夜は嘘にふるえてる

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夜は嘘にふるえてる

「麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。」  それは、数日前のことだ。  病院と学校――それぞれの帰り道から、たまたま鉢合わせた電車の中でのことだった。  母は、石を水面に投げるように言った。向かいの椅子の足元の、そのまた遠くを見ながら。喉に無理に力を込めて、少し上ずって震えた声で、確かにそう言った。  麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。  赤い目元、目じりには涙がべっとりと光っていた。少しのしわと、しみが浮かんだ肌がファンデーションの影からのぞく。水分と握力の為にぐしゃぐしゃになったハンカチが、手の中でしなだれていた。  私はそんな母を隣で、黙って見ていた。  とうとう来たか、そんなことを考えながら。  二年前、姉の麻衣の長期入院が決定して、私たちの生活は激変した。  ――なんていうことはなかった。  母の病院へ行く頻度がさらに増して、父が家に帰ってこなくなっただけだ。  そもそも姉が体調を激しく崩すことは、うちではそう珍しい事ではなかった。姉の体調が悪いほど、母も父もこの家から姿を消したから、もう慣れっこだった。  姉はもともと体が弱くて、私は姉の元気な姿を見た事がない。それでも姉だって、本当に時々、登校日くらいの頻度で学校に行っていたこともあるし、近場に家族旅行に行った事もあった。  けれど、私が姉を思い出す時はいつだって、青白い顔で本を読んでいるところか、窓の外を眺めているところだった。   「由衣ちゃん」    姉の部屋に入ると、姉はいつも笑って迎えてくれた。  いつだってそうだった。それは病院の部屋でも、家の部屋でも変わらなかった。  当時、まだ幼かった私にとって姉は、距離のある二つの部屋を、定期的に行き来している人、という認識だった。  ただ、薬臭くっていやに真っ白な病院の部屋よりも、暖色に包まれた家の部屋の方で、迎えられる方がずっとよかった。  私は、どうして姉が病院の白い部屋と、家の暖かい部屋を行き来しているのか、その理由がよくわからなかった。  いや、違う。何となくはわかるけど、何だかよくわからない――これが一番、当時の私に近い感覚だ。  姉は体が悪いのだと言われても、ぴんと来なかった。  私自身は具合が悪くても、白い部屋に行って眠ったことがなかったから。私は健康だった。だから、姉のようにわざわざ行って眠ったからと言って、何か意味があるとも思えなかった。  家で休めばいいのに、どうしてわざわざあんな遠くて臭くて白い部屋に行くんだろう?  なんて不思議に思っていた。   「どうして、おねえちゃんはうちでねないの?」  いつのことだったか、疑問に思って聞いたことがある。姉は困ったように、眉を下げて笑った。 「ここにいる用事があるの」  この姉の言葉に、どう答えたか私はあまり覚えていない。  けれど、「ふうん」だとか、「じゃあはやくようじ、おわらせて」とかそんなことを言ったのだと思う。  私は病院に行くのが好きじゃなかった。知らない人ばかりだったし、遊ぶこともできない。何もわからないのに、ただ静かに座っているしかできない。私を連れてきた母は、姉の世話をしたり看護師さん達と話をしたりしている。私は、母の背を、じっと見ていなきゃいけなかった。  要するにひどく退屈だったのだ。「ここはつまらない」と、姉にも、何度か文句も言っていた。  だから、きっと、私の答えは、この予想であっているだろう。
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