落ち、春になっても真実桜が咲くかどうかすら定かではなく。
――静乃様の仰るように、そんな平和なピクニックが出来る日が、早く来れば良いのに。
それからまた、数日が過ぎた頃だったでしょうか。
夜更けにお手洗いに起きた私は、何の気なしに覗いた温室の中に、お二人がいらっしゃるのをお見かけしました。
――何をなさっておいでなのかしら。
黙って並び、月光降る中、窓の外を眺めておられるお二人には、何か侵しがたいものがあって、声をかけるのも憚られました。まるで一幅の絵のように美しい光景に、思わず溜息を吐いて見つめていると、お二人がぴったりと寄り添われました。
口付けをするかのように近付けられた顔。隙間泣く埋められたお二人の距離。お互いを見つめ合うその瞳の熱っぽさ。
私は慌てて壁の影に隠れます。足から力が抜けて、壁沿いに座り込んでしまいました。
――分かっていたことではありませんか。
男女七歳にして席を同じゅうせずと言われているのに、お二人は寝間まで同じです。
婚約者であるか、あるいは恋仲であるかということくらいは、私にも分かっておりました。
――そう。分かっていた筈なのに、何故私は泣いているのでしょう。もしかして、気付かないうちに晶様のことを好いていたのかしら。
いいえ、そんな、滅相もない。……ただ、私ひとりが仲間外れになったような気がして。
いつの間に私は、こんな図々しい考えを抱くようになっていたのでしょう。お二人の間に、自分が挟まっているような、そんな錯覚をしていたのかもしれません。そう言えば、緩衝材になってくれと仰ったのは晶様でした。
この頃にもなると、私にも晶様の仰っておられた言葉の意味が、朧気ながらに分かってきた気がいたします。
静乃様を閉じ込めてしまいたい晶様。晶様がいないと、お人形になったかのように気力をなくしてしまう静乃様。誰かが間に居ないと喧嘩をしてしまうのかと問うた私に、むしろその逆だと、晶様は仰いました。――確かに、お二人の間柄は、今のままでは酷く危うい気がいたします。
私はこぼれ落ちる涙を拭うと、拳をぎゅっと握ります。それで無理矢理にでも気分を変えて、唇を噛みしめました。
私はもう、何も出来ずにうずくまっている自分は嫌なのです。瓦礫の影に隠れて、めそめそと泣いていた自分は捨ててしまいたい。この間だって、慣れない天火を使って初めての菓子を作ることが出来ました。それなら何だって、乗り越えることが出来る筈。
さて、これからどういたしましょう。取りあえず腹づもりだけはしておいた方が良さそうです。だってお二人は、祝言はまだのご様子ですけれど、国が落ち着いたら、きっといずれは挙げるのでしょうから。
お式はどんなかしら。戦争の前に流行っていた西洋風のお式かしら。それとも、角隠しに羽織袴? 当節はモンペ姿で式を挙げるのも珍しくはありませんが、お二人にそんなみすぼらしい真似はさせられません。
ええ、ええ! 断じてそのような格好でお式などさせられませんとも!
主人に捨てられるほど気の利かない女中だった私ですが、幸いお針は得意なのです。いざとなれば羽織袴だろうが純白のドレスだろうが、見事に縫って差し上げましょう。
考え出したら、何やら楽しい気分になって参りました。私はそうっと立ち上がると、お二人に気付かれぬよう、足を忍ばせて二階へと戻ったのでございます。
――そして客人があったのは、その数日後のことでした。
「失礼。君がこの家の女中かね」
人の来ないこの屋敷に、初めてのお客様です。迎えに出た私は、その紳士の立派な風貌に気圧されてしまいました。お身体に合わせて仕立てたことがよく分かる上等なスウツを着ている様子は、晶様を思い出させます。鼻の下に蓄えられた立派なお髭は白髪交じりで、もしかすると、思ったよりもお年なのかもしれません。
「えっと……その、私は」
女中のようなものです、とでも言っていいものでしょうか。
「これは失礼。驚かせてしまったかな」
紳士は破顔なさると、こう仰いました。
「私は晶と静乃の伯父で佐竹清正伯爵と申す。二人に会いたいのだが、在宅かね?」
「清正伯父さん!」
晶様が笑顔を浮かべて温室に入って参ります。
「やあ晶。いつぶりかな? 先にりんごをやったとき以来か」
大半の部屋が焼け落ちている有様ですので、取りあえず温室へお通しするしかなかったのですが、床榻に腰掛らけれたご様子を見るに、この家に慣れていらっしゃるのだと分かりました。晶様が立ち竦んだままの私を振り返ります。
「千代さん、お茶を頼んでもいいかな」
「え、ええ。それは勿論」
「なら二人前頼むよ」
「三人前じゃなくてよろしいのですか。静乃様の分は……」
「ああ、それなら気にしなくて良いよ。静乃は多分、出てこないから」
晶様のお声を聞いた佐竹伯爵様が苦笑めいた笑みを浮かべておられます。
「静乃はまだお冠なのかね?」
「不貞寝だと思いますよ、あれは。相当重症だ」
「そんなにか」
「ええ。金輪際伯父様と忠則お兄さまには会いたくない、とのことでしたよ」
「無理に縁談を薦めたつもりはなかったのだがな――」
込み入ったお話の始まる前にと、私はそそくさとその場を離れました。
それにしても、伯爵様だなんて。私のような下々の者にも随分気取らないお方のようです。
でも、縁談? 静乃様と、誰を……? 晶様という方がいらっしゃるのに?
