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五番目の男
泥のような重たい俺の心とは反対に、空は快晴で、太陽は朝から高い位置にあった。
寝付けないまま朝を迎え、高野さんの彼氏が運転する車が俺のアパートの前に停まった。
クラクションがうるさい。
「何よ、その冴えない顔は」
「ちょっと寝不足で……」
高野さんの彼氏がサングラスを取ってニッと白い歯を出した。
真っ白な歯が反射してまぶしい。
どうして金持ちは歯が白いのだろう。
「同じ会社の竹村くん」
高野さんは、男に俺を紹介すると、今度は俺に向かって含み笑いをした。
「こちら、榊原さん」
それ以上何も言わなかった。
そうか。俺に頼まれて寝取ったことは内緒なんだな。
「じゃ、行こっか」
高野さんの言葉を合図に榊原さんが運転席に滑り込んだ。
助手席に回ろうとする高野さんを小さく手招きし、小声でささやいた。
「今日は、俺の好きな子も来るんですよ」
「あ、そうなの? やったじゃん。協力するよ」
「そうじゃないですよ。俺の好きな子ということは、つまり、榊原さんの元カノですよ」
「そうね」
高野さんは、驚く様子もなくあっけらかんとしていた。
「そうねじゃないですよ。修羅場になりますよ。今からでも……」
「大丈夫よ。私たちそんなの気にしないから」
高野さんは、目が痛くなるような黄色の細いパンツに形のいいお尻をくっきりと浮かび上がらせ、お尻を振りながら颯爽と助手席に乗り込んだ。
「はあ~」と大きなため息が出た。
気が重い。
大野をピックアップして俺たち四人は高速に乗った。
前の二人は、終始談笑し、時々歌い出して上半身を揺らした。
どうなっても知らないからな。
彼氏を取られた高野さんを見て妃奈は何を思うのか。
険悪なムードが漂い、バーベキューどころではなくなるだろう。
そして、中根と妃奈の関係を高野さんに気づかれてしまうかもしれないし、逆に俺と妃奈をくっつけようといろんな細工をするかもしれない。
どっちも地獄だ。
大野は、隣でイヤホンをし、スマホで動画を見ていた。
まったくのん気でいいよな。
高速をおりると、買い出しのためにスーパーに寄った。
俺は高野さんと榊原さんのあとを金魚のフンのようについて回っただけだった。
大野にいたっては、いつのまにかいなくなり、スーパーの駐輪場で動画を見ていた。
再び車に乗り込み、走り出した。
「もうすぐ着くからね」
高野さんのテンションは高かった。
十分ほど走ると、高野さんが大きな声を出した。
「あー、いたいた」
俺は運転席と助手席の間から身を乗り出した。
駐車場に中根と妃奈の姿が見えた。
向こうも気づいたようで、こちらに手を振っている。
そっと榊原さんの顔をのぞき込む。
榊原さんは、笑顔で片手を上げ、彼らに答えていた。
この人は、妃奈の姿が見えないのか。
高野さんは、窓を開け、「お待たせ~」と声を張った。
車内に生暖かい空気が一気に流れ込んだ。
車は彼らの目の前まで近づいた。
妃奈は、元彼と寝取った女の姿を目に捉えているはず。
それなのに、妃奈はニコニコとあいかわらず天使のような笑顔を振りまいていた。
車が停まると、高野さんは一目散に降りて、「かわいい」と言いながらフランクに妃奈に抱きついた。
俺は、窓の向こうに見える二人に釘づけになった。
二人とも笑っている。
「会いたかったです」
妃奈はそう言って高野さんのハグを受け入れた。
これは、俗にいう女の嫌味の攻防戦なのか?
もしそうなら、女は怖い。
どう見ても仲の良い姉妹のようにしか見えない。
全員が車からおりると、今度は榊原さんが中根に近づき、右手を差し出した。
それにがっちりと手を合わせる中根。
そしてそのあとに妃奈に向かって、「元気そうだね」と声をかけた。
俺はすぐさま中根に視線を移した。
この二人は知り合いなのか、と疑い、怪訝な顔をしているにちがいない。
しかし、中根は再会を喜ぶ二人を穏やかに眺めていた。
そうか。中根は知っているのか。
みんな承知の上での参加なのか。
俺だけが知らなくて、一人でやきもきしてバカみたいじゃないか。
でも、中根も妃奈も高野さんも榊原さんもよくあんな顔ができるよな。
なあ、そう思わないか? と心の中で大野に話しかけたが、大野の姿がなかった。
「ほら、竹村も手伝いなさいよ」
高野さんに荷物を渡された。
トランクから大野が率先して荷物を出していた。
両手に荷物を持ちながら、ぞろぞろと歩き出す。
「この渓谷は穴場なんだよ」
先頭の榊原さんが歩きながら振り向いた。
「やっぱり榊原さんに頼んで正解でした」
中根が答えると、妃奈が「でしょ?」と得意気な顔をした。
この会話から想像できることは、バーベキューに榊原さんも行くということを知った妃奈は、だったら場所は彼に任せようと提案したのではなかろうか。
おい、中根。それでいいのか?
