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 日が落ち、月も雲に隠された夜。  薄暗い、人の寄り付かない旧劇場。  いくつもの照明で照らされ、夜も人々で賑わう現劇場との対照で、いっそう静まり返って感じられる。  こうして訪れるのはどれくらいぶりだろうか。  劇場敷地内にあるが、今はすっかり廃れ、ほとんど物置としてのみ使われているこの場所。  古びた正面扉を押し開ければ、人気のまったくない埃っぽい廊下が出迎える。  ここには、彼女がかつて、人目を避けて身支度に使っていた部屋がある。  出会った時は全く分からなかった。  あの色っぽい悪女の姿。赤や漆黒の艶めかしいドレス。きらびやかな装飾品。短く切りそろえられた印象的な舞台用カツラ。素顔を隠した派手な舞台化粧。  それが、あなたと初めて出会った時。  こんなに大切な存在になるとは、その時は思ってもいなかった。  凍って固まっていた僕の心を溶かした、あなたの存在。あなたの言葉。あなたの声。あなたの笑顔。  これまでのこと思い返しながら、誠一郎は足を一歩一歩進める。  彼女はここで、切望していた自分の舞台を、「あなたのためにやるから、必ず見に来て」と言ってくれた。  彼女はそよ風の中、器用なふるまいのできない自分に、「私はそんなところに男の人の価値を置いていないから」と笑ってくれた。  彼女は自分の胸に額を寄せて、「あなたと会えない間、すごく寂しかった」と告白してくれた。  彼女は自分の目を見て、「あなたが何者だからとか、何かをくれるからって、一緒にいるわけじゃない」とほほえんでくれた。  彼女は穏やかに、「こういう道をたどってきたからこそ、あなたと会えたんだもの」と恥ずかしそうに伝えてくれた。  彼女は雪の降り注ぐ夜に、自分の想いをすべて受け止めてくれた。  そして、たどり着いたこの部屋。  長らく彼女の本当の姿を隠し、舞台女優・椿月に変身させていた部屋。  物音はなく、明かりもなく、誰もいないように思える。  闇の中、誠一郎はそっとノックをして声をかけた。 「椿月さん……。僕です」  絞り出した声は、自分で思っていた以上に疲れていた。  声ににじむ憔悴を押し隠しながら、ドアに向かって言葉を続けた。 「大事なことを今までお話しできず、驚かせてしまって、本当に申し訳ありませんでした……」  返事はないけれど、きっとそこに彼女がいると確信して話し続ける。 「隠すつもりはなかったのですが、椿月さんの苦労の多かった過去の話を聞いて、自分の生まれのことを言い出しにくくなってしまい、こんなに後になってお話しすることになってしまって……」  誠一郎は古びた戸に真剣に語りかける。 「もし何か、椿月さんを傷つけてしまうようなことをしたのなら、謝ります……。すみません……。謝って許してもらえることなのか分かりませんが……」  少しの間を置いて、扉の向こうから震える声が返ってきた。 「……謝らないで。あなたはまったく悪くないの……。悪いのは、私……」  え、と誠一郎は目を見開く。 「私はあなたを代わりにしていたのよ……。いつまでも忘れられない初恋の人の面影を重ねて、そんなこと気づきもせず、まるであなたを愛しているかのように……」 「初恋の、人……?」  ドア越しに語られる予想もしなかった告白に、誠一郎は戸に張り付くようにして、か細い彼女の声を聞き逃さぬように待った。 「私が奉公していたお屋敷は、あなたの家よ……。話を聞いて、皆さんの顔を見て、思い出したの。そこで私は、あなたのお兄様……成貴様に恋をした……」  思考がついていかない誠一郎。  たしかに椿月は前に、幼少期に親に捨てられ、物心ついた頃には奉公先に拾われていたと言っていた。まさかそれが自分の生家だったなんて。  信じられないけれど、今まで伝えたことのない自分の兄の名を正確に言ったのだから、嘘ではないのだろう。 