私は頭に疑問符を浮かべたままお湯を沸かし、最近ようやく慣れてきた紅茶を淹れると、温室に戻ります。
入りますと、廊下から声をかけようとしたときのことでした。伯爵様のお声が、耳に飛び込んで来たのです。
「男でいたいというお前の気持ちは尊重するつもりだが……」
――男で『いたい』……?
一体どういうことなのでしょう。それではまるで、晶様が男の方ではないかのような。
晶様は少しふて腐れたように返します。
「伯父上が仰るから、その通りに女中も入れたではありませんか。僕らは二人でも何の問題もなかったのに」
――緩衝材になって欲しいと仰っていました。そうして私に目を留めたのだと。でも。
ではお二人は、最初から女中にする人を探しておられたということなのでしょうか。そこにたまたま、私がいたから……。
私は首を幾度も振りました。目眩がしそうなくらい、幾度も。そうしなければ、頭の中に湧いて出た嫌な気分を、打ち払うことが出来なかったから。
そうです。お二人が女中を探していたからと言って、それが何だと言うのでしょう。
気をしっかり持たなくては。お二人に見出されて今の私がある。その事に何の変わりもないのです。
……でも、男で『いたい』とは、どういう意味なのでしょう。
お茶をお出ししてしばらくが過ぎ、お勝手で洗い物をしていた私の元に、茶碗を手にした晶様が姿を現わしました。
「千代さん。お茶どうもありがとう」
「置いておいて下されば、私が取りに参りましたのに」
「いいんだ。ついでだから。――そんなことよりさ。さっきの話、聞いていたんだろう?」
晶様は流しに手を付くと、私の顔を覗き込まれました。
「さっきの……と申しますと」
「君がお茶を持ってきたタイミングから言って、耳に入っちゃったんじゃないかと思ってね」
晶様は私が洗ったお茶碗を、自然な手付きで拭いて下さいます。
「晶様、それは私が――」
「いいから。それより、誤解しないでほしいんだ。僕は確かに最初から、僕らと一緒にいてくれそうな子を探してはいたけれど、女中を探していたんじゃないんだ。伯父貴に言ったあれは方便だ。その方が話が早かったからね」
「……はい」
「僕らが本当に求めていたのは、静乃と僕の間に入って緩衝材になってくれそうな子さ。君のような可愛い子を探そうって、二人で楽しみにしていた」
可愛いと言われて照れくさくなりましたが、晶様は口がお上手なのです。真に受けてはいけません。
「でも、晶様。どうして静乃様はあんな態度を?」
「静乃がふて腐れていたのは、伯父貴の息子の忠則兄さんと、縁談の話を持ちかけられていたせいなんだ。不意打ちでお見合い紛いのことをさせられて、すっかり拗ねてしまったのさ。温室の件があってここに居座っているのも本当だけどね」
それならあの態度も仕方がないと思われます。だって――。
「晶様という立派な殿方がおられますのに、どうして伯爵様は縁談などと」
私が憤りを隠せぬままにそう言いますと、晶様は目を丸くされました。
「参ったな。やっぱり気付いていなかったのか」
「晶様?」
「僕は女だよ、千代さん。男になりたい女なんだ」
驚きのまま数瞬息を忘れたあと、私の胸の内に去来したのは、納得の二文字でした。
伯爵様の仰った、「男でいたい」という言葉の意味が、ようやく分かった気がいたしました。
華奢な肩幅、柔らかな手、僅かに丸みの残る頬の線――改めて見れば、晶様は十分に女性らしい身体付きをなさっておいでなのでした。見蕩れるほど綺麗なお顔には、お髭のそり跡ひとつなくて、歌劇団のスタアのよう。それにお声も。男性と言うには少しばかり透明で澄んだそのお声は、たしかに女の方のものなのでした。
「お胸は……」
「晒しで潰してる。自分で見ていて嫌になるからね」
「息苦しくはありませんか?」
「別に。もう慣れたよ」
肩を竦め、晶様はお勝手の窓から外を眺めます。
「僕と静乃はね。従姉妹であるのも本当だけど、女学校の同級生でもあったんだ」
目の前のこの方が女学校の出だと伺っても、私にはどうにもピンときません。女の方だと理解はしたものの、まだ腑に落ちてはいないのでしょう。今までに女学校のことについて、晶様からお話が出たこともございませんでした。
「僕は昔からそうなんだ。自分が女であると思えない。女の子のするようなことには、まるで興味が持てなかった。制服のスカアトを穿くのは、辛かったなあ」
「晶様……」
