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 雪に包まれた遠い過去。  小さなつぼみが花開く、そのずっと前のこと。  その大きなお屋敷は、広さに比例するように人の数が多い。家人、従業員、使用人。  広大な敷地には、手入れの行き届いた庭園、いくつもの蔵、使用人の宿舎などの建物もあった。  屋敷の主は、家業の商売を大きく拡大し、成功させた旦那様。そして、その跡継ぎとなられるご子息様。  先代より篤志家として知られる当主様は、近隣の河川整備や、公共施設建設に積極的に大金を出すなど、代々地元で慕われる存在だとか。  そんなお屋敷で下働きをする、分不相応な夢を持った、使用人未満の少女がいた。  少女は幼い頃に近くで捨てられていたところを、この屋敷に拾われた。  小さな子どもでは到底一人分の労働力には達しないけれど、住むところと食べるものを与えてくれる屋敷のために、使用人の見習いとして一生懸命働いていた。  せっせと働き続け、ようやく体も人並みに大きくなってきた頃。ひょんな機会で、家の方の付き人として観劇にお供をさせてもらった。  その日を期に、世界が変わった。  私もああなりたい。ああいう風なことがしたい。  日常から非日常に連れ出されるきらびやかな劇場。  生き生きとして美しい役者たち。  華やかな舞台。  自分が自分でなくなる空間。  みじめな少女も、舞台の上では、おてんばな女学生にだって、賢い女教師にだって、高貴なお姫様にだって、何にだってなれる。  大きな夢は、小さな胸にたちまち広がった。  でも、だからと言ってその夢への道のりなど知るわけもなく。  どこに行ったらその夢を叶える汽車に乗れるのか、どころか、どこでその乗車切符が売っているのか、そもそも切符を売っているのかすら、分からなかった。  けれど、あの夢の空間に近づくために何かしたいという気持ちは抑えられなくて。  皆が寝静まったあと、使用人宿舎の女子部屋を抜け出して、毎夜一人で練習のできる場所を探していた。  白い息が見える夜。  その日は人目と寒さを避けようと、敷地の外れの方にある物置小屋の中に入ってみた。  少女はいつものように、あの輝かしい舞台を思い出しながら、役になりきって喋ったり動いたりして練習する。  これで練習になっているのかなんて分からないけれど、やりたくてしょうがない衝動は止められなかった。  薄汚れた狭い物置小屋だって、目を閉じれば、あの日の舞台が目の前に広がっているように想像できる。自分が立派な舞台に立っているように感じられる。  練習を終えて目を開けると、少女を現実が迎える。  眼前には竹ぼうきのたくさん刺さった籠(かご)。蜘蛛の巣の張った物置棚。  目の前の現実を直視すると、身の程知らずな自分の愚かさ、滑稽さと向き合わされるようで、いつも心がへこまないようにするのに必死だった。  もう宿舎に戻ろうと思い、物置小屋の戸に手をかけるが、開かない。  建付けが悪くなっているのかと思い、何度か強く戸を引くが、手応えは変わらない。  練習に夢中になっているうちに、誰かが外から鍵をかけてしまったようだ。 「だ、出して……!」  ここにいることを誰にも知られないまま閉じ込められた恐怖から、少女は無我夢中で戸を叩いて声を上げた。  しかしここは敷地の外れ。人のいる宿舎や屋敷からは遠く、音は届かない。  しばらく戸を叩き続けて叫んでいたが、こんな夜中では誰も気づかないことを悟り、少女はその手を止めた。 「誰か……出して……」  ぐすん、と鼻をすする。  どうせ誰にも届かない。気力の弱る中で絞り出せたのは、か細い声だけだった。  私はなんてみじめなんだろう。  何度も縫い直された、ペラペラの布地のくすんだ着物をまとって。  涙目で、独りぼっちで膝を抱えて。  こんな暗くて狭い場所でこそこそ役者の真似事をするしかない自分には、あんな華やかな舞台につながる道なんて。  親にさえ捨てられた私に、何があるというんだろう。  月も見放す夜。  小窓から差し込む夜空の明かりも鈍い。  寒い。  寂しい。  