自分の彼女が元彼に頼ろうなんて提案してきてうなずいたのか?
そもそもどうして元彼と寝取った女とバーベキューをすることになったときに断らないんだよ。
お前ら全員普通じゃないぞ。
前を歩く四人は楽しそうに笑っていた。
俺と大野だけのけ者じゃないか。
「俺たちのけ者じゃないかな?」
大野にたずねた。
「そう? 楽しくなりそうだけど」
お前はいつも自由でのん気でいいよな。
悩みなんてなさそうだもんな。
心の中でつぶやき、自分の立場を呪った。
俺が四番目だったら、このバーベキューは最高に楽しかったはずだ。
なんなら、榊原さんの登場だって許す余裕すらあったかもしれない。
林の中に入ると、体感温度が変わった。
木々の葉が揺れ樹木の香りが鼻に流れ込んできた。
水の音が聞こえてくると、開けた場所に出た。
河原には二組のグループがいた。
立ち止まり、鼻の穴を思いきり広げて息を吸った。
空気がきれいだ。
下がっていた俺のテンションが少しだけ上がった。
「うわ」と中根が歓声を上げ、クーラーボックスをその場に置くと、走って川に近づいた。
そして、手で水をすくい顔にバシャバシャかけた。
「きもちいー」
気づくと、俺も中根の隣で同じことをやっていた。
そして、すくった水を口に含んだ。
「うまっ」
俺と中根は顔を合わせ、同時に叫んだ。
高野さんと妃奈が子どものような俺たちを見てくすくす笑っていた。
ヤバイ。楽しい。
榊原さんは黙々とテントを張っている。
男性陣はそれを手伝い、椅子やテーブルを準備した。
高野さんと妃奈は食材を調理し始めた。
肉を焼いている間にビールで乾杯した。
運転する榊原さんはノンアルコールビールで、飲めない大野はオレンジジュースで乾杯した。
帰りは大野に運転を変わってもらうことを約束した中根は、缶ビールを一気に飲み干した。
ずいぶんご機嫌だな。
そりゃそうだよな。
隣で妃奈が微笑みながら中根を見つめているのだからな。
「ちょっと、竹村、席変わって」
妃奈の隣に座る高野さんが言った。
そうか、そうきたか。
つまり、高野さんは、中根と妃奈が付き合っているということを知らないのだな。
だから、俺と妃奈をくっつけようとしている。
まずい展開になった。
しかし、かたくなに拒むと逆にあやしいので、「何でですか」と軽くぼやきながら席を変わった。
高野さんとすれ違った瞬間、彼女は俺にウインクした。
まずいぞ。今日の高野さんはやる気だ。
俺と妃奈を何かと理由をつけて二人きりにさせるように仕向ける気だ。
そのあからさまな言動にここにいる全員が気づくはずだ。
榊原さんや大野に知られてしまうのは構わない。
だけど、中根にだけは絶対に知られたくない。
「あー、かいー」
中根が腕をかきむしりながら大きな声を出した。
それに妃奈がすぐさま反応した。
「虫刺されてる。ちょっと来て」
二人はテーブルから離れると、妃奈が中根の腕にスプレーを吹きかけた。
「竹村もスプレーしてもらいなよ。さっき刺されてたじゃん」
声の方を見ると、高野さんが目で「負けるな」と訴えていた。
「いや、俺は……」と断ろうとしたら、妃奈が「雄聖くんもやってあげる。おいで」と手招きをした。
重い腰を上げて妃奈に近づくと、中根が俺の腕をまじまじと見つめていた。
「どこっすか? 全然、赤くなってないですよ」
そりゃそうだ。
家で虫除けスプレーをしてきたんだからな。
刺されてないよ。
と言えるはずもなく、適当にごまかした。
「刺されないようにスプレーするんだよ」
妃奈が中根に向かってふくれっ面をした。
まん丸の唇がまたかわいい、と思った次の瞬間、中根が妃奈のおでこを人差し指で軽く突いた。
ケラケラと笑う妃奈。
どこからどう見ても恋人同士だ。
待たされている俺の立場がない。
どういう顔をすればいいんだよ。
「はい。雄聖くん、腕出して」
腕を出すと、中根がスプレーを取り上げた。
「俺の先輩だから、俺がやる」
なんだよ、その理由。
妃奈にやらせたくなかっただけだろ。
また妃奈の唇が尖った。
もめる二人に待たされることが苦痛だったので、「どっちでもいいよ。いや、自分でやる」と中根からスプレーを取り上げ、自分でスプレーした。
戻るときに、高野さんと目が合った。
高野さんの眉間にはしわが寄っていた。
その顔は、「せっかくチャンスをあげたのに」と語っていた。
心もとなくなって、肉を焼きにテーブルから離れた。
すぐに高野さんがやってきて、小声で質問した。
「どういうこと? あの二人付き合ってるの?」
「さあ。中根は何も言ってないので……」
中根からはまだ聞いていない。
中根の口から報告がない限り、俺は二人の関係を知らない。
「何よ、負けちゃったの? せっかく協力してあげようと思ったのに」
負けた? 俺は負けたのか?