「静乃と伯父以外の知己は、大抵僕のことを男女と笑うよ。女学校の下級生にはもてたけどね。……伯父だって内心では、僕に普通の女みたいになって欲しいと願っている。僕がいくら身体を鍛えようと、武道で修練を積もうと、周りの見方は変わらなかった。これでも、そんじょそこらの男には、ひけを取らないつもりなんだけど」
晶様は窓から目を外すと、私の方へと身を乗り出されました。
「君はどう? 君もやっぱり、僕が女らしくした方が、幸せになれると思うのかい?」
私は慌てて首を横に振ります。
「あの……私は難しいことは分かりませんが、それでいいのではないでしょうか」
「それでって?」
「今のままの晶様で。晶様は、凛々しくて立派な殿方です。私、ずっとそう思っていましたし、この先もずっとそう思っています」
「……ありがとう、千代さん」
晶様はそう言うと、私のおでこにご自分のおでこを軽くぶつけられました。
私は上がりかけた悲鳴を呑み込むので精一杯です。晶様の綺麗なお顔が、ほんの目の前にあるのですから。
「あら。二人で内緒話?」
おっとりした声は静乃様のもの。晶様が弾かれたように私から離れました。
「や……っ、違う! そういう訳じゃないんだ、静乃!」
「いやね、晶ったら。私は何も言ってはいなくてよ。ね、千代さん」
静乃様の拗ねたご様子と、晶様の慌てっぷりがおかしくて、笑いが止まりませんでした。
――ですが、あら? 晶様が女性ということは、その晶様と親密そうに寄り添っておられた静乃様とは、どういう関係になるのでしょうか。
その考えは少しばかり私を悩ませましたが、すぐに吹っ切りました。お二人が好き合っておいでで、幸せそうになさっているのだから、きっとそれでいいのでしょう。
――思い返せば、この頃はある意味とても幸せな時期だったのかもしれません。
いつ終わるともしれぬ戦争。夜毎空襲に怯え、ラヂオから聞こえる戦況に一喜一憂していたとしても、私達は十分に幸せでした。三人でいれば、笑い合っていられるのだと信じておりました。今はこんなふうでも、きっとお上が国を良いようにして下さると、そんな思いもあったのやもしれません。でも――。
八月の六日には、広島に新型爆弾が落とされ、その三日後には長崎にも。大本営発表では、それこそ、敵のB29を百機落とした、二百機落としたと景気の良いことを言っていますが、果たしてどこまで信用して良いものなのでしょう。だって私たちの中には、墜ちた飛行機を見たものはひとりもおりませんでした。
華族様の系譜に繋がる家だからか、果たしてもう誰も住んでいないと思われているものか、この家は隣組などに入っている様子もありません。だからこのところとんとご無沙汰ですが、国防婦人会などでは、竹槍訓練を行いながら、いざとなれば銃を持って敵機を落とすと勇ましいことを息巻いているそうではないですか。決して口には出せませんが、そんなことが本当に出来るのかと、私にはとても疑問です。
晶様は仰います。
「大本営発表を信じすぎちゃいけないよ。やつらはいくらでも嘘をつくからね」
その大本営発表が、軍歌を後ろにラヂオから勇ましく鳴り響いたのは、八月十四日のことでした。
『臨時ニュースを申し上げます。明日十五日正午に重大なるラヂオ放送があります。国民は、皆、慎んで聞くように。大本営発表。明日十五日――』
「まあ。一体何なのでしょう」
温室の観葉植物の葉を丁寧に拭いていた私は、その放送に首を傾げました、振り返ると、お二人は何やら難しいお顔をなさっておいでです。温室の草木にじょうろを傾けていた静乃様が、らしくもない険しい顔をなさって、晶様を見ます。
「ねえ、晶。これって――」
「うん……」
晶様もまた、思い悩むご様子です。私は何も問いかける言葉を持たず、お二人のご様子を見ていることしか出来ませんでした。
そうしてその翌日。
ラヂオの前で緊張した顔を並べていた私達は、信じられぬものを耳にいたしました。
神であるお上が直接マイクの前に立ち、私たちにお言葉を下さったのです。
『朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ――』
放送は、その後しばらく続きました。ですが私には何を言っているのか少しも分からなくて、放送終了後、お二人にこう尋ねるしかありませんでした。
「お上は今、何と仰られたのでしょう」
投げ出すように答えたのは、晶様でした。
「戦争に負けたってさ」
「え……」
私が息を呑むと、晶様は背伸びをしました。
「あーあ。こんなこったろうと思ってたさ!」
