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翌日もいつものように自転車を漕ぎ、学校へ行く。融けることのない根雪は今日も足元に重くまとわりつき、冷たく凍みこんでくる。降り注ぐ陽光が目に痛い。いつもより重い足取りで学校へ向かった。
学校に近づくにつれて同じ方向へ向かう生徒が増えていく。しかしこれだけの生徒がいるにもかかわらず知っている顔はなかった。
校門をくぐって、駐輪場でようやく知っている顔を見つけた。
「ケイコ、おはよ」
ミカは去年のクラスメイトに声をかけた。クラスメイトではあったがほとんど接点はなかった。SNS上でもつながりはない。
「あっ、スズムラさんおはよー。今日もしばれるねえ」
ケイコは頬を真っ赤にしながら能天気な口調で言った。いち早く自転車に鍵をかけた彼女はそのまま先に行ってしまった。
騒がしい下足室を抜け、階段を上り、にぎやかな廊下を突き進む。二年三組の前の廊下では同じクラスの男子と隣のクラスの男子が一緒になって大きな口を開けて笑っていた。ミカは男子たちを一瞥し、横切った。
「おい! やめろって! 変な目で見られただろ!」
ミカの背中に男子の笑い声が届いてきたが、ミカは振り返ることなく教室後方の扉を開いた。別に変な目で見てなどいないし、そもそも何をそんなに笑っているのかもこっちは分かっていない。自意識過剰もいいとこだ。
教室の中は授業前の気怠さと消費前のエネルギーが入り混じっている。授業中は均一に並んで座る生徒たちが、それぞれのグループの定位置で固まっている。教室に入ってすぐの廊下側最後方の席では、クラスでもおとなしい男子が三人集まってスマホをいじっていた。ミカが後ろ手で扉を締めながら、見下ろすように覗き込んでみると、スマホゲームをしているようだった。
その隣の席、自分の席にかばんを下ろして、対角線にある席へと目を遣った。――窓側二列目、前から二番目の席には誰もいなかった。
ミッコやハルカはいつもどおりそれぞれのグループの中で笑っている。他のクラスメイトも同じだ。
誰かに「ユイは?」と訊きたかったが、その相手はいなかった。なぜならユイの一番の親友は自分で、自分が一番ユイのことを知っているからだ。
ミカは自分の席でひとりスマホをいじった。ユイは何も更新していなかった。
担任のトヤマ先生もユイの欠席について何も触れなかった。朝礼のあと、ユイがいない理由を先生に訊ねようかと思ったが、結局身体が動かなかった。
昨晩までの錆のような赤黒い感情は、静かな不安となってミカの腹に鎮座していた。
一時間目が始まる前の短い時間にもう一度SNSのアプリを開いた。当然、朝礼前から変化はない。ミカは自分のアカウントページを開いた。――黒々とした呪詛のような投稿。昨晩のこれを見た人間は『足跡』が残るので分かる。ミカをフォローしている友人、その中でも特定の友人にまでしか公開されていない。足跡のなかにユイの名前がないことを確認して、ミカは自分を安心させようとした。
しかし腹の中の冷たい不安は一向に消えなかった。もしかしたらユイがこの投稿を見てしまったのではないか――今更ながらに不安が増していく。
もう遅いと頭で理解しながら、ミカはその投稿を削除した。それでもやっぱり不安は消えなかった。
休み時間のたびにSNSを開き、ユイが何か投稿していないかと確認した。『体調が悪くて学校を休んだけど家でヒマしてる』なんて投稿がないかと思いながら何度も確認した。授業中にもバレないように机の下で開いてみたが、やはり何も更新はなかった。
変化がないことを確認するたびに不安が募っていった。
「ユイ、休んでるけどどうしたの?」
昼休み、お弁当を一緒に食べていたハルカから訊かれた。
「体調不良だって。風邪でもひいたんじゃない?」
ミカは心臓を弾ませながら咄嗟に答えた。
今朝削除した投稿をハルカは見ていた。ハルカはあの投稿を見てどう思っているのだろうか――ミカはそのことが気になっていた。しかし、そんなことを自分から訊けるわけがない。ミカは友だちの他愛のない話に笑いながら、もう一度スマホを確認した。やっぱり更新はない。その状況に不安はどんどんと積もっていき、あのときの怒りや嫉妬などとっくに埋もれていた。
翌日も翌々日もユイは学校を休んでいた。その間もユイのSNSは何の音沙汰もない。ユイの空白が続くほど、ミカの苦悶が続く。ミカも何かを投稿げる気になれず、更新が滞っていた。
自分は悪くないのになぜ罪悪感を抱かなければならないのかと、ユイへの怒りがよみがえったときもあった。なぜ誰も自分の心配をしてくれないのかと思ったときもあった。しかし、しばらくするとそれはまた不安へと変わりミカに重くのしかかった。