「私はなぜか、劇場で一目会った時からずっと、理由も分からずあなたに惹かれていた……。今なら分かるの。それはね、あなたが、あなたのお兄様に顔も声もそっくりだったから」  椿月は鼻をすすりながら告げる。 「私、あなたのお兄様のことが好きだったの……。本当に、心の底から。そっくりなあなたを、想いの届かなかった成貴様の代わりにしていたんだわ……」  二人はこれまで、過去の話を意識的に避けていた。  椿月は過去のつらい出来事を努めて忘れようとしていたし、誠一郎も積極的に自分の過去を話そうとはしなかった。  だから、椿月の奉公先が深沢家の屋敷だったということも、二人の地元が同じ場所ということも、まるで分かっていなかった。  誠一郎が気にしていた椿月のかつての想い人。  その人に冷たくあしらわれたことで、すべてを捨てて地元を去ってしまったくらい好きだった人。  それがまさか、自分の兄だったとは。  いくつもの複雑な感情がないまぜになる。  でも。  誠一郎が彼女に言いたいことは、一つだけだ。   誠一郎は、全ての告白を受け止めた上で、静かにこう口にした。 「……話してくださって、ありがとうございます」  彼女の心に触れるように、扉に掌を重ねる。 「でも、僕はそんなことは気にしません。きっかけはなんであれ、出会った日からずっと、あなたはたくさんのことを〝この僕”に与えてくれました。入り口が何であっても、椿月さんがこれまで〝僕”にかけてくれた言葉は、本当のものですから」  旧劇場の古びた木の戸を隔てて、誠一郎は彼女に真摯に語り掛ける。 「それに……、僕たち兄弟は見た目や声がよく似ていても、中身はまるで違うんですよ。それでもあなたが僕と共にいてくれた日々は、あなたは間違いなく僕を見てくれていたという何よりの証左です」 「でも……」  無意識とはいえ、自分のしてしまったことに気づいてしまった椿月は、彼の言葉をまっすぐに受け入れられない。  過去と後悔に絡めとられて動けない彼女に、誠一郎ははっきりと言った。 「本当です。だからこそ僕は、出会った時からずっと、今も、あなたを誰よりも深く愛しています。たとえ兄にでも、渡しません」  こんなに直球に言ってくるのは、初めてのことで。  扉を間に挟んだ二人の空気が震える。 「椿月さん。僕が生きる限り、あなたを生涯大切にします。だから、僕の妻になってもらえませんか」  誠一郎ははっきりと言い切った。  彼女を失いたくない。誰にも渡したくない。  そうなると、彼の中で当然のように導き出された言葉が、これだった。  沈黙が降りる。  椿月の返事を、誠一郎はじっと待った。  しばらくして、ドアがゆっくりと内側から開かれる。  髪も乱れ、泣きはらした目をした椿月が姿を見せた。 「……私でいいの? 私、あなたのお兄様のことが好きだったのよ……。あなたのことを、きっと代わりにしていたのよ……?」  ようやく見ることのできた、彼女の顔。  誠一郎は椿月の頬に手を伸ばし、その指先が愛おしそうに涙の乾いた頬を撫でる。  そして、薄くほほえみをたたえて、答えた。 「僕が、あなたでないとだめなんです」  そう言って誠一郎は椿月をきつく胸に抱きしめる。  もう二度と離さない。  失う怖さを知ったから。  他に何も、恐れることも、恥ずかしがることもない。  苦しいほどに、壊してしまいそうなくらい強く抱きしめる。  カシャンと眼鏡が床に投げ出される音がして、椿月の華奢な下あごに手が伸びたかと思うと、唇をむさぼるように激しく口づけられた。 「はぁっ……。誠一郎さん、待って……」  何とか息を継ぐ椿月があえぐも、その降り注ぐ愛が緩められることはなく。  絶対に離したくないと、自分のものだと刻み付けるかのように。普段の彼らしくない、独占欲に飢えた荒々しい愛情が収まるまで、しばらくの時間を要した。
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