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 二人はその薄暗く狭い小さな部屋に、壁を背に、並んで腰を下ろしていた。  窓からは、雲の切れ間から覗く月明り。天井からは、吊られた裸電球がそっと光を落としている。  寄り添う二人の手は、自然と重ねられていた。  椿月は静かに口を開いた。 「あのね……。どうして私が成貴様をお慕いしていたかっていうと、女優になる夢をずっと応援してくれていたからなの」  椿月が問わず語りにポツリポツリと話しだした、彼女の心に秘められた記憶を、誠一郎は黙って聞いていた。 「私は夜中に使用人宿舎を抜け出して、敷地の外れの物置小屋の中で演技の練習をしていて。ある夜、そこに閉じ込められてしまった時に、助けてくださったのが成貴様だったの」  自分の過去を浄化していくかのように、椿月は大切な思い出を愛おしそうにゆっくり口にする。 「それから毎晩、壁越しにだけど、お会いするようになって。立場の違いがあるから、昼間の屋敷内では目も合わせてくださらないくらい素っ気ないけど。夜は私の無謀な夢のことを、すごく励ましてくださって。自分の分まで夢を叶えてほしい、って言ってた」  何か美しいものを眺める時のように目を細めて、椿月は語る。 「お話しさせていただいていたのは、すごく寒い時期でね。その時、物置小屋の外の庭園に咲いていた花が――」 「雪景色に映える、真っ赤な椿……」  言葉の先を奪った誠一郎。  椿月は思わず彼の顔を見た。 「……え?」 「椿月さん……。それは、兄ではなく、僕です」  ああ、僕はなんて記憶力が悪いんだろう。どうして忘れてしまっていたんだろう。  それは、誠一郎の口から初めて語られる、彼の過去。  成貴と誠一郎の父である当時の深沢本家当主は、二人の息子がまだ成人する前だというのに、回復の見込みの乏しい病を患ってしまった。  大商家である深沢家一族は、絶対権力者である当主の病をきっかけに、その後継者争いを激化させていた。  順当に行けば、長男である成貴が、父の意を継いで家長となる。  しかしそうなると、分家の出る幕はない。  誠一郎は年子の男児ということで、権力争いのために数々の分家の親族に目をつけられていた。  当主亡きあと誠一郎を次期当主に据え、分家が後見人となって意のままに操ろう。そういう魂胆だった。  兄が家を継ぐ前にその身に何かあれば、代わりに家長になるのは次男の誠一郎であったから、教育は人並み以上に、跡継ぎである兄とほぼ同様に受けていた。  しかし、誠一郎としても、兄が無事に家を継いだら次男の自分は家を出るものだと思っていたし、兄は自分と違って商才があり、非常に優秀であることは分かっていた。  だから、もし万が一親族たちに兄の対抗馬として担ぎ上げられようとしたとしても、固辞すると決めていた。  だが、兄と仲が良く、競争心に乏しい誠一郎を焚き付けるために、権力に目がくらんだ親類たちは、誠一郎が兄を慕う気持ちまでも折って抱き込もうとしていた。  兄はお前のことを愚図だと言っていた、お前がいなければ良かったと、こんな悪口を言っていた、お前の大事なものを壊した、侮辱した、だの、あることないこと誠一郎に吹き込み続けた。  だから誠一郎は、何も聞かないように、関心を持たないようにして、心を殺した。  毒霧の中にいると、自分の吐く息まで毒になる。  純朴だった少年は、口数が減り、表情がどんどん乏しくなっていった。  このまま誠一郎が権力争いの道具になり、家が二つに割れることになってはいけないと、誠一郎は父の命令で屋敷の離れで隠して育てられることになった。  歴史を振り返れば、過去には二つの神輿を担いだ権力争いで家が丸ごとつぶれたり、兄弟同士で殺し合ったような例もある。  二人の父はそれを懸念して、家のためにこそそうしたのだろう。  