いや、負けたわけではない。
あの合コンのあと、すぐにでも妃奈に告白をしていたら、今、妃奈のおでこを小突いていたのは俺だったのだから。
告白が遅れた俺のミスだ。
ミスなら挽回できる。
それから、高野さんは俺と妃奈をくっつけようとすることをあきらめ、代わりに中根と妃奈がイチャイチャしている姿を見ると、俺に視線を移して肩をすくめ、残念そうな表情を作った。
「いい釣りスポットがあるんだ」
榊原さんが、釣竿を手に持ち得意そうに胸を張った。
「いいっすね」
中根はすぐさま飛びついた。
「俺はいいです」
大野は、椅子から動かなかった。
「じゃあ、三人で行きましょう」
中根に言われて、二人のあとをついて行った。
林の中に入り、しばらく歩いた。
木漏れ日が降り注ぎ、緑が鮮やかだ。
林を出ると全開の太陽に肌が痛かった。
釣りがほぼ初めての俺は、竿の準備からすべてを榊原さんがやってくれた。
エサをつけた竿を手渡され、俺は竿を持っているだけでよかった。
中根はしゃがんでエサをつけていた。
「中根、釣りやったことあるの?」
「子どもの頃に、おやじに何回か連れて行ってもらったことがあります」
「ふーん」
母子家庭だった俺は、アクティブな体験に乏しかった。
「よし、できた」と中根は立ち上がり、竿を投げた。
そういえば、中根の家族のことを今まで聞いたことなかったなとふと思った。
「この辺は何が釣れるんですか?」
中根が榊原さんに質問した。
「アユとかハゼかな。もう少し上流に行くとイワナとか釣れるけどね。おっと、早速かかったぞ」
榊原さんの糸の先で、魚がキラキラと光っていた。
榊原さんは、針を抜くとその魚を川に戻した。
「穏やかで平和ですね」
中根が言うと、榊原さんは「これがいいんだよね」と白い歯をきらりと光らせた。
確かに、心が穏やかになるというか無心になれる。
川のせせらぎや鳥の声が耳に心地よく、時々、向こう岸の崖の上の林の木々がざわざわっと揺れた。
人の気配がまったくなく、三人だけが自然に取り残されているような感覚に陥った。
「竹村さん、勝負しませんか? どっちが先に釣れるか」
俺と中根の竿にはまったく魚がかかっていなかった。
「いいね。何賭ける?」
一瞬、妃奈の顔が浮かんだ。
「次のランチでどうですか?」
「いいね。俺は、トッピング全部載せするからな」
「じゃあ、絶対に負けません」
なぜか、榊原さんだけが釣れる。
魚は金持ちを見分けられるのか?