こんなことをしていても、むなしい。  この場所以外、世界がなくなってしまったのかと思うような真夜中。  少女が一人、膝を抱えて鼻をすすっていると、ふいに何かの音を聞き取った。  砂利を鳴らして歩く音。  待ち焦がれた人の気配だった。  少女はあわてて叫ぶ。 「あ、あの! 聞こえますか……?!」  砂利の音が止まる。 「誰かいるのか?」  若い男の声だった。 「あっ。私、使用人見習いの者です……! ここから出られなくなってしまって……」  砂利を鳴らす足音が、小屋の入り口に回り込み、鍵がかかっていることを確認したようだ。 「少し待て」  そう言って、足音が離れていく。  少女は不安をいだきつつ、その声を信じて待った。  しばらくして足音が戻ってくると、声の主はこう告げた。 「すまない。父上の部屋から合鍵を持ってこないと、この小屋は開けられそうにない。今はとても持ち出せそうにない」 「そうですか……」  落胆しつつも、少女は声の主の正体に気づいて驚いた。  旦那様のことを父上と呼ぶこの人物は、跡継ぎのご子息である成貴(ナリタカ)様だった。  物置小屋の薄い木の壁を隔てて、とんでもない方と直接言葉を交わしてしまった。  普段は話しかけることもできないお方を相手に、何を言ったらいいのか困っていると、向こうから尋ねられた。 「君はこんな夜中に、どうしてこんなところに」  責めるような言い方ではなく、ただ興味本位で尋ねているのだということが分かる。  下々の者にもこんな風に話しかけてくれるなんて、屋敷で見る成貴様はとても冷淡に見えるけれど、こんな一面もあったのか、と少女は意外に思った。  だから、できるかぎり素直に答える。 「あ……。あの、私、演技の練習を、したくて……」 「演技?」  声が不思議そうに単語を繰り返す。 「あ、はい……。台本とかがあるわけじゃないんですけど、今日はこういう役と決めて、演技をするんです。身振りとか、セリフとか……。恥ずかしいので人の目のないところで、夜中にこっそりと」  自分でも、改めて口に出してみると変な行動だなと思い、恥ずかしくなる。 「そういう趣味か?」  問われた疑問に、勇気を振り絞って答える。 「あの……役者になりたい、と思っていて……」  返事がすぐになかったので、あわてて取り繕うような言葉を足した。 「……おかしいですよね、私なんかが。すみません」  少女の言葉に、小屋の外の声は静かにこう言った。 「いや。君の夢が叶うといいと思う」  思わぬ応援の言葉に、思わず少女は目をまたたかせた。 「私、こんな立場なんですけど……」 「演劇の世界というのは、立場が関係あるのか?」 「いや……そういうわけでは、たぶん、ないと思いたいんですけど……。でも、おかしいと思いませんか? こんな私みたいな者が、不相応な、大それた夢を」  自分自身が溶けてしまいそうなくらいの暗闇と、心細さも手伝って多弁になっているのを感じる。  自分の輪郭がなくなってしまいそうな闇の中で、壁の向こうから聞こえる彼の声だけが、自分を形どり続ける支えだった。  声は、また静かにこう勇気づける。 「いいや、まったく。自分の分まで、君の夢を叶えてほしいと思う」  色々な意味がにじんだ言葉だった。  自分より歳が上だと思うけれど、世代が違うと言うには年齢が近い成貴様。  これまで、年の近い人と個人的に話せる機会などほとんどなかった。  図々しいと自覚しながらも、子どもゆえの心の身軽さもあり、気づけばこう申し出ていた。 「あのっ。宜しければまた、お会いできませんか……? 私は毎晩ここで練習をしています」  突然の誘いに、声の主はしばらく考えるような間を作る。 「……す、すみません。分をわきまえないことを……」  沈黙に耐えられなくなった少女が、言葉を継ごうとすると。 「いや、分かった。来られるときはなるべくここに来よう」  声はそう約束した。  そして、一つ頼みを付け加えた。 「ただ、ここに自分が来ていることは、誰にも言わないでくれないか」 「……はい、分かりました」  大商家の跡継ぎという立場ともなると、夜間の行動も自由とはいかないのだなと、少女は彼の身分を少しだけ気の毒に思った。  