「そんな……」
「晶、今更だわ。こうなることはもう、分かっていたじゃない」
静乃様が、宥めるように晶様の肩に手を置きます。
「ああそうだ、分かってはいたさ! ――いたけど、それでもさ」
晶様はいつになく言葉をなくしているご様子です。
「千代さんはどう思うの?」
晶様の突然の問いに、私は不意を突かれました。
「どうって……」
「戦争が終って、嬉しい? 悲しい?」
「……嬉しい気もいたしますが、それよりもずっと切ないです」
私は言葉を選び選び続けます。
「私、ご奉公していたお宅では、ずっと贅沢は敵だと言われてまいりました。節約は当たり前ですし、配給の米を買う為に、何時間も行列いたしました」
奉公先のお嬢様は、大事な飼い猫を兵隊さんのコートの裏地にするからと連れて行かれて、随分泣いておられたのを覚えております。
「今までの苦労や努力はなんだったのでしょう。お国のお偉い方々は、今まで何をなさっておいでなのかと、そう――」
悔しさのあまりに唇を噛んだ私の肩に、静乃様の温かな手が乗ります。私は静乃様の手に己が手を添え、頬の力を抜きました。
「……でも、同時に嬉しいのです。だってこれ以上、人が死ぬことはないのでしょう?」
あの瓦礫野原が、これ以上に広がることはなく、路上の死体が増えることもないのです。
「千代さん……」
「さあ、それはどうだろうね」
晶様は乱暴な仕草で、席をお立ちになります。
「とにかくひとつ決まっているのは、僕らの小さな楽園も、これで終りってことだけだ」
そう言い残して、晶様は部屋を出て行かれました。
終り、とはどういう意味なのでしょう。
静乃様を見ると、綺麗なお顔に僅かな愁いを帯びていらっしゃいました。
「晶には縁談があったのよ」
その日はとても暑くて、外はうだるような暑さでしたが、温室は緑が多いせいか、多少外よりも過ごしやすかった気がいたします。床榻に腰掛けさせていただいて、私は静乃様が話すのに耳を傾けておりました。
「ご縁談……ですか」
「ええ、陸軍の将校様と。なんだかんだと言い訳して、ずっと後回しにしていたの。だけど戦争が終ってしまえば、もうその言い訳も通用しなくなる……」
「ええ」
「可哀想な晶。だって晶は男なのだもの。お嫁入りなどしてしまっては、晶の心は死んでしまう」
「……ええ」
「それにね、千代さん。私もなの」
そう仰って、静乃様は私の服の袖を掴みました。潤んだ眼差しが私を見上げます。
「私もきっと、晶がお嫁入りなどしては死んでしまうわ」
「静乃様……」
「……最後の時間が欲しかったの。温室と離れたくないというのは、ただの嘘。私達が子供でいられる、最後の時間が欲しかったのよ」
私の腕に静乃様が顔を埋められます。そのうちそこがじわりと温かに湿って……私は何を言うことも出来ぬまま、その肩を抱くことしか出来ませんでした。
その日、私はなかなか寝付くことが出来ずにいました。窓掛けを開けて窓辺に立つと、黒い森の内側に抱かれて、ひっそりと温室が透けてみえます。灯火管制も無くなったのに、灯りをつける気にもなりませんでした。
来し方行く末、そのいずれもが心を塞いでいるような気がいたしました。晶様の縁談の話。それに……そうです、静乃様にだって、従兄弟の方との縁談話があったのでした。お二人はあんなに互いを想い合っているのに、どうして引き裂かれなければならないのでしょう。ましてや晶様は、お身体こそ女の方なれど、心は男の子であるというのに。
事態は私の手には余り、何をどうすれば良いのかも分かりません。
……とにかく、せめてお二人には美味しいご飯を食べてもらいたい。
その為に、今夜は眠ろう。そう思って踵を返した私は、首を傾げました。
「あら?」
ドアの下の隙間に、何か白い物が見えます。私が部屋に戻ったときには、確かあんな物はなかったはず。
不思議に思いながら近付くと、それが白封筒であることが分かりました。
嫌な予感がします。拾い上げようとすると案外と厚くて、引き抜くのに少し時間がかかりました。封を切ると、中には百円札が何枚も入っております。
「こんな大金、どうして……」
中には手紙も入っているようでした。卓上の小さな灯りを点すと、綺麗な白い便せんには、静乃様のお手か、千代様へと、書き出しがありました。
『どうか、すぐに逃げてね。お幸せに』
その時。硝子窓の向こうに、何かが朱く光ったのを感じました。私は慌てて窓辺に戻ります。
空襲……でしょうか。空襲警報も鳴っていないのに?