しばらくすると、榊原さんは余裕の表情で先に戻った。
二人きりになった中根は、急に黙り込んだ。
「竹村さん……」
向こう岸の林がざわめき出し中根の声が聞きとれなかった。
林の中から鳥が一斉に飛び立った。
それを目で追い、静かになると中根に聞き返した。
「えっ、何?」
「五番目ですよね?」
五という数字にドキリとした。
「えっ?」
「だから、竹村さんは五番目ですよね?」
中根とがっちり目が合う。
いつもの調子のいいおどけた顔ではなく、真剣な黒い目をしていた。
すぐに視線を竿の先に戻した。
妃奈のことだとすぐさま理解した。
やはり知っていたのか。
もうごまかせない。
でもどのように返事をすればいいのか。
そうだとも俺が五番目だ。
お前は四番目だろ。
偉そうに言うことでもない。
冗談ぽく、早く別れろよ、とふざけるのも痛々しいし、中根の真剣な顔つきから、今はそういう雰囲気じゃないことが分かる。
返事に困っていると、中根が口を開いた。
「俺、妃奈と付き合ってます」
「うん」とうなずくしかなかった。
「結婚するつもりなんで、竹村さんの順番は回ってこないです」
結婚? 手の力が抜けて竿を落としてしまった。
「すいません」
「そ、そうか……。二人でそういう話が出てるんだ」
「すいません」
「なんだよ。もっと早く言えよ」
懸命に笑顔を作って、いつもの調子のいい中根に戻そうとがんばった。
「おい、なんだよ、これ」
竿を引き上げると、エサだけがとられていた。
大げさに笑う俺の声だけが響き渡っていた。
「あ、俺もです」
中根も笑い出す。
「結婚式は招待しますんで、盛り上げてくださいよ」
やっといつもの明るい中根に戻った。
「竹村さん、もう少し奥の方が釣れるかもしれませんよ」
中根は、サンダルを脱ぐと、竿を持って水の中に入った。
もうランチの勝負なんてどうでもいい。
いや、もう勝負はついたじゃないか。
俺は負けたんだ。
「うわ、結構、流れが速いっす」
「おい、危ないぞ」
俺はすっかりやる気をなくし、座って石を投げていた。
「竹村さんも、こっちに……」
中根の声が途切れたと同時に、バシャーンと水しぶきがあがった。
「おい」
中根は、上半身まで水に浸かっていて、流れに抵抗しようと激しく手を動かしていた。
「おい、中根!」
竿をつかみ、流される中根を追いかけた。
「助けて! 竹村さん!」
岸辺から竿を投げた。
「これに捕まれ!」
思った以上に流れが速く、届かなかった。
浮き輪になるものを探したが使えそうなものはない。
中根の姿が小さくなっていく。
まずい。
「今、助けを呼んで来るから待ってろよ」
声を張り上げ叫んだ。
急いで林の中を抜けた。
早く助けないと中根が死んでしまう。
そのとき、ある考えが頭に浮かび、足が止まった。
背中にいく筋もの汗が伝い、身震いがした。
中根がいなくなったら、次は俺の番じゃないか。
無効になった整理券が再び復活することになる。
そんな怖ろしい考えが浮かんだことに驚き、そしてすぐに自分の考えを否定した。
人の命を何だと思っているんだ。
自分で自分を叱り、皆の元へ急いだ。
四人は飲み食いしながら談笑していた。
最初に高野さんが俺の姿に気づいた。
「勝負はどうだった?」
榊原さんから話を聞いたようで、ニヤニヤしながら俺を見ていた。
中根のことを伝えなくてはいけないと頭では理解しているのだが、意思とは反対に口が勝手に動いていた。
「俺が勝ちましたよ」
高野さんが、ヒューと声を出した。
「あれ、中根くんは?」
妃奈が俺の後ろをのぞき込むように視線を動かした。
「ああ、なんか釣れるまでやるって」
声が少し震えていた。それをごまかすように「あいつは負けず嫌いですから」と笑った。
竿を榊原さんに返して、ビールをあおった。
俺は何をやっているのだ。
どうして中根がおぼれていると言わなかったのだ。
もし、中根が生きて帰って来たら俺の嘘がバレてしまう。
いや、そうじゃないだろ。
大切な後輩を見殺しにしていいのか。
でも、俺が突き落としたわけじゃない。
中根が勝手に川に入って足を滑らしたのだ。
俺は、ちゃんと危ないぞって注意をしたじゃないか。
高野さんは、会社の上司のことを面白おかしく話していた。
「ね」と同意を求められても、俺の耳にはまったく話が入ってこなかった。
「私、心配だからちょっと見てくる」
妃奈が立ち上った。
手が勝手に動いて妃奈を制していた。
「俺が行く。妃奈ちゃんは危ないから待ってて」
妃奈がすとんと腰を落とすと、榊原さんが俺のあとについて来た。
「一緒に行くよ」
断るのも変なので一緒に歩き出した。
河原に出たら、中根がいないということで大騒ぎになる。
当然、流されたということで救助を要請することになるだろう。
もし、中根が死んでいたら俺の嘘がバレることはない。
しかし、もし、中根が生還したら……。
「いないぞ」
榊原さんが、慌てた様子で川下に歩き出した。
せわしなく水面に目をやる。
「中根~」
俺は、中根の名前を呼んだ。
「あそこに竿がある」
榊原さんが指差した方に、岩に引っかかっている竿が見えた。
「流されたぞ」
榊原さんは、携帯電話を取り出したが、電波がつながらなかった。
急いでテントまで戻り、救助を要請すると、妃奈が泣き崩れた。
高野さんは妃奈の背中をずっとさすっていた。
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