表向きには、誠一郎はよそに出したとか、能力的に跡継ぎに不向きだということにされた。  兄にも父にもなかなか会えず、世間から隔離され、屋敷の離れで隠されて暮らしていた誠一郎には自由がなかった。  心を慰めてくれるのは、大好きな本を読む時間と、人目を忍んで夜中に敷地内を出歩く時間だった。  そんなある時に、敷地の外れの物置小屋の中から、助けを求める少女の声がした。  鍵を開けてやりたいけれど、いない存在とされている自分の立場ではどうすることもできなかった。こんな寒い夜に、暗い小屋に一人ぼっちの彼女のために、せめて共にいるくらいはと思い一晩を語り明かすと、少女にまた会うことを誘われた。  自分の立場上迷ったが、夜に少し話すくらいなら問題ないだろうと思った。それに、こうやって同年代の人間と個人的に親しく話せる機会などめったにないのだ。  自分がここに来ていることは誰にも言わないようにと約束させ、小屋の壁越しに話すことで自分の姿を少女に見られないようにもした。  自分がこんな立場だからこそ、夢を見られない自分の分まで夢を叶えてほしいと本当に思っていたから、少女の夢を応援していた。  深沢家の次男でも、跡継ぎの対抗馬でも何でもなく、ただの自分に喋りかけてくれる彼女の存在がありがたかった。自分が誰であるとか関係なしに、無邪気に話してくれることが、嬉しかった。無垢な言葉が、愛おしかった。  そんなある時、父が突然の危篤状態となった。  父の当主としての最後の指示に基づき、名目上は兄が家を継ぎ、誠一郎はすぐに他地方の名門校の寄宿舎に送られた。  あっという間の出来事で、正体も分からないあの少女に別れを告げられなかったことは、誠一郎としても心残りだった。しかし、ただちに行けという父の命令に逆らうことはできない。  もともと社交的な性格ではなく、関心も内向的で、何かに興味を持つと他のことはすっかり頭から抜け落ちてしまうし、人のことを覚えているのが得意ではない誠一郎。  それに加えて、寄宿舎まで追いかけてくる親類たちののひどい権力争いに巻き込まれて、尚の事強く心を殺していた。  いつしかあの憩いの時間も、少女の夢も、心を殺すままに時間が過ぎ、忘れてしまっていた。  その後、父が亡くなって名実共に兄が当主となると、誠一郎は正式に家を出た。  絶対権力者の父がいなくなり兄が家を継ぐときに、もう自分のいられる場所はこの家にないこと、自分がここにいては後を継いだ兄が立場上困ること、親族たちに向けた体裁などを考えて、家を出ることにしたのだ。  自分一人くらい、どうとでもなる。  居場所がなくなったというのに、不思議と心は軽くなっているのを感じていた。  姿を隠す必要もない。行動が制限されることもない。見えない鎖で未来を縛られることもない。  親類はともかく、兄弟仲は相変わらず悪くなく、送り出す際には兄が沢山の洋書を贈ってくれた。  借家の手配も、兄は弟を心配し、誠一郎が出る地方の物件を管理する大家夫妻に連絡を取ってやった。 「深沢家の坊ちゃまを長屋に住まわせるなんて、そんなことさせられませんよ!」 「とはいえ、僕はまだ稼ぐような手立てもないし……。雨風をしのげて、物を置けるだけで十分なんだが」 「古くて宜しければ、良い立地に手前どもの物件がございますが……」  紹介された家を見に行って、今まで屋敷や宿舎暮らしだった誠一郎は、そのぼろさに少々驚きはしたが、そこに住むことを決めた。  少々古びてはいるが、ここは自分だけの城だ。  もう誰に気兼ねすることもなく、夢を追おう。  誠一郎は寄宿舎時代に、同級生と話すこともほとんどなかったため、よりいっそう読書が好きになり、朝から晩まで時間さえあればずっと本を読んでいた。  そこで密かな夢をいだいたのだ。小説家になりたい、と。  物語の中だったら、何にでもなりきれるし、どんな人物だって、関係だって、作り出せる。