何より、お上が戦争はもう終わったのだと、ラヂオで宣言されたのに。
赤い光は小さいですが、揺らめく炎のように見えました。
――何やら嫌な予感がします。
あれは温室。焼夷弾が落ちた形跡もありませんし、そもそも火の気がある場所ではありません。
寝間着のまま駆けだして、一階へ。それから廊下に出てすぐにある扉を開けば、そこはもう温室です。
「静乃様、晶様!」
応えを待つこともなく、私は中へと飛び込みます。
火は上から見たときより、あっという間に大きくなったようでした。
目の前には燃える木々。それから抱き合うお二人の姿。焦げ臭さが鼻を突きます。お二人は私に気付いて、揃ってこちらをご覧になりました。
静乃様が仰います。
「千代さん。お手紙には気付いた?」
「早く逃げるんだよ。ここは焼け落ちるから」
「何を仰っているのですか。お二人も逃げなければ」
「分かっているのだろう? 僕らはここで一緒に死ぬつもりなんだ」
その時胸に去来した気持ちは何だったのでしょう。胸の裡にむわりと黒雲が沸き上がり、脳天に火がついたような心地がいたしました。
怒り、嫉妬、やるせなさ。
「……私をお二人の間に置いてくださるのではなかったのですか」
お二人は狡いと思いました。思った途端、その言葉は口から転がり落ちておりました。
「今更仲間外れになさるなんて、狡い!」
そう、狡いのです。最初からお友達として遇してくださったお二人に、いつまでも使用人としての態度を取っていた私も狡いのかもしれない。でもお二人はもっともっと狡いです。
「千代さん……」
晶様が困った顔をなさいましたが、知ったことではありません。
私はもしかしたらお邪魔虫なのかもしれません。お二人にはお二人の世界があって、二人だけでその世界は完結している。そんなふうにも思えます。きっとお二人は、お二人だけでいるとこうなってしまうと分かっていたから、私を傍に置かれたのです。
ですが死のうとしていた私を拾って下さったのはお二人です。一緒に住もうと言って下さったのもお二人です。それなのに今更私を手放して、自分たちだけ綺麗に幕を落とそうだなんて、許しません。
「お二人が死ぬのなら、私も死にます」
「千代さん、それは駄目よ。だって貴女は私達のようなしがらみがある訳ではないのに」
静乃様が慌てたように仰います。
火の手は広がり続け、その熱でじりじりと私の頬を炙りはじめています。
「いいえ、死にます。それがお嫌ならこちらへ来て下さい。死ぬだなんて、絶対に許しません!」
今火がついたあれはアンスモリウム。静乃様に教えていただいた名前です。蝋燭にぽっと灯った火のような花が、今本当に火に巻かれています。あんなに大事になさっていた草花に、どうしてこんな事が出来たのでしょう。
「千代さん。お願い、見逃して。私はもう、晶と一緒に逝きたいの」
「――それともやっぱり、君も一緒に行く?」
晶様が私に向かって手を差し伸べます。
「この先も辛い時代は続くよ。そんな時代に君を置いて行くくらいなら、一緒に逝った方がいいのかもしれない」
迷う様子を見せた静乃様も、晶様の意見に心を決めたようです。白魚のような手が私に向かって伸ばされます。
「千代さん、じゃあ、一緒に逝きましょう?」
私はふらりと歩み寄ります。お二人の手を取って、それから。
――力いっぱい、その手を引きました。
「駄々をこねないで! そんなに嫌なら、逃げればいいでしょ!」
言った後で、天啓を得たと思いました。
「……そうだわ。そんなに嫌なら、逃げればいいんだわ」
「え?」
「私がお手伝いして差し上げます! お二人を養うことくらい、きっと私にだって出来ます!」
お二人は目を丸くなさいました。
「千代さん、そんな無茶苦茶な」
「無茶苦茶じゃありません。ほら、お二人とも。さっさと逃げますよ!」
「で、でも――」