しばらく取り留めのない話をしていると、物置小屋の小窓にうすぼんやりと朝日の光が入ってきた。 「あっ、陽が差してきました」  少女が歓喜の声を上げると、戸の外の声の主が、座り姿勢から立ち上がったのであろう砂利の音がした。 「もう日が出たから怖くないだろう。あまり勝手にうろつけないんだ。そろそろ失礼する」  そう言って遠ざかっていく足音。  少女は今になって気がついた。  小屋の中がこれだけ寒いのだから、外なんてもっと寒いだろうに。  たった独りで真夜中の物置小屋に閉じ込められた自分のために、彼は立ち去らずに一晩話し相手になってくれていたのだ。  これまで知る由もなかった成貴様の一面。それは、少女が初めて触れる種類の優しさだった。  あの夜から数晩の後。  少女はいつものように、真夜中に物置小屋の中で演技の練習をしていた。 「今夜も練習しているのか?」  近づいてくる砂利を鳴らす足音に耳を澄ましていると、少女が待っていた人物の声が聞こえてきた。 「はいっ。来てくださったんですね!」  喜んで戸を開けようとすると、それを制する声が。 「……戸はそのままで。姿を見られたくない」 「はい……」  残念に思いながらも、少女はその言葉に従った。  やはり、このお屋敷の跡継ぎとなるお方。もし誰かに、使用人などと夜中に二人でいるところを見られたらまずいのだろう。  声の主が壁に背を預けて砂利に腰を下ろしたのが、音で分かった。  物置小屋の薄い木の板を挟み、二人は話す。 「練習は順調か?」 「あ、えっと……はい」  何をもって順調と言っていいのか分からなかったけれど、成貴様を待ちながら一人で練習をしている間は、こんなに寒いのに胸がずっとワクワクしていた。だから、順調と言っていいと思えた。 「演技は楽しいか?」 「楽しいです。全然違う自分になれるみたいで……」  役に入れば、みすぼらしい格好も忘れて、お嬢様にだってなれる。  それに、こうして壁を隔てて成貴様と話している時は、自分が自分でないような気になる。  まるで自分が声だけになって抜け出して、成貴様と対等な立場で話せているかのような。 「そうか……」  そう言って黙り込んだ成貴様に、今度は少女が尋ねる。 「夢、ありますか?」 「夢か……。抱くべくもないな」  少し考えるような間があったあと、それを手放すように、戸の外の声は言った。 「あ……。すみません……」  大商家の跡取り息子という立場は、末端の使用人には想像もつかないような、背負っている重たいものがたくさんあるのだろう。簡単に下ろして、別の荷物に持ち替えたりはできないような。  謝る少女に、声は続ける。 「でもその分、君の夢が叶ってほしいと思う」  本当にそう思ってくれているのだろう。そう信じられる声色。  自分の無謀な夢を、たった一人でも応援してくれる人がいる。  初めての経験に、こんなに寒いのに全然気にならなくて、心がポカポカ温まるのを感じていた。 「ありがとうございます……。私、頑張ります」  そうして二人の深夜の密会は、回数を増やしていった。  ある夜のこと。 「今日、近くの劇場の前に行ってみました。お仕事を手伝わせてくださいと」 「うん。どうだった?」 「まったく相手にもされませんでした……」  沈む少女の声に同情するように、戸の外の声は低くうなった。 「そうか……。世間のことはよく分からないが、厳しいのだな」 「でも私、今度また行ってみます……! もしかしたら、何度も頼んだら、どうにかなるかもしれませんし……」 「そうだな。応援している」  またある夜のこと。  クスクスと笑う少女に、戸の外の声は言った。 「君はまだ声にあどけなさがあるな」  何の気なしに放たれた言葉なのだろうけれど、少女は妙に気にしてしまって。 「子どもっぽいですか……?」 「まだ何の色も持たない君と語らうのは、とても気持ちが楽だ」  それは褒めてもらえているのか、少女にはよく分からなかった。  成貴様は自分よりも年上だし、成貴様からしたら自分はやはり子どもっぽいのだろうな、と思う。  