現実の自分の立場なんて関係ない。  夢を追う。そう考えた時、誠一郎の脳裏を何かがかすめた気がした。  たしか、前に誰かもそんなことを言ってたような気が。  しかし、屋敷の離れで暮らしていた時代を思い出そうとすると、心無い大人たちの言葉が錯綜して苦しくなる。  それから、ずっと憧れていた作家の師匠に弟子入りをした。  そして……  今、この薄暗い旧劇場の一室で、椿月と二人、寄り添っている時間がある。  誠一郎の顔を、丸くなった瞳で見つめたまま、呆然とする椿月。 「本当に……?」  椿月は混乱する頭で考える。  たしかに、成貴様に弟がいるなんて、二人目のご子息がいるなんて、お屋敷で奉公していた頃には聞いたことがなかった。  はじめは成貴様が現れたことにに衝撃を受けて何も分からなくなっていたけれど、よく考えてみれば。  夢を見るべくもない自分の分まで夢を追ってほしいと、誰かがそばにいてほしいと言った、寂しそうなあの言葉の真実。  椿月はあの頃の言葉の真意を悟った。  誠一郎は椿月の問いかけに、 「はい」  とまっすぐ目を見て頷く。  そして、表情づくりの下手な彼が、目だけで優しくほほえんでみせる。 「子どもの頃からの夢が叶って、本当によかったですね。椿月さん……」  それはきっと、あの時の私が求めていたもので。  暗闇で私を勇気づけてくれたあの優しい声で、私の夢が叶ったことを祝ってほしかった。褒めてほしかった。喜んでほしかった。 「誠一郎さん……!!」  すべてを知った椿月が、彼の首に強く抱き付いて、子どものようにわんわん泣き出す。あの頃伝えられなかった思いを、今伝えるように。  あなたに会えてよかった。  あなたがいてくれてよかった。  あの時は、そばにいてくれて本当にありがとう。  ずっとあなたのことが好きだった。  好きだと伝えたかった。  椿月の心の中でずっと泣いていた、叶わぬ想いに震えていたあの日の少女が、ようやくその相手に思いを伝えられた。  二人を隔てる壁も、立場も、もう何もない。 「椿月さん……」  自分を必要としてくれる、きつく抱きしめ返してくれる力強い腕に深い幸福を感じながら、椿月は涙を流していた。  少女の頃の自分の涙と、今の自分の涙。いろいろな感情が混ざり合ったそれは、自分の心の錆を清らかに洗い流していった。  かつて壁越しに出会い、語り合い惹かれ合った二人は、ようやく再会できた。  涙をこぼしながら抱きしめ合い、二人の思いは今、やっと一つになった。  雨雲が払われた、静かな空の下。  月の光に見守られて、椿月を家まで送る帰途。  誠一郎は彼女の手を握りながら、言った。 「あの……お願いですから、もう何も言わずにいなくならないでくださいね」  その目には、まるで見捨てられそうな犬のような懇願が見える。 「椿月さんにもう二度と会えないかもしれないと思ったとき、悲しくて、心臓が壊れてしまうかと思いました。もう、あんな思いには耐えられません……」  彼女の手を握る手に、無意識に力がこもる。 「椿月さんにもし、何か消えてしまいたいくらいつらいことがあったら、必ず僕に言ってください」  意外な願いに、足を止めた椿月がきょとんと彼の顔を見上げると。 「その時は僕も、すべてを捨てて、椿月さんと一緒にここを離れます」  思いもしなかった言葉に、椿月は驚いて言葉をすぐに返せなかった。  そして誠一郎は言う。 「何があっても、一緒です」 「はい……」  頷く椿月の目尻に、また涙の粒が光る。  どれだけ長く厳しい冬が続こうとも、時間は確かに流れていて、裸になっていた木々もいつのまに芽吹きはじめている。  きっと近いうちにこの街にも桜の花が咲き乱れ、新しい季節を彩るのだろう。  二人の歩む未来を祝福するように。
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