「いいから早く!」
私はお二人の手を強く引きました。緩衝材になってほしいと仰った意味が、この時ほど身に沁みたことはありませんでした。この人達は駄目なのです。二人きりでいると破滅してしまうのです。それを止めるのが、きっと私に与えられたお役目。
火事場の馬鹿力とでも言うのでしょうか。お二人の足が、私に引きずられるがままに一歩先に進みました。
「私は決めていたんです。お二人が祝言を挙げるときには、この千代がお洋服を縫って差し上げようって! その夢を壊さないでください!」
「千代さん……」
「アップルパイとサンドウィッチを持ってピクニックに行くのではなかったのですか! 私、次こそは失敗しないと心に決めて、静乃様のお料理のご本を何度も読んだんですよ。私のあの努力を無駄になさるおつもりですか?」
次の一歩は思いの外素直に足を踏み出してくださいました。温室の扉をくぐり抜けた途端、何かに火が燃え移ったのでしょう、辺りが一瞬強く明るくなって、硝子の割れる音や物が崩れ落ちる音がしました。私はお二人の手を離さないまま玄関から飛び出して、館の外に転がり出ます。
それから駆けて駆けて、夜道は足元も覚束なくて、でもとにかく火の来ない所までと、必死になって駆け続けました。息が苦しくなって立ち止まり、私と静乃様がまず音を上げます。
「も……もう駄目……」
「こ、ここまで来れば、大丈夫でしょう」
遠くから警鐘を鳴らしながら消防車が走る音が聞こえてきます。火は館中に回ったようです。振り返ると赤々と光っています。――短い付き合いでしたが、私はあそこで、夢のような暮らしをさせてもらいました。
静乃様が唇を尖らせます。
「綺麗に終らせようと思ってたのに……」
「焼死で綺麗に終るだなんて、有り得ませんよ、そんなの。街中にあった死体の山、お二人だって見たでしょう」
「違いない」
晶様も座り込み、天を仰いでいらっしゃいます。ですがそのお顔は、憑きものが落ちたように、すっきりとした笑みを浮かべていらっしゃいました。
「ああもう、千代さんには叶わないな」
「……可哀想なことをしたわ」
静乃様の目線は、温室に向かっているように見えました。私は静乃様の肩を抱きます。
「その分これから、たくさん育てていけばいいんです」
「そうかしら……?」
「そうですとも」
「……そうね。だったらいいわね」
肩を抱いた私の手の上に、静乃様の手が乗りました。温かで、柔らかな手。この手が失われなくて、本当に良かった――と考えた所で、私はふと思い出しました。
「……あ。あの百円札、持ってくるの忘れちゃった」
確かあの時、衝動に任せて部屋を飛び出したときに、床に放り出したままだったような気がします。私は頭を抱えました。
「あー、なんてこと! あれがあれば、この先の生活の土台が……って、お二人とも、何を笑っているんですか」
「私、改めて千代さんが大好きだわ」
「ほんと、千代さんが誰よりも逞しいよ」
そう言って笑われて、でも不思議と悪い気はいたしませんでしたから、結局私も、一緒になって笑い転げてしまったのです。
――それから。
月日は瞬く間に過ぎ去り、色々な事が起こりました。
私達はまず、瓦礫を集める所からはじめました。バラックを建てるためです。
バラックが出来て、取りあえず寝泊まりする場所が出来ると、今度は仕事を始めました。
何もかもが無い時代でしたから、お針が出来た私には出来ることがたくさんありました。お金を貯めてミシンを手に入れてからは、少し生活も楽になり、お二人にも良い勤め先が見つかって……。
いいえ、これ以上のことを長々と語るのはよしましょう。
私達はともかく、その後も幸せに、幸せに暮らしたのです!
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