もっと声や喋り方が大人っぽかったらな、と少しだけしょんぼり思った。 「あの……私、話しすぎですか?」  唐突な問いに、戸の外の声は静かに否定する。 「いいや。君の話を聴くことは楽しい」 「そんなに楽しいことは言えてないと思うんですけど……」  そう言う少女に、戸の外の声は穏やかに言った。 「いや……。分からないかもしれないが、何者でもない〝この自分”に話しかけてくれるというだけで、ずいぶんと心が救われるという人もいるんだ」  成貴様はときどき難しいことを言う。  でも、そう言ってくれるならと、少女は沢山のことを話した。  夢や演技に関係ないことも、取り留めなく。  それを戸の外の声は、いつも何でも受け止めてくれていた。  雪に包まれた夜のひと時は、いつしか、少女に生きる気力と夢を追う力、そして胸に宿る小さな温かさを与えてくれるかけがえのない時間となっていた。  彼は、ごくたまに弱気なことを言うこともあった。 「君は以前、『夢はあるか』と訊いてきたな。強いて夢を語るのなら、そばにいてくれる人がほしいのかもいれない」  屋敷では、いつもたくさんの人たちに囲まれて見えるのに。不思議だなと少女は思った。  なんと言葉を返したらいいのか、その時の少女にはまだよく分からなかった。  ある寒さの厳しい夜。その日は雪が降っていた。  ふと戸の外の声がこう言った。 「……庭の椿が咲いている。道理で寒いはずだ」  物置小屋のそばの屋敷の庭園。  雪を湛える真っ赤な花を、少女もたしかに覚えていた。 「そこに咲いているお花の名前は、ツバキと言うのですね」 「ああ。たしか前に、庭師がそう言っていた」  少女にとって、椿の花が特別な意味を持った瞬間だった。  この人に会える場所に咲く花。幸せの時間の象徴。 「こんなに寒くて、周りの植物がみんな眠りについているのに、あんなにきれいで鮮やかな花を咲かせるんですね」 「寒椿は、寒さが厳しくとも、日陰であっても、美しく豪華な花を咲かせるそうだ」  自分もそんな風になれたらいいなと、少女は彼の教えてくれた知識を大切に胸に刻んだ。  そんな日々が続いた後のこと。  屋敷じゅうがにわかにバタバタした時期のあと、成貴様はぱたりと夜の密会に来なくなった。  今夜こそ、と思って少女は物置小屋の中でその声を待つけれど、壁に話しかける彼女の声に言葉が返ってくることは、もう二度となかった。  またしばらくの時が経ち。  少女はもう、少女と呼ぶには無理のある年齢になっていた。あどけない少女の面影からは、美しさの片鱗が顔を出しつつあった。  雪の降り注ぐ冷たい夜に、彼女は一人でそこにいた。 「成貴様……」  憂いを秘めたその声が、切なげにその名前を呼ぶ。 「今夜もいらっしゃらないんですね……」  誰にともなく語りかける。  こうして真っ暗な物置小屋に一人でいると、その壁を隔てていまもあなたがいるような気がするから。自分の言葉を聞いてくれている気がするから。 「私、雑用からなんですけど、劇場でお仕事をさせていただけることになりました。あちらで住み込みで働いて、面倒を見ていただけることになりました」  そう報告する声は、ちっとも嬉しそうではなくて。 「一度、お礼の言葉を直接お伝えしたかったのですが、どうやらそれは難しいようですね……」  彼女の口から、本音がこぼれだす。 「お屋敷で、他人のような顔をしたあなたを見ました」  二人の声を何度も受け止めてきた、ささくれだったシミだらけの木の壁に、そっと手を添える。 「この距離では仕方がありません。私たちは闇夜に隠れればお話できるけれど、日の照らすもとでは口も利けない関係なのですから」  声が震える。 「それでも、あなたのかけてくださる言葉が私をどれだけ慰めてくださっているか。励ましてくれていたか。あなたの存在が私にとってどれだけ大きなものか。一言お伝えしたかった……」  止めどなく涙があふれる。  話せなくなって分かった。  私は、成貴様のことを愛していたんだ。  朴訥(ぼくとつ)に語られるあの静かな声を。  私を受け止めてくれるその心を。 「成貴様……」  ボロボロと涙がこぼれる。  