風呂上がり、ベッドに横たわりながらうつろな目と頭でスマホを触った。自分の感情などだんだん融けていき、ただ息苦しさだけが残っていた。
友人たちの楽しそうな投稿も今は見たくない。インフルエンサーたちのきらきらした投稿も鬱陶しい。それでも新しい投稿があればスマホは全てを突き付けてくる。親指に痛みを感じながら画面をスクロールすると、ひとつの投稿がミカの目に留まった。
マツヤマ君が幸せそうに女の子とピースをしているツーショット。隣にいる女の子はユイじゃない、ミカの知らない女の子だった。
ミカの胸の内が一瞬にして沸騰した。
ユイと遊んでおきながら、この男は別の彼女の誕生日を祝い、幸せそうに笑っている。
ミカは『よんごう』へのダイレクトメッセージを打ち込んだ。しかし途中ですべて消し、この投稿のコメント欄に怒りをぶちまけた。浮気男に、ユイの気持ちを弄んだこの男に制裁をかましてやらなければ。幸せそうな二人の写真の下にミカの怒りに満ちた言葉が書き込まれた。
ミカはユイにも教えてやろうかと迷った。「あなたの好きな男には彼女がいるよ」可哀そうな友人をさらに罵るためか、元彼女で親友をこれ以上傷つけさせないための言葉か、自分にも本心が分からなかった。ただ、今更どんな顔をすればメッセージを送れるのだろう。ミカはスマホを握りしめて迷った。
ピロン。
スマホが鳴った。
『いや、何か勘違いしてるみたいだけど、スドウはおれの従妹だぞ(笑)その日はプレゼント選びに付き合ってもらってただけだ』
ミカの顔面に朱が注がれた。
結局すべて勘違いだったのだ。
ユイは昔の恋にミカを捨てたわけではなかった。フラれたことに変わりはないのに、怒りや嫉妬の感情は消え去っていた。
マツヤマ君への怒りは恥ずかしさに変わり、今まで勘違いで勝手に嫉妬していたことにも恥ずかしさを感じた。そしてユイとマツヤマ君が付き合っていないことに胸をなでおろした。
しかし安堵の気持ちもまやかしだった。勝手な妄想でユイを傷つけるような投稿をしていたことを後悔した。
結局ユイはなぜ休んでいるのか。あれをどこかで見てしまったのか。ミカの中の不安はまたむくむくと膨れ上がった。
明日、ユイが学校に来れば声をかけよう。案外何事もなく「ちょっと体調を崩しちゃってね」という話になるかもしれない。ミカは自分に言い聞かせた。
――もし、明日も学校に来なければ?
ユイはわたしに会いたくなくて学校を休んでいるのだとすれば?
ミカは二度ユイを傷つけるような内容の投稿をした。あのときは自分が被害者で誰かに心配してほしかった。「何かあったの?」と言われたくて「ううん、大丈夫」と言いたくて、わざと遠回しな言葉で、でも誰にでも分かる内容でユイを非難した。ユイの目に留まらないように公開範囲から外して、「ミカがユイの悪口を言ってたよ」とならないように言葉を選んで。
そうだ。誰かが告げ口をするはずがないんだ。だってそれを見た人からすればユイのことだと分からないのだから。せいぜいわたしの元カレのことだと思うはずなのだ。
ミカは自分に言い聞かせた――わたしはユイを傷つけていない。
しかし得体の知れない不安は消えてくれなかった。
わたしは悪くない。
わたしは悪くない。
わたしだってユイにフラれ傷ついたのだ。
わたしは悪くない。
腹に冷たく横たわる不安の感情は消えない。
あの日、こうやってわたしは大事な人を傷つける言葉を手のひらから放したのだ。
ミカはもう一度スマホを握った。今度は傷つけるためではなく、謝るために。
ミカは文字を打ち込んだ。打っては消し、消しては打った。そして『送信』ボタンを――押さなかった。
ミカは寝巻の上から分厚いコートを羽織り、そのポケットにスマホを押し込んだ。
ルームソックスを外出用の靴下に履き替え、ブーツに足を突っ込んだ。ブーツの中には日中の湿り気が残っていてひんやりとしていた。
玄関を飛び出すと、すべてを凍てつかせるような空気がミカを襲った。
ミカは漆黒の中に駆けだした。
すべてが雪に吸収されたように音のない闇夜を走った。日中に融けた雪が凍り付いている。ミカは足をとられ、滑らせ、躓きながらも両足に力を込めて走った。
鋭い空気が肺の中まで凍り付かせる。蒸気機関のように吐き出した真っ白な息は夜空に融けていく。
空は雲一つなかった。真ん丸な月が優しく、温かなあかりを灯している。
ミカは走った。蹴り上げた真っ白な雪が月夜に舞った。
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