お声が聴きたいです。  おそばに行きたいです。  どうして来なくなってしまわれたのですか。  私は何かよくないことを言ってしまいましたか。  あなたに嫌われてしまったのですか。  胸が苦しい。  こんな私では、あなたに「好きです」とお伝えすることもできない。  数年の時が経ち。  女優として役をもらえるようになってから、彼女は自分の身内のような存在であった使用人仲間に会いに行った。  世話になった人たちに会いたいという気持ちはもちろんあったけれど、そういう名目で屋敷を訪れつつ、できたら成貴様を一目見られたら、とも密かに望んでいた。  その時には、地元の劇場では期待の若手新人女優として、少しは名の知られる存在となっていた。  まだ年若いながら花開き出した可憐さは、元捨て子の使用人という事実などまるで嘘のような輝きを放っていた。  その美貌を生かし、素の自分からは到底かけ離れた、艶めかしい悪女の役まで演じられるようになった。  そうしてさまざまな経験を重ね、少しは心に自信をつけた自分なら、きっと成貴様に会えると思ったのだ。  そして、彼女が屋敷の使用人宿舎を訪れたとき。  まさに成貴様が、庭に面する屋敷の廊下を通りかかった。  成貴様の姿を数年ぶりに目の当たりにして、嬉しさがこみ上げる。  亡くなられた旦那様の跡を継ぎ、若き当主として、凛々しく成長されたそのお姿。  たまらなくなって、彼女は駆け出した。 「あ、あのっ……成貴様! 元使用人風情が直接お声がけをして、申し訳ございません。でも、どうか一言お伝えしたくて……。私、女優になれました……! あなたがずっと励ましてくださったから……」  あの時の貧相な格好をした私ではありません。  こんな優雅に振舞える、美しく笑えるようになりました。  大人ように喋れるようになりました。  なのに。  こちらに向けられる目は、まるで知らない人を見るもので。いぶかしむような冷たい視線に全身を突き刺される。  傍に付き従っていた使用人頭が、何か耳打ちしたことで、元使用人だということを思い出したのだろう。  それで少し記憶を取り戻したのか、「ああ、そんな使用人がいたな」と一言つぶやいたが、首をかしげる。 「君はそんな風に媚びて笑う女だったか?」  あの時応援してくれた言葉など忘れてしまったかのような言葉。  あの夜のやりとりよりも時が経ってより低くなった声は、まるであの思い出を捨て去ってしまったかのように冷たかった。  彼女は必死に、二人しか覚えていないはずの会話を思い出させるようなことを言うけれど。 「あの、私で宜しければ、これからはあなたのおそばに……!」  夢を強いて語るなら、と弱気な彼がこぼした言葉への、数年越しの答えだったはずなのに。  迷惑そうな他人の顔をされ、足早に行ってしまった。周囲も、頭のおかしい人間を見る視線を彼女に残して去っていく。  彼女にはその現実が信じられなくて。茫然自失で立ち尽くしていた。  私の告白が断られたって、良かった。身分が違うんだもの。  でも、私のことを、私と交わした言葉の数々を簡単に忘れてしまったというのは、あんまりだ。  あの頃のみじめな私を応援して、優しく受け止めてくれていたはずの声が、今度は、成功したはずの私を冷たく突き刺す。  あの寒い夜のみすぼらしい私の方が、よっぽどあなたの近くにいたというの? 「どうしたらあなたの好きな私を演じ続けていられたの……?」  あの雪夜に流した涙よりも冷たい涙が、あふれてとまらなかった。  私にとって大事な思い出だったそれは、  かけがえのない心の支えだったそれは、  いつか自分の分まで夢を叶えてほしいと言われたことは、  あなたにとっては、夜が明ければ朝露のように消えてしまうような言葉だったのですか。  私が今まで支えにしてきたもの、そんなものは存在しないと知ってしまった。  私の心が壊れてしまいそう……。  私を拒絶する冷たいその瞳。  もう、ここにはいられない。  自分をすべて捨